// 笑う女

 きみはほんすこしだけ笑った。ほんのすこし。それはつりあがった口角の低さのことであったし、口角をつりあげていた時間の短さでもあった。きみは本当に、ちっとも笑わない女だった。
 長い夏季休暇の後、ゼミを終えたぼくは喫茶店の窓際に座っているきみの見つけてしまった。普通の女性より背の高いきみは、座っているときばかりは猫背がひどくて普通の女性みたいに小さく見える。まっすぐとした長い黒髪は一度だって染めたことがないだろうし、ぼくの妹のようにパーマをあててようやく成り立ったものなんかでもないんだろう。もしひとつでも作り物だとしたら、ぼくはつい泣いてしまうかもしれない。
 窓一枚挟んで目の前に立ってもきみは気付かなくて、本を読んでいた。カバーをかけるのが好きではないから、題名も作家もすぐにわかった。やっぱり、ぼくの知らない本だった。
 喫茶店の窓を二度叩く。隣に座るおじいさんがちらりとこちらを見る。きみはまだ気付かない。ぼくは店に入るしかなかった。きみはぼくを意地でも観測しない。それは意識的であれ無意識であれ、きみらしいことだった。ぼくがきみに気付いて、きみの直角めいた肩にぼくの手が着地するまで、きみの世界にぼくはいない。シュレディンガーの猫だ。そう、ぼくはきみの猫。そんなことを口にしたら、きっときみは怒るんだろう。とても猫が好きな人で、ぼくのことが好きではない人だから。
 きみはぼくに気付くとすぐに本を閉じるし、冷えたコーヒーもためらいなく飲み干してしまう。きみは立ち上がる。ベルトで結んだ教科書と本を手にする。ぼくはうなずいて、店員からコーヒーを入れてもらった水筒を受け取って、店を出た。
 ――公園へ行きましょう、今日は天気が良いから。
 低いざらついた声は、久しぶりに人としゃべる魔女のようだと思う。ぼくときみの唯一の狂数する友人は、あれは酒焼け、それから煙草のせいだ、と夢のないことを言う。夢がないということは、できすぎていて似合いすぎているということだ。たとえきみが酒を嫌い、煙草も吸わぬ人だとしても。
 公園までの道のりはおだやかで、すでに天気は秋を迎えていた。きみはもう茶色のセーターを着ていて、ぼくが半袖であることに、まだ、という言葉を付けくわえさせたくなるほどにしっくりきていた。
 ――こわいと言われるの、いろんな人に。
 きみはふいに告白めいたことを口にする。きみから口を開くこと、ましてやそんな抽象的な話題であったことにぼくは驚きながら尋ね返した。
 ――いろんな人って。
 ――いろんな人よ。四半世紀生きるうちに関わってきた、いろんな人。
 ――では、初めてこわいと言った人は。
 きみは黙ってしまう。ぼくは声が聞きたくて、わざときみが聞いてほしいことまで遠回りしただけなのに。長らく、きみは本当に長らく、黙ってしまう。ぼくのせいで。ならばこれはぼくの時間だった。ぼくがきみから奪った時間だった。きみが口を改めて開いた頃には、もう個円についてしまう。ベンチに座って、ぼくが水筒から注いだコーヒーを差し出して、一息ついて。それらすべてがなければ、きみは一生口を開けなかった気がした。
 ――はじめは母に。次は祖母に。その次は、隣の家に住んでいた幼馴染。
 ――そうか。こわいと。
 ――そう、こわいと。
 言われたのだろう。そうだろう。きみは笑わない人間だから。
 ――でも笑うと、気味が悪いと言われて、むつかしかった。目が笑っていないという言葉は、どこか暴力。わたしの真実はどうあれ、他者の一方的な選択。あれはずるいもの。そう、昔はなんといっていいのかわからなかったけど、ずるかったの。みんな、みんな……。
 ――ずるい。ずるいか。でもそのずるさも、きっと誰かにとっては暴力的だ。
 きみは笑う。ひっそり、目の奥はしんと静かなまま、どこかで覚えた笑い声だけを喉の奥から再生してる。
 ――わたしは、わたしの話をしているの。どこかの誰かは今ここにいなくて、つまりどこにもいないのだから。
 きみはやっぱりいつだって、猫を飼っているらしかった。
 ――ここの公園に、猫がいるの。
 思考が読まれたのかと思って、ぼくはついびっくりしてきみを見た。きみもまたぼくを見ていたけれど、驚いてはいなかった。
 ――でも今はいない。いても仕方ないのだけれど。
 ――だろうね。だってきみは……。
 猫アレルギーなのだから。言わずとも、きみは知っている。だから笑わない。
 ――ああ、畜生。いてもいなくてもわたしは泣いてしまうのにね。
 きみは宣言通り泣く。君は本当に笑わないくせに、よく泣く女だった。そんなきみが、ぼくはとても好きであることを言ったことはない。

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