// M

 ふと目を覚ますと、額から汗がにじんでいた。半纏を着込んだまま、こたつで寝ていたせいだった。頬を撫でると、畳の跡で波打っている。よろよろと身を起こすと、真向かいに座っていたMと目が合った。
「水飲んだら」
 Mはそう言って、机の上のグラスを顎で差した。うんと頷いて飲むと、ただの生ぬるい水道水だった。あいかわらずMは優しいのだか優しくないのだか、気が使えるのだか使えないのだか、わからない。でも飲み干す。目をつむって物思いに耽るMの顔に、おれは礼も文句も言わなかった。Mは口を開いた。
「よだれ、拭けよ」

 この部屋に住み始めたのは、Mと上京した三年前からだ。昭和に建てられた木造アパートで、床が古めかしい模様の台所、狭い畳敷きの居間、押し入れもない和室がふたつ、風呂はあるがトイレは共用だ。駅はまあ実家に比べれば近いほうだし、家賃はこのうえなく安い。不動産屋に紹介された一軒目で、おれもMも迷うことなく決めてしまった。Mは神経質だが、住む環境については無頓着らしいということは、一緒にいて十八年目にして初めて知ったことだった。
 Mと物心つく前から一緒にいたのは、母親同士の仲が良く、家も近かったからだ。田舎だし、互いに兄弟がいなかったし、Mの場合は他に友人もいなかったので、ほとんどずっとつきっきりだった。とはいえMも人見知りでも人嫌いでもないので、おれさえいれば同級生などとも上手くやり、また、それなりの情も受けていた。ただ、個人的に深く至ることはなかった。
「おれのことを深く知る他人なんて、おまえひとりで充分だよ」
 いつか俯きながら、Mはそう呟いていた。なんなら、「おまえの存在もたまに耐えがたいのに」とさえ付け加えていた。「失礼な奴だな」とおれが呟くと、Mは笑った。
 Mはしばしば、おれの悪態をついたけれど、そのくせ離れようとはしなかった。迷惑だと思ったことはなかったが、この先こいつはどうなるんだろう、と中学の頃から思い始めた。こいつと一緒にいれるのはせいぜい高校までだろうし、果たしてそれから、どうなるのか。いや、いざとなれば大丈夫だろう、と思わなくもなかったし、口に出せば「調子に乗んなよ」と蹴られるのは見えていたので、言わなかったけれど。
 結局、その心配も杞憂に終わった。というより先延ばしになった。入る予定の大学は違ったが土地は近かったので、母親たちが「なら一緒に住ませましょう」と言い出したせいだった。それならなんだか安心するし、なにより仕送りが少なくて済む、と目で話し合っていた。おれが彼女とか連れ込めないじゃん、と文句を言うより先に、Mが呟いた。
「どうせできねえよ」
 母親同士が目で話し合えるように、おれとMも同じことができた。でも大抵Mは目だけでなく、さらに強くおれに言い聞かせるように口に出した。だから、おれも言い返した。
「わかんないでしょうが」
 それで結局、できなかった。わりと頑張ったけど、まあ無理だったものは仕方がない。Mも欲しそうでさえなかったが、できなかった。
「ここで彼女といちゃいちゃしてるはずだったのにな」
 一度目の冬、こたつでそうぼやいた俺の背中を「おれのこたつだっての」とMが蹴った。Mの言うとおり、もとはMの実家の部屋にずっと置いてあったものだった。でも小学生の頃から夏休みは風通しのいいおれの部屋で過ごし、冬休みはこのこたつのあるMの部屋で過ごしてきたのだ。だからすっかり薄くなった布団ごと、愛着があったのだ。それこそ、きっと持ち主のM自身よりも。
 なのでおれは、ところどころ傷ついた天板に突っ伏したまま、猫撫で声でMに言った。
「ちょっとぐらい彼女と、いいじゃん、ねえ」
「ねえ、じゃないんだよ」
 ともう一度強めに蹴られてしまい、交渉は決裂した。
 そして二度目の冬もおれはだめだったわけだが、Mに彼女ができかけた。飲み会で泥酔したおれを世話焼きな後輩が送ってくれたときに、顔を合わせたのがきっかけだ。強気な瞳で、口を一文字に結んでることのほうが多い女の子だった。
「あの人、いいですね。今度、ちゃんと紹介してください。先輩には女の子、紹介しますから」
 流れるような命令と取引があり、おれは考える間もなくうなずいていた。あのときMにどう頼み、またどうして了承してくれたか覚えてないが、とにかくMと後輩のランチデートは成立した。しかし次の日、後輩はなんとも言えない表情で俺に近付いてきた。
「あの人、おしゃべりな人だと思ったんですけど」
「えっ、どこが?」
 初めて聞いたMの印象に、おれは心底驚いた。後輩はそんなおれをちらりと見て、視線を落とした。
「わかったんです。先輩のこと以外は、無口なんだって」
 言われてみればたしかに、Mはおれへ悪口を言うときだけは多弁だった。きっと後輩が家まで送ったときも、泥酔して意識も曖昧なおれに、Mはさんざん悪態をついたのだろう。それで後輩と盛り上がった。簡単に想像できた。
「だからこそ、きみと相性が合うんじゃないの」
 彼女もまた家の方向が一緒だからとか、サークルで同じ役職だったからとかでおれの世話をさせられ、しばしば文句を言っていた。けれど彼女は本当に嫌そうに「嫌ですよ」と言う。
「先輩の話でしか盛り上がれない人なんて、最悪じゃないですか」
「最悪まで言っちゃうか?」
 とはいえ、それもまたごもっともだ。おれもおれのいないところで、おれの話で盛り上がり続けられても困る。
「ま、あいつはおれがいないとダメだからな」
「ええ、きっとそうですね」
 おれの冗談は後輩のいつもの真顔で受け流されて、Mの数少ない色恋沙汰は終わった。そして俺も女の子を紹介してもらったが、なんの実にもならずに終わった。
 そんな昔話を思い出しながらMを見ていると、気付かれた。
「なに?」
 不機嫌そうに眉をしかめ、口の端を下げていた。Mは大抵が不機嫌そうだった。
「なんでもないよ」
 おれはこたつに突っ伏す。Mとこの部屋で、もう三度目の冬を迎えていた。しかし来年の冬には就職が決まっていて、Mと離れる準備をしてるはずなのだけれど、いまいち想像がつかない。
「おれたち、ずっとこのまんまなのかなーって思っただけ」
「んなわけないだろ、気色悪いこと言うな」
 Mはそう言いながら、瞳を揺らした。それから、薄い唇をほとんど動かさずに言う。
「このまんまで、いられるわけないだろ」
 俺よりも、自分に言い聞かせるみたいな声色だった。M、とおれが名前を呼ぶと、こたつの中で蹴られた。視線も逸らされた。
「そんなことより明日、こたつ片付けるぞ」
「え、なんで」
 Mは視線を落としたまま、こたつ布団を爪で引っかく。
「もういらないだろ、一月だって終わるんだし。つうか古いんだから、もう捨ててもいいぐらいだ」
「いやー、まだ全然いるっしょ。ほら、見てみ」
 カーテンをかけていないおかげで、刷り硝子の窓越しに、ちらちらと降り出す雪が見えた。実家では雪は降らないので、毎年ものめずらしく思えた。
「窓開けようか」
「やめろ馬鹿、寒いだろ」
 Mがおれの足首をつかむより先に、立ち上がって逃げる。鍵も閉めていなかったおかげで、指先ひと押しで全開になった。部屋の明かりが降りて、墓石に降り積もる雪が反射する。息を吐くと、暗がりに白くにじんで消えた。
「おい、まじ、ふざけんなよ」
 Mは寒そうに声を上げるので、おれは笑った。
 つんと冷気を感じた肌が張り詰めると、思い出した。まだ地元にいて、このこたつで眠っていたとき。うっすら目を開くと、天井の代わりに逆さのMが見えた。Mはおれに顔を寄せて、すこしあたたかな息を吐いた。互いのくちびるが触れそうな距離だった。でも、触れる前に離れていった。それからMは気だるいため息をついて立ち上がり、窓を開けた。額から汗がにじむような暑さのこたつと、頬を撫でる冷たい風で目を覚ました風に、おれは身を起こした。Mは、空気を入れ換えたかったのだと言った。
 それ以上、何もなかった。おれはたずねることはないし、Mが何か口にすることもない。きっとこれからも。あるいは、たぶん。
「もういいだろ、寒い、閉めろよ」
 Mは不機嫌そうに声を荒げるので、おれも強く言い返す。
「こたつ、必要だろ。絶対、捨てないからな、来年も再来年もな」
「うるせー」
 Mもこたつから出て来て、おれの背中を殴った。
「なあ、M。あとで外の空き地行こう。雪合戦だ」
「いいや、今とどめをさしてやるよ」
 嬉しそうに笑うMともつれ、突き落とされそうになりながら、おれは思い出す。Mの誕生日が近い。Mは、冬の終わりの生まれだった。

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