// 春

「おはよう」
 と、姉がふいに声をかけてきたのは、午前五時ちょうどだった。今の鳩時計がそれを木造の家中に響かせたせいで目を覚まし、ついでに尿意を解消しようとトイレに立ったところだ。すぐさっき風呂から上がったように髪を濡らした姉がキャミソール姿で居間にいたのだ。眠気と驚きで、反抗期らしくしばらく会話をしていなかったことも忘れて、「何がおはようだよ」と返してしまった。返してから少し、後悔した。姉はからかうこともなく、微笑む。
「もう朝だよ。すぐ日が昇るよ」
「まだこんな寒いだろう」
 諦めて会話を続けながら、姉の素肌に目をやった。鳥肌は立っていないけれど、少し肌寒そうだった。
「寒いのは平気」
「知らねえよ」
「ねえ、ベランダ行かない? コーヒー淹れるから、少し話そうよ」
「やだよ、寝るよ」
 いいじゃん、と姉は腕に絡みついてくる。いくら顔立ちがうまく生まれた女であるところで、姉なのだからどうしようもない。振り払おうとしたけれど、案外その力が強くて振り払えなかったのに驚いた。
「お小遣いあげるからさ、日が昇るまで相手してよ」落ち着いた声色は、なんとか止めようと絡みつくように、甘く、静かに。「ねえ」
 知っていたのだ。化粧をしなくたって、姉のまつげが長いことは。
 インスタントコーヒーをふたつ用意したカップに注いで、両親や祖母を起こさないよう、ひっそり二階の廊下から出れるベランダに出た。サンダルはひとつきりだったから、姉にやった。コンクリートの地面は熱をぐんぐん奪っていくものだから、足をすり合わせた。日が昇るまで、まだずいぶんある。話に乗ったことにいくらか後悔しながら、かといって話題提供をする気もなさそうな隣の姉に言う。
「あのさあ」
「なあに」
「男にも、ああやって言ってるの」
「ええ、何が」
 何が、と聞き返されて、口ごもった。あの声色の感じや、まぶたの伏せ方を、なんて言うのも恥ずかしくて、やっぱりなんでもない、と言ったのに姉は笑っている。
「大丈夫だよ、なんとかなってる」
「何が」
「今回の男の人。正社員だし、年そこまで離れてないし、イケメンすぎないし」
 うん、と相槌を打ったのは姉自身だ。うまくいったのは顔立ちだけで、二十代半ばの人生はそこそこ困難だった。気の良さや隙がすぐにばれて、悪い男にさんざん騙されていた。妊娠しなかったことがこれまでで一番の幸い、と姉自身さえが言うようなものだった。
「あとね、私のこと、だめなひとって言ってくれるの。これまでみんなね、私のこと良い人、良い子としか言ってくれなかったのに。私のことをそうやってはっきり正面から叱ってくれるの、おまえだけだったのに」
 おまえ、と長らく呼ばわれなかった呼び方は、もう大人になった姉には似合わないものだった。ひたり、と胸が柔らかく背中に張りついた。
「ありがとね」
 胸の脂肪は案外冷たいってことを、きっと相手はもう知っている。それだけでなんだか姉の相手にふさわしくない気がしてくるのだ。そのうち、住宅街の向こうから明るみ始めた。日が昇る。朝が来るまで、きっとまだ遠いと思っていたのに、あっという間だった。息を吐く。この白い息をもうすぐ、なくなるんだろう。もう一度、息を吐く。姉の吐息も、うなじにかかる。
 ああ、もう春が来る。

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