// 初恋

 ほとんどの子どもが同じ小学校、中学校を経るような田舎だったものだから、早いところその狭いコミュニティで恋を見出さない限り初恋なんて訪れようもなかった。と、いうのはきっと私の勝手な話で、好きになれる男の子なんてちっともいないと言っていた友人達があっという間に塾で一緒になった他校の男の子を好きになったり何歳も上の男性教師を好きになったりしていたのだからできないことはなかった。ただ私は元来の臆病者だから他校なんて得体の知れない人も何歳も上の男性教師も正しい恋愛、正しい初恋ではないような気がして、まず相手にされるわけもないのに上手くいったところばかり想像して身を引いていた。
 思春期の恋愛はどうにも人格に直結しすぎている。足が速い男の子や優しい男の子を好きになった友人たちがどうして恋しないのかわからないと私をさんざん否定する。欠陥扱いする。正しくはあった。私はこうして意味不明なことばかり考えて考えて誰にも言わないで高尚なものだとか理解されないものだと思い込んでいる。そんなことを考える人間は欠陥だ。存在自体が欠陥だ。だから正しいのだけれど、他の恋をしない女の子たちは決して欠陥とは言い切れない、ということだ。まあ、そんな子を目にしたことや関わったことはないから、ひとまず概念を固定しない程度の意味しかないのだけれど。
 だから中学二年生のとき都会から転入してきた彼を好きになってみるしかなかった。そんな使命感もあったし、なくてもきっと私は恋に落ちていた。彼のちょっとしたことにつまずいて、足をすりむいて、だくだくと流れる血やじんじんしびれる痛みが彼のことを忘れさせない。きっとそんな感じで。
 彼の両親が離婚を決めて彼は母についていくことを決めて彼の母は彼の祖父母がいる地元に帰ることを決めた。どうして離婚したのだか結局知る機会はなかったが、離婚のためなら彼の人生はどうなったっていいと考えるような人間だったわけではないらしく、きっかり四月の春に私のクラスに転入してきた。そつない自己紹介。うちはたしかに田舎だけれど、都会っ子だからといじめるほどのアイデンティティがある田舎でもない。だから大きなイベントはなく記憶にもないほど自然に溶け込んでいった。
 私と彼が初めて話したのは夏、理科室で席順が向かい合わせだったとき、プリントを渡そうとしたら、というそんな甘酸っぱい青春っぽい初恋っぽい思い出だった。

「長戸くん」

 彼は顔を上げなかった。もくもくとノートの隅に何かを書いていて、聞こえなかったのかなと思って私はもう一度すこし声を大きくして呼び掛けた。

「長戸くん?」

 彼ははっとしてようやく顔をあげて、私と目があった。綺麗な二重の瞳はなんとなく都会っぽいなと思ったんだけど別に二重の子なんて田舎にだっていくらでもいる。それでもちょっと良く見えたのは私がすでに恋に落ちていたという証拠だったのかもしれない。

「ごめん、それおれだね」

 彼は何にも言わないでプリントを受け取るとまたノートに向かった。そうか、そうか、と私は思った。離婚で名字が変わったから気付けなかったのだ。彼からではなくて情報通な友人がどこかから仕入れた話を思い出して、私はなんとなく推理小説の犯人がわかった探偵気分で気持ち良かった。私はちらりと彼のノートの隅を盗み見てみると、よくわかんない漫画のキャラと一緒に小さくほっそりとした字が並んでいた。

「長戸」

 自らに刷り込もうとしているその行為に、私はもう一度、そうか、と思った。だって男はごく普通に大衆的に一般的に生きていけば名前を変えることがあっても変えさせられることなんてないもんな、と。理科室の机の誰かが焦がした跡を見つめた後、私も真似してノートの隅に書き記してみた。

「長戸」

 それからついでに、彼の名前が思い出せなかったから、自分の名前を続けてみた。

「長戸なお」

 イニシャルはN・Nか、格好悪いな、と思った。それきり。
 だったはずなのだけれど、授業が終わってすぐそれが情報通の友人に見つかってしまって、私が彼のことを好きなのだとすっかり勘違いされてしまった。しかもそれがスピーカーみたいに喋って回る友人にまで見つかったからもうだめだった。あっという間に私は彼が好きなんだという事実が既成化されて当事者であるはずの私が追い付けなくなった。でもひとまず思春期らしく彼と私はお互い全然しゃべらなくなった。いやもう、まずしゃべったことさえほぼなかったのだから、それが正しいのかわからないけれど。少なくとも私は欠陥女子の汚名を消せ、彼はモテ男だと認められた。事実はそれだけだった。内容は、さておいて。
 どういうところが好きなの、いつ好きになったの、相性診断しようよ良いの知ってるよとか。友人たちは優しく熱のこもった声でさんざん言ってくれた。皮肉ではなかった。だから私も答えなくてはならなくて、字がきれいなところとか、いつからかはっきりわからないけど転入して春過ぎた頃とか、相性診断良いねでも私彼の星座も知らないよと言った。丁寧に、応援されて嬉しい思春期の女子のように。
 冬を迎えたころ、ようやく一度話したのはなんとびっくり彼からで、しかも誰もいない放課後の靴箱だったからさすがの私も少女漫画脳がうずいてしびれて死んでしまいそうな気になった。
 あのさあ、と気だるげに田舎によく慣れた声色で彼は言った。

「別にあなたは」

 なのに彼は妙に大人びた二人称を使ってくるからさらにびりびりしてしまって、腰のあたりが震えた。

「おれのこと好きじゃないでしょう」
「うん」

 けれど根元の私はいつもどおり冷静だったので間を置かずうなずけた。彼もほとんど間を置かないで返す。

「自意識過剰な男子中学生がうのみにしたって思われたら嫌だから、はっきりさせておこうと思って」
「わかるよ」
「うん、それだけ。じゃあ、バイバイ」
「バイバイ」

 ひらひら、彼は手を振った。私も手を振った。友人にさえなんとなく恥ずかしくて振らない手を振った。余計なことしやがって、と私は思った。こんなことがなければ恋に落ちなかった。真実なりえなかった。私は本当に欠陥を失くした。私としては喜ばしくなかった。だってもう好きになった瞬間に振られていて、というか私も好きじゃないって言ったからこそ好きになったのであって。好きになる前から失恋、好きになった瞬間失恋、どっちが正しいのかしらどっちも正しいんだろうなといった趣だった。初恋だった。突然自意識が暴れ出して、私はウーウー唸りながら泣きながら家に帰ることしかできなくて、それから春があって中学三年生があったのだけれど私も彼も話すことはなかった。やがて友人たちも一切進展のない私たちのことなんて忘れてしまった。流行り病か何かのように思っていたんだろう。私も思っていたのだから仕方ない。
 卒業式しかなかったのだ、もう。私の初恋も一緒に卒業というわけだ、ばからしい。彼は公立高校へ進み、私は私立高校へ進む予定だった。きっともう二度と会わないだろう。私は死ぬほど良いタイミングを探って、っていうか卒業式が終わって彼の祖父母と母が住む小さなトタン屋根の家まで着けさえした。それで家に入る直前に声をかけた。

「長戸くん」

 もうずっと呼んでいなかった名字だけれど、彼はこの二年でずいぶん馴染んでしまったからすぐさま振り返った。

「あ、どうも」
「第二ボタンください」
「ええ?」

 美しい二重の瞳を輝かせながら眉をしかめる上手さよ。

「彼女にあげてしまったよ」

 そう、この二年の間に彼は彼女さえ作った。一つ年下の田舎くさいけれど純朴で可愛い彼女さん。バトミントン部の部長を任されて緊張でぐるぐるしていつも泣いてしまいそうな顔をする私の可愛い後輩。いちばんの仲の良い後輩。付き合わせるのだって私がだいぶお膳立てした。って言っても情報通の友人からもらった情報を流しまくったのを後輩が上手く活かしただけだけれど。

「知ってる」

 私はなんだかへらへらして、謝った。

「ごめんね、こんなはずではなかったんだけれど。後輩の彼氏に第二ボタンねだるなんて、きちがいにもほどがあるよね」
「そんなことはないけど、他のボタンじゃだめなの、そっちならあるけど」

 案外と優しい提案だったけれど、私は首をかしげてしまった。

「ううん、正しくない気がする」
「それもそうか。じゃあ、そっちのスカーフをおれが貰うとか」

 ぶっと笑ってしまうのをなんとか耐えて、うつむいて、ちょっと泣きそうなのを我慢して、顔を上げた。

「これこそ、君の彼女に上げる予定なんだ」

 彼はぶっと笑った。そうか、そうか、と言いながら。

「じゃあ、彼女に言っとくよ」
「私が第二ボタンをせびってきた話を?」
「まさか」

 かといって他の想像も私にはできないけれど、彼はきっと悪いことはしないだろうという想像だけがしっかりとあった。

「好きにして、ありがとう、長戸くん」
「こちらこそ」

 それから本当にもう、彼とは会っていない。
 明くる年度の後輩は、私が上げた赤いスカーフの結び目に彼の第二ボタンを縫っていた。気が向いたときには見えるように結び、教師に怒られそうなときには隠して結ぶ。そんなことを他の女子たちも真似し始めて、やがて伝統みたいになってしまったという。後輩が熱弁するのをまたまたと笑っていたけれど、見かける知らない後輩の女の子たちがそんなことをしているのだから驚いた。大学は東京だったから一人暮らしのため上京したのだけれど、成人式を迎えるために帰省したときにもそんな光景を迎えた。
 成人式、同窓会で彼が来るらしいから、きっと目があったら笑ってしまうんだろうと思う。思春期と言う病をこえた私たちはきっといくらでもしゃべれてしまう。美しい永遠の思い出として、きれいにきれいに磨きぬいて。欠陥なんて忘れてしまったみたいに。

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