// さあ、覚えておりません

 ひどく美味い弁当であった。おれは充足し、米一粒さえ残さず食べ切った。量はさほど多くなかった。女学生の昼飯ほどで、しかし器は男子学生が抱えるステンレス製の弁当箱だ。昨今の弁当箱はアルミ、はたまたプラスチックだなんてとんでもない質でできているが、あれは良くない。弁当箱は、重ければ重いほど良いのだ。それを口に寄せて白飯をかきこんで、ようやく、おれは飯を食っている人間なのだ、という感情を持つ。いくら飯を食おうとも、さほど軽くならない弁当箱の重みは、命の重みだ。卵、野菜、肉、とにかく弁当に詰め込まれた食材のあらゆる命を抱えている。おれはそれが好きだった。
 しかし、はて、とおれは気付いた。隣に置いていたストーブで沸かしていた茶を、近頃部下になった若い娘ににこにこと弁当箱に注いでもらった最中だった。中身をまったく思い出せないのだ。たしかにおれは食べた。間違いない。だがわからない。粒で思い出そうにも、茶ですっかり洗われてしまったし。昨日の夕飯どころか、つい先の昼食さえ思い出せないおれは、恥ずかしがりながらも若い娘に尋ねた。
「おれは今、いったい何を食らっていたろう」
「さあ、はて、覚えておりませんね。ずっとここにいたわけでもありませんし」
 それもそうである。
「何か、すこしで良いから覚えていないだろうか」
 若い娘は怪訝な顔を見せた。先輩であるところのおれに、数分前に食べたものも忘れたのですか、なんて尋ね返せまい。ううん、と低く唸ったあと、自信なさげに語った。
「黄色があったような気がいたします」
 きいろ、とおれは繰り返した。卵焼きだろうか。いまいち判然としない。若い娘はあごをしゃくった。
「正面に座っていた係長なら、おわかりになるんじゃあないですか」
 薄い頭をおれに見せ付けていた係長は、はっと顔を上げるなり眼鏡をずらした。猫背、というよりも常に腰を引かしているような人だった。おどおどと、まさか自分に声がかけられるだなんて、と信じられなさそうに眼鏡を押し上げながら、言う。
「さあ、覚えておりませんね……しかし、赤色があったような気がします」
「ううん」
 やはり、判然としない。申し訳なさそうに、係長は言う。
「今日は夢中で弁当箱をがっついていましたから、こちらからじゃ、ちょっと、わかりかねます。にしても、大丈夫ですか。まだお若いのに。病院でも行ったらいかがです。たいへんな病気かもわかりません。幼稚園の息子さんもおるんですから、身体は後生大事に」
「ああ、ええ、大丈夫、大丈夫です」
 係長の長話をさえぎって、むりやり相槌を打った。にしても、と若い娘が微笑んだ。
「気になるほど美味い料理でしたら、今日が何か特別な日だったから、奥さんが腕によりをかけたとか」
「うん?」
 なんだか思い辺りがあった。……そうだ。
「今日は結婚記念日だ!」
「まあ、大変、すぐお電話したらいかがです」
「そうしよう」
 おれは昼休みが終わらないよう、慌てて家に電話をかけた。すると、妻がゆっくりと出てきた。
「なあ、今日の弁当の中身、覚えているか」
「さあ、はて、覚えておりませんね。いつも寝ぼけて作りますから」
 妻はすっとぼけた声を上げるが、おれは騙されない。
「今日のはずいぶん美味かったぞ、いつもより弁当箱は小さかったが、黄色いのと赤いのが」
「ああ!」
 おれはさっと甘い言葉でも返そうと思ったが、申し訳なさげな声で妻が言った。
「すみません、息子の弁当と間違えてましたわ」

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