// 黒猫の宝石

 黒猫は言う。
「もうおまえで、何人目の人間なのだか。ぼくにはわからないが、ひとつ言っておくと、決して数字を数えられないわけじゃない。数えるのをやめただけだ」
 黒猫のいう人間は、人間がいうご主人様のことだった。黒猫いわく、主人と認めた人間はただのひとりもいなかったと、さして厳しい風でもなく言ってくる。あたしがだらしなく微笑み返しても、黒猫はこちらを見てはいなかったから意味がなかった。
 黒猫は昼から太った体を押し込んで、本棚の一番下の暗がりで眠っていた。本が入っていない棚も本が入っている棚も埃かぶっていたのだが、黒猫が眠る場所だけは埃なんてひとつとない。代わりに、黒猫が手入れをしているところを見たことがない毛並みは、案の定あんまりに汚かった。かといってあたしが風呂に入れようとするとどんなときよりも怒り狂って、暴れまわった。あたしの身体にいくつも線が走るし、たまに血がにじむ。
 風呂を出て落ち着いた黒猫はふと、今さきほど気が付いたようにたずねる。
「おまえ、その傷はどうした? また、どじでもしたんだね」
 お風呂の黒猫は、黒猫も知らない黒猫らしかった。
 本棚の黒猫はあたしに気付くと、ゆっくり、またたきをする。光をなるだけ取り込もうと、黄色い瞳の瞳孔を大きく開いていた。
「あたしが宝石をよく知っていたならば、宝石で例えてやりたいぐらい綺麗な瞳をしてるよ」
 言いながら顎のあたりを撫でてやると、黒猫は目を細めた。ざらついた舌を見せて、語り出す。
「昔、よんじゅうごにんめの女がいた。ぼくが長生きする猫だと知ったら、ごはんじゃなくて宝石を食べさせるようになった。他人は信用できないから、ぼくを金庫の代わりにしようとしたんだ。でもぼくが排泄もしないとわかると、女は怒り狂った。怒り狂って、そのまんま、死んでしまった」
 あたしをからかうための黒猫の冗談なんだか、真実なのだか見抜けなかった。あたしが唇をきゅっと結んでいると、遠い目をした黒猫と目が合った。
「いつかぼくが死んだとき、辺りには宝石が広がるのかもしれない」
 とはいっても、幾年生きたのだか生きるのだかわからない猫の死を、あと数十年ばかりしか生きられないわたしが見られるとも思えなかった。そう思っていたのに、黒猫は冬に死んでしまった。黒猫は自分の寿命を知っていたのかもしれなかった。

 死ぬ直前に、黒猫は一匹だけ子猫を産んだ。
 次の猫も黒猫だった。小さく、しゃべれなかったが、風呂が好きだった。猫好きの友人から教わって、顔に湯がかからないよう、怖がらせないよう注意深く風呂に入れたおかげだった。黒猫も小さい頃からの付き合いがあれば、そうさせてあげられたのかしら、と思うとちょっと泣けた。黒猫の口の悪さには何度も泣かされたが、黒猫が死んでからも、あたしはなんども泣いている。
 次の猫が初めて瞳を開いたときにも、あたしが思わず泣いてしまったことさえ黒猫は知る由もないのだ。黒猫、あなたの宝石は、たしかに受け継がれているのよ、と。あたしはそんな手紙を走りつづって涙で文字をにじませいたこと、あなたに今でもからかってほしい。

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