形状記憶少女

// たしかに彼は「うりゃぁ」と呼んだ

「うりゃぁ!」
 そう言って死んだ愛猫を、わたしは見つめた。冬、炬燵布団の上でのことだった。

 彼はわたしより長生きで、もう二十年以上生きているはずだった。いつ死んでもおかしくない、という言葉がよく似合う猫だった。実際、長年ナワバリを争った野良猫とくりかえした喧嘩によって、左目は見えず、右後ろ足もひょこりひょこりと引きずっていた。内臓も悪くなっていた。心配から、外に出さなくなって五年は経つ。彼もまた外に出ようという気配も見せず、祖母が用意したタンスの上のカゴの中で眠り続けた。彼が降りてくるのは、冬の炬燵布団が用意されたときだけだった。
 彼が我が家に来たきっかけは、カゴを用意していないほうの祖母が亡くなったためだった。もとは猫屋敷で死ぬほど猫がいたところ、近所から苦情があり親戚宅や他の猫好きの家へひきとられていったのだが、最後の最後まで祖母が手放さなかった猫だった。娘であるところの母は猫が嫌いだったので、あの多くの猫たちがどこから引き取られてきたかは知らなかった。祖母の遺品整理をしながら、母はどうでもよさそうに呟いた。「たぶん、拾ったんじゃない」。母は、一重のまぶたを腫れさせていた。アレルギーだった。
 とにかく唯一残された彼をどうすべきか。祖父もとうの昔に亡くなっている以上、誰かが引き取るか保健所へ送るしかなかった。保健所はさすがにかわいそうだ。しかし、他の親戚の家にはもう猫がたくさんいる。まあまあ、いいからいいから、かわいいぞかわいいわよと伯父伯母にそそのかされる母だったが、「もう猫と暮らしたくない」とヒステリックな悲鳴を上げ続けた。伯父伯母は手慣れた様子で、耳をふさぎもしなかった。
 結局母が疲れ果て、うちで引き取ることになった。「あたし、可愛がらないからね」。そう母が言い切っても、伯父伯母は笑っていた。ペットを好む人々特有の「飼えば可愛くて仕方なくなるだろう」という確信があった。でも母はどうだろうか。小学生だったわたしは後部座席の後ろから、助手席でうつろに俯く、彼の入れられたケースを抱く母を見た。
「まあ、いいんじゃないか。もう十年以上生きてるんだろう、すぐに死んじまうよ」
 運転席の父がそうなぐさめると、母は首を横に振った。
「それはそれで嫌よ。死んで喜ばしいものなんて何もいないもの」
 まともな母は静かに感情的な声を上げて、目をこする。アレルギーだった。
 玄関でさっそくケースから放つと、彼は大した疑問も抱かずに二階へ上がっていった。私も行こうとしたが「手を洗いなさい」と母に手首をつかまれた。「どうせ猫を抱くのに?」「猫も洗うのよ。おばあちゃんの死体に寄りそってたって言うし」。おい、と父が母を小突く。母はわたしの手首をつかんだまま、わたしを見つめていた。不安げに瞳が揺れていたので、目をそらした。
 母は彼を放し飼いにしたが、寝室だけには入れなかった。
「おしっこされたら困るからね」
 まだひとりで眠るのが心細かった私は、母のベッドに寝そべりながら「そうなの」と適当に相づちを打った。
「そういえば、猫は生涯に一度、人間の言葉をしゃべるんだって」
 母も寝そべって肘をつきながら、どうでもよさそうに言った。
「たとえば?」
「知らないわよ。おばあちゃんが言ってただけだもん。嘘かもしれない」
「でも猫がいっぱいいる家にいたじゃん、一度ぐらいは聞いたんじゃないの」
「あれだけ猫がいたら、それこそ聞き取れないわよ。にゃあにゃあ、にゃあにゃあ、にゃあにゃあ……」
 可愛い鳴き真似をしながらも、母は泣きたそうな顔をしていた。しばらくすると本当に目を閉じたまま、すこし涙を流した。アレルギーじゃなかった。
「母さんは、あたしより猫を取ったのよ」
 母はわたしの頭を撫でる。絵本を読むときと同じ、感情のない声色だった。

 それでも母はまともなので、最低限の世話を欠かさなかった。しかし結局、情だけは彼に注ぐことはなかった。ただ彼にとってはそのほうが心地良かったのか、元気な頃は母の足元にしばしばすり寄った。母は足蹴にすることもなかったが、視線も向けなかった。
 そんな彼が死ぬ直前、「うりゃぁ」と鳴いた。私は静かになった彼の死体を見つめた。炬燵布団の上ですこし温まっていたが、触れるともう、死んだものならではの動きしかできないことがわかった。そこへちょうど、母が洗濯を干そうとやってきた。
「ねえ、お母さん。猫が死んだよ」
「そう」
 母はやはり彼に、視線を向けなかった。
「そういえばちょうど、動物霊園からはがきが届いてたわ。いったいああいうのって、どこで調べるのかしらね」
 どうでもよさそうに、そう呟いた。私は「そうだね」と言いながら、母のうなじを見た。母宛てのそのはがきがどこにあるか、わたしは探しに行かねばならない。

 「うらら」、それが母の名前だった。


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