// 幕が上がる

「肉体は許したほうが良いんだよ」
 と恋人は言った。だからわたしは、そうね、そうね、と何度も頷きながら机の下のスカートをめくり、内太股のふくらんだ傷あとを撫でていた。人生でこれ以上に愛せる人がいないと思う恋人から言われても、また、わたしより十年も長く生きた健やかでまっとうな人生を歩む大人の男性に言われても、やはりそのとおりだとは思えなかった。
 ねえ、わたしだって生まれつき肉体を信じていなかったわけではないの、と恋人を見つめた。恋人は薄い珈琲を見つめていた。幼い頃はむしろ、この美しくりっぱな肉体は永遠なのだとさえ信じていた。けれど“ろくでもない”、ふいの事故があった。
 そう、事故だった。のろまな若い娘が自動車のブレーキを踏み誤って、わたしに気付きながらも轢いていったのだ。気を失う前の、ごめんなさい、という悲鳴だけは覚えていた。それほど大きな怪我はしていない。ただ内太股がガードレールとぶつかって深くえぐられたて、そこから血がずいぶんと流れ出た。初経もおとずれていなかったのに。それからしばらくして、のろまな若い娘は首を吊った。父が教えてくれたのだ。
「当然よ、あなたの肉体を傷つけたのだから」
 母もそう言った。ふたりはその前の晩にかかってきた電話を知らなかった。夜半に受話器の向こう側から泣きながら囁く、のろまな若い娘の声を。
「どうか、おゆるしください」
 なんにも返せないうちに、電話は切れてしまった。あの頃の肉体は、まだわたしのものではなかった。守ってくれていた両親のものだったのだ。しかし、もはやわたしも、わたしを産んだ母の年を迎えていた。今なら、と思うし、今でも、とも思う。
 ねえ、とわたしは恋人に言う。
「血を与えてくれた人が、死んだことがあるの」
 のろまな若い娘は血が足りなくなったわたしに多くの血を与えて死んでいった。輸血用の血液がなくて、両親も仕事ですぐには来れなかったせいだった。
 恋人はほんの少し目を上げ、下げた。
「いずれみんな、そうなるだろう」
「いいえ、無理なの」
 恋人の視線がこちらを向いた。
「ねえ、わたし、子供が産めないの」
 産めない子供に血を与えられないし、産まれない子供に血を与えてくれた人が死ぬこともないの。恋人の瞳孔を永遠にじっと見ていたいような気がしたのだけれど、すぐに腕時計に視線を移して席を立った。
「時間だから」
 恋人は止めない。けれどこのあと、きっと何通もメールを寄こすんだろう。
 わたしは店を出て、タクシーに飛び乗った。コンサートホールに着くと裏口から入り、楽屋でドレスと化粧をした。ざわめく客席の声を幕越しに聞きながら、わたしは舞台に立った。のろまな若い娘にもたらされた傷と血による肉体でもって。踊らねばならなかった。わたしは内太股の傷あとを撫でた。わたしの指先は知る。この肉体が、たしかに脈打っていること。
 そして幕が上がる。

( 150417 ) €€戻る
inserted by FC2 system