// あなたの口

 あなたの口は、ためらいがない。
「母が死んだらしいのだけど」
 あなたはそう言いながら、ピザを食べる手は止めない。止め方がわからないのかもしれない、とわたしは考えた。でなければ、どうして口の端から垂れるチーズを気にしないでいられるのか。あなたが選んだピンク色のラグマットにこぼれ落ちるかけらを、どうして見ないふりできるのか。
「あたし、葬式へは絶対行かない。小さい頃から決めてたの。ずいぶん酷いことされて、母が嫌いだったから。母は女だったの。だから女のあたしを嫌っていた。男を取られると思っていたに違いないわ」
 一緒に住み始めてからときおり掛かってきた、あなたを心配する中年女性からの電話がもしあなたの母親であったならば、と考えたら胸が痛んだ。けれど、あなたの言葉はいつだって嘘か本当かわからない。聞くたびに変わる言葉は柔らかな生き物のようで、私のもとに居続けなかった。暴力を振るう父から逃れるために母とふたり支えあった日々を語られたのは、一週間前のことだ。
「そんなことより、ピザをいつも届けてくれる彼なんだけど、あたしのことを好いてて困るの。いつも身体をじろじろ見てくるのだけど今日なんておつりを返すとき、わざとあたしの手に触れてきて。わかるのよ、女ってそういうことが」
 そうなの、と私がやっと囁くとあなたの小さな目がこちらを向いた。不思議だった。どれほど瞳が小さく、脂肪に埋まれていてもわかる視線の存在が。
「そう、そうよ。まあ、あんたにはわからないでしょうね」
 人差し指、中指、それから親指。あなたは順番によく肥えたそれらをしゃぶる。油を唾液に代え、満足するとタンクトップに擦りつけた。手慣れたしぐさだった。
「ああ、ようやく睡眠薬が効いてきたみたい」
 歯並びの悪さなど生まれてこのかた気にしたことがないように、あなたは大きくあくびをする。夕方であることやリビングであることが、あなたの睡眠を妨げるなんてありえなかった。手近な毛布をつかむとあっという間に包まって、あなたはいびきをかきだした。
 あなたが飲んだ睡眠薬は、とても強いものだった。一度だけ知らないうちに飲まされたとき、長らく眠りに就いてしまい仕事にも行けなかったことがある。そのときの「あんたを何度も揺さぶったりしたけれど起きなかったから」というあなたの言葉は、決して嘘ではなかった。体中の知らない青あざがそれを証明していたから。
 あなたは薄く口を開き、唾液が頬を伝っていた。私は人差し指と中指を差し込んだ。ぬるく濡れた口内を広げる。前歯が指先に食い込んでも構わなかった。あなたの口は、眠っているとおとなしい。素直に開いたまま、動きを止める。呼吸も止まる。呼吸はいつもしばらくすると、大げさな音を立ててよみがえった。抜いた指の唾液は、あなたのタンクトップで拭った。
 私はラグマットに落ちたかけらを拾い集めて、あなたの口の中にまた落とした。あなたの抜けた髪が混じることもある。器用に眠るあなたは、目を覚まさないまま髪だけを口から引っ張り出した。だから、気にしたことはない。
 あらかた拾い終えると、キッチンの下の棚からプロテインを取りだした。粉状のもので、お店の人に勧められたいちばん質が良いものだった。コップ一杯ぶん作るとあなたの横に戻り、スプーンで少しずつ口に注ぐ。それだけだった。あなたは唾液と一緒に飲み込んでいく。肥えていくあなたを見るのは、植物がすくすくと育つのを見るように心が穏やかだった。子供が育つときも同じ気持ちになるのだろうか。それならばきっと、この感情のみなもとを母性と呼ぶのだろう。
 ねえ、私も女なのよ、という囁きのあと、あなたは大げさな音を立てて呼吸を取り戻す。

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