// ひとみ

 わたしは上手く口を動かせなかった。健康な舌や唇、声帯を持っていたし、吃音なども持ち合わせていなかったが、そうしたことになった。灰色のスーツを着込んだ知らない中年男は、奇妙なものを見る目でわたしを見つめている。目を合わせることなど決してできなかったから、はたして正しいかわからないが、肌をちくちくと突くかゆみ、時として通り越した痛みとさえ感じられたのはきっと勘違いではない。幻肢痛。ふっと聞きかじった言葉が脳裏によぎった。しかしそれは、失われた部位からの痛みで、わたしの肌は失われてはいない。ならきっと、違う。そうした無駄な考えのせいで、とうとう中年男に先ほど尋ねられた質問はすっかり消え失せてしまったが、もうしょうがない、どうだっていいのだ、という心持ちがあった。ただうつろな瞳を見せ続けて、中年男がしびれを切らすのを待って、しかしなかなかしぶといものだから、あえて言葉にならないうめき声を上げてみた。気狂いのふりをするのは初めてだったけれど、上手くいきすぎた。めんせつはおわります。淡々とした言葉選びの宣言だったけれど、ほんの少ししか理解していない外国語のように、ひとつひとつの言葉を吟味しなければ席を立つことさえままならなかった。それでも幸い、間を置かず済んだのは、隣にいた同じ立場だったらしい男性が丁寧にありがとうございましたと返して席を立ったおかげだった。わたしは視界の端を行動を真似て、付いていった。部屋を出て、汚いコンクリートのビルを抜け、その間複数のありがとうを繰り返してもなお、わたしは彼の後をついていった。新しいけれど他のサラリーマンたちとさして代わり映えのしないはずのスーツだったのに、なぜかぎらぎらと目に付いて、目的もないのだ、飽きるまで付いていこうと決めていた。ふいに彼が振り返ったのは、わたしが切符もICカードも持ち合わせないで改札を抜けようとして、引っかかった音のせいだった。一瞬目が合って、その日本人離れした近すぎる瞳と眉と彫りの深さを見て、うっと身を引いた。彼はきっとそのまま去るだろうと思ったのだけれど、なぜか駅員と話して、通路に戻ってきた。
「移る病気の方ですか」
 顔立ちにぴったりの低い声に、わたしはむやみに頷いた。しかし、感染病のことではないのだ、と首を振ろうとして、彼の口がまた開こうとするので否定はできないで顎を引いた。
「近頃多い症状ですよね、元の身体はわかっていらっしゃるんですか」
 わたしの最初に考えていた病と合っていたらしく、先よりさらに大きく頷いた後、ちょっとしまったな、と思い頷きを小さくして返した。
「ええ、まあ、少しは」
 本当はなんらわかっていなかった。ただ、前の身体はおそらく面接を受けた会社の受付嬢で、その前は妊婦の赤ん坊だった。早い発症のため繰り返し人の身体を移りすぎたせいで、もう最初のわたしの記憶などとうに消え失せてしまっていた。気が向いたら受付嬢に記憶がなかった時期、たとえ半年のことでも説明せねばなるまいな、と思っていた。たとえば、恋人だと思っていて接していた男が実はストーカーで、つい婚約までしてしまっていたことだとか。
 彼は優しく、わたしの頷きに合わせるみたいに頷いた。
「ぼくの弟も、同じ症状にかかっているんです。二年前に偶然戻ってきたときの、弟の目に似ているな、と思って。でも病院へ行く途中また移っちゃったみたいで、先日北海道にいると聞いたんですけど、飛行機で戻ろうとしたら出張中の中国人に移って今は台湾だ、と聞いていて。もうそこまでいくと、戻れないかもしれないですね」
 それから、神妙な顔つきで短く黙った後、病院へ連れて行こうか提案されたのを丁寧に断った。わたしはもうどこへも戻れないことを知っていたからだ。
「そうですか。どうぞお幸せに」
「ありがとうございます」
 頭を下げあって、それぞれの道に別れたあと、振り返った。
「××さん」
 そう呼びながら、彼の背中を女性が叩いた。彼が面接中にも呼ばれなかった、下の名前だった。恋人なのだろう。左指には指輪がはめられていて、彼とおそろいのものだった。綺麗な女性だった。そして、窓に移っていた今のわたしの瞳と、彼女の瞳はそっくりだった。彼女はきっと、彼の弟だろう、とわたしは決めつけて、歩き出した。

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