// 01.狩人

逃げなければ逃げなければ。
逃走しなければ逃亡しなければ逃避しなければ。
生き残れないし死んでしまう。
いや、これは結局どちらも同じ。
とにかく、逃げないと死んでしまうのだ。

 あと少しでも恐怖すれば、私はこの抱えている友人を落としてしまうだろう。 友人は足に怪我を負い、意識を失っていた。 だが落としてしまえば、私一人あの"化け物"から逃れるのだ。 逃れられるのだ。決してあの"化け物"は追ってくる気配はない。 それでも死にそうなぐらいの、怯え。 その怯えに必死に妙ながら私は、近くの村人すら踏み入れぬ森に まるで合わない一軒の家に逃げ込んだ。 看板にはシンプルに「病院」とだけ書かれていた。 誰もいない廃屋でも、本当に病院でも、なんでもいい。 私は逃げたかった。心の底から逃げたかった。 開ける扉は少し重たい。 疲れているせいかもしれない。 けれどまだ半分も開いていない状態で途端に軽くなった。 驚いて思わず身がよろけそうになりながら 私は扉を内側から開いたらしい男性に、懇願する。
「助けてくれ、村のものなんだが」
「どうかなさいました?」
 彼は愛想良く笑って、私が抱えていた友人を抱えかわる。 だが今の状態でそんなに微笑まれてもいらつくだけだ。 そして家……いや、病院にはもう一人、人がいたらしい。 まだ幼さの残る、険しい表情をした少年が 男性に指示されてその友人を抱え、ベッドのほうに連れて行った。 だが、決してあの友人は軽くはない。 寧ろ、すこし重めだろう。 それだというのに、よくあんなにも軽々とかつげるものだ。 そこで私は逃げ切れたという安堵感と、友人の重さがなくなったことで力が抜けた。
「――ああ」
 助かったのだ。あの"化け物"から逃げ切ったのだ! 私は勝った。鬼ごっこから逃れきれたのだ。 友人を一人犠牲にしたけれど、"化け物"に食われてしまったけれど、 あれは仕方がなかったのだ。 そして彼が食われたことで私とあの友人は助かった。 彼に絶大なる感謝すべきだろう!  そして、謝罪は?
「さてさて、じゃあ行くとしましょうか」
「え?」
疲労した私に肩を貸しながら、にこやかに彼は笑ったまま、言った。 一瞬、何を言っているのかわからなかった。 いや、今も何を言っているのかわからない。
「そんな、何処へ」
「現場です。ほら、事件は現場で起きているって言うでしょう」
 何処か彼の言うことは、ずれていた。 決してここは冗談ぶる場面ではない。 つまり、彼は。 ……本気と言うことだ。 私は決してあの場所にまた行くなんて、したくなかった。 したくない、ではない。 できないのだ。 本能から体が脳が否定してる。 もう一度行けば、死ぬと。 私は思わず涙を零しながら、何故か男性に許しを乞うた。 頼むと、助けてくれと、もうあの場所には行きたくないのだと。 でもやっぱり彼は、にこやかに笑うだけだ。 まるで私が許しを乞うのではなく、冗句でも言うように。 談笑しているように、微笑むのだ。
「あ、そうだ。あれも持ってかなきゃ」
 私の台詞を無視して、彼は置いてあったダンボールを探り始めた。 恐らく引っ越してきたばかりだったのだろう。 いや、それにしても探り始めたという表現は、正しくなかった。 何故なら彼はダンボールを開いて、真っ逆さまにしたからだ。 それは探るというよりも、落す。 落として床に散らばったものの中から、お目当てのものを探し出す。 大胆不敵としか言いようがない。 片付ける気も、一片たりとも見せない。 いや、本当に片付けない気なのだろう。 先程の少年は神経質そうだったから 恐らく後からこの惨状を見て、怒るのではないだろうか。 決して自分に怒られるわけではないが、何処かそら恐ろしさを感じた。
「じゃ、お目当てのものもありました、行きましょうか」
 にこり。 先程の"化け物"とは違う、恐怖すら感じられる。 私は頷くしかなかった。 病院を出て、彼についていくがふと気付いた。 私は彼に対して、あの"化け物"についてはまったく何も言っていない。 それだというのに、すべて知っているように彼は私が来た道を辿る。 辿るたびに、私の足は重くなる。 本能が怯える。 私は彼に声をかけた。
「あの」
「あ、ごめんなさい。僕の名前言ってませんでしたね。 ノアと言います。さっきのあの可愛い男の子は、エア。 街から引っ越してきたばかりなんですよ」
 そんなことは聞いていない。 だが声をかけたものの、何を言えばよかったのか 今さらながらわからない。 疑問はいくらでもあるというのに。 私が険しい表情をしていても 彼はひたすらあの可愛い男の子だという、エアくんの話しかしてなかった。 ゆっくりゆっくり、私は身を縮める。 体を守るように。 だが実際は全く体なんて守れないだろう。 あの友人の太い足を貫くほどの、あのしなる"腕"からなんて。 怖くて、怖くて、たまらない。 突然、目の前を歩いていたノアさんが足を止めた。 私も体を大きく反応させて止まった。 嗚呼、どうしてこんなにも彼は。
「ここですよねー」
 泣きたくなるぐらい、その通りだった。 けれどあまりに軽いリアクションに、私は反応せず ゆっくりゆっくり、膝をついた。 膝をついて、体を丸める。 逃げたくて仕方がなかった。 死にたくなくて仕方がなかった。 木がざわめくたび、体を無理矢理縮める。 彼は私なんていないように にこにこと場違いに笑い続ける。
「さてさて。では、ちょっと失礼」
 そういって私に近づいて、ぷつり、と髪の毛を一本取った。 少し痛かった。 けれど恐怖のほうが大きく、小さく唸っただけだ。 私はすこし顔を上げて、一体何をするのか見上げた。 小さい人形のなかに、私の髪の毛を詰めていた。 といってもその人形は、丸い腕と足と頭があるだけで 単純な形をした真綿の詰められただけのものだ。 それを正面にある、驚くほど大きい木に向かって、捧げた。 ゆらりと一瞬木が動いたような気がした。 見ていられない。 ノアさんが口を開いた。
「怒りなる主よ、哀れなる狩人の言葉に耳をお貸しを。 森を荒らし静を乱し、主を怒らせ清を乱した罪。 其れらの罪に謝を。 そして彼らの罰を此の森に以後入らぬことで許しを。 哀れなる、この罪人の約束をこの形代なるもので誓う」
 言っていることがよくわからなかった。 大体のことはわかるけれど。 "化け物"が、いや"木"が動いた。 しゅるりと、その"腕"を、"枝"を伸ばして。 その人形を巻き取る。 そしてゆっくりとまた元の位置に戻った。
『了』
 低く鈍い声。"化け物"の声か。 森全体から聞こえてくるような、頭の中に直接響くような。 吐き気がした。 口を手で押さえる。 くるり、と私に背を向けていたノアさんが振り返った。 やっぱり笑っている。 嗚呼、この人の普通が、笑顔なのだ。 ひどく歪んだその笑みが。 実際は歪んではいない。 寧ろその整った顔に笑みが浮かぶたび 女性は喜ぶんじゃないだろうか。 けれど男性の、いやこの際性別は関係有るまい。 今の私から見たら、酷く歪んだ、恐ろしい笑みなんだ。
「ねえ、密猟者さん」
 どきりとした。また吐き気が襲う。 怖い怖い怖い怖い。 なんで彼はこんなにも。
「この木、森の守り神……いや、主様なんですよ。 僕もね、引っ越すときに会ったんです。 彼が言うにはね、近くの村の人たちと制約してるそうです。 森を荒らさない代わりに、村人に手は出さない。 村人が昔から知っている、暗黙の了解、というか。 それだというのに、貴方はこの主のことを知らなかった。 この森って、他じゃ手に入らないモノとかがたくさんあるらしいですね。 それ目当ての――……狩人。いや、密猟者。 一応、お答えをどうぞ」
 けらけらと笑う彼。 正解だ。まるで正解。 私は、この森にしかないという薬草を取りに来た。 その薬草は、いわゆる幻覚作用などがある、麻薬だ。 だってしょうがないじゃないか。 私には母と妹がいた。 二人とも働けない年齢だ。 だからこそ、私が働くしかないじゃないか。 私がどんな手を使ってでも、お金を。
「……もうこの森には来ちゃ駄目ですよ。 何か目的の目的を果たす前に、死んじゃいますから」
 彼の笑顔につられて、笑いそうになった。 まるで笑えない出来事だというのに。 へらへらと。 どさりと音がした。 木の幹から、友人が出てきいた。 気絶をしている。 それでも死んではいない。 それでも、恐ろしい。
 その後のことはよく覚えてない。 自分でもわけのわからないことを叫んで、逃げた気がする。 ノアさんは呆れたように私を見ていた気がする。 でも私が見えなくなる前に、自ら視線をそらしたような。 友人はどうなったろう。 だがあれは友人と呼ぶにしても、表面上にすぎなかった。 きっとノアさんが見捨てても、エアくんが看病してくれるだろう。 あいつらは金だけはあるし。 そんなことはどうでもいい。 とにかく家に帰って、幼い妹を抱きしめた。 嗚咽を漏らして、涙を零して。 嗚呼、私は生きなきゃならない。 嗚呼嗚呼嗚呼。
「お兄ちゃん、泣いてるの」
「――泣いてないよ」
「そう、それなら良かった」
嗚呼。

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