// 子供部屋

 わたしまで招くなり、ここが子供部屋になります、と建築士は言っていたのに、いつまでたっても子供なんて来やしなかった。家主の若い夫婦だって、赤ん坊のおもちゃや家具を運び入れるときはいてもたってもいられず、という顔で日に何度も部屋を出入りしたのに、ある日からぴたりと訪れなくなった。やがてそれらおもちゃや家具、それからわたし自身も埃かぶった。傷つかないフローリングで作られたというのに、わたしを踏みしめる人は誰ひとりだっていなかった。ときおり、隣の寝室から妻のさざめ泣く声だけが聞こえたし、一度だけ部屋に入った夫が苛立ったように床に転がったおもちゃを蹴り、それからいたく反省したように泣くのをこらえて飛んでいったおもちゃを拾う光景だけで察するしかなかった。
 おまえは運が悪かったね。屋根はそうささやいた。わたし以外の部屋たちが意思を持っていることを初めて知った。あの女はもうこどもを産めないそうだから、せいぜい物置ぐらいだろう……かわいそうに、その愛らしい壁紙は夫婦を傷つけることしかできないなんて。わたしが愛らしいのは壁紙だけじゃない。天井も、カーテンも、何もかも夫婦がうんと考えて決めたものだった。なのにもう使われることはないのだ。寂しくて黙っていると、屋根もまた黙り込んだ。またしゃべりだしたかと思ったときには、ただ雨が降り出したのが響いただけだった。わたしはそれから、長い眠りにつくことになる。
 目を覚ましたのは、数年経っていた。埃の積もり具合から察しただけで、合っているかもさだかでない。どうして目を覚ましたのかしら……としばらく考えた後、聞いた覚えのない足音が妻の足音と妙に馴れ馴れしく床を叩いていることに気付いた。その足音は近付いて、やがてわたしに入ってきた。以前よりいくらか老けた気がする妻が、夫ではない、知らない男をわたしまで招いた。若い男だった。気まずくてつい、空気を張りつめた。「ごめんなさいね、まだ掃除をしていないから、昔のものが転がっていて」……妻はさみしげに呟いて、床に転がったおもちゃを拾った。「あなたが来るまでには、綺麗にしておくから」。どうやら、新しい住人らしかった。浮気ではないことに、わたしはずいぶんほっとしていた。「すみません、おばさん。助かります」「ううん、こちらこそ、空いている部屋が提供できて何より。夫も喜んでるわ。子供ができたみたい、って」。妻は、おもちゃを胸に抱いた。ああ、とわたしはため息をつきそうになる。これが演技であることに、きっと若い男は気付けない。「おばさん……」。案の定、同情混じりの声色で彼は言う。「ふふ、ごめんなさいね。あなたが大学入学でおめでたいのに……」。妻はそうっと白い手を、彼に伸ばした。触れた。そのまま妻が抱きしめるのに、男は抵抗しなかった。「もしあの子がちゃんと生まれていたら、いつかこんな風に抱けたのかしら……」。未亡人めいた薄幸な雰囲気は、家ができたばかりの妻には出せない色気があった。男が喉を鳴らす。「おばさん……」「ああ……」。男はわたしの床に、妻を押し倒した。わたしは見てられなくてまた眠ろうとしたのだけれど、その水音、喘ぐ声は部屋中に響くし、わたしの耳はどこにあるか知らないし、耳をふさぐ手もないのだから、聞き続けるしかなかった。
 やがて、子供の家具は片付けられて、代わりに男の家具が運ばれてきた。そして月に一度、昼に妻がやってきて、行為をした。わたしももう見慣れたものだった。わたしにはいつだって何もできなかった。しかし、人間は勝手に生きるものだった。
 ある日の行為後、男が言い出した。「ねえ、おれに子供ができたら、誘拐して一緒にどこかへ逃げよう。それで、二人で育てるんだ」「……だめよ。わたしとあなたの子じゃなきゃ、意味がないから」。そうして妻は泣いたけれど、男も泣きだした。妻も驚いて泣きやんだし、わたしも部屋を揺らしてしまうかと思うぐらい驚いた。妻がなだめているうちに、ようやく男は呟いた。「やっぱりあなたは、おれじゃなくて子供が欲しかっただけなんだね」。それ以上男は何にも言わないし、妻も言わない。わたしももちろん何も言えなくて、ただただ、早く雨を降らせて屋根を鳴かせてくれと思っていた。よく晴れた日だったから、雨が降ることはなかったのだけれど。
 それから子供部屋に妻は二度と来なかったし、いずれ男も出て行った。わたしはただ、やがていつか、男が嫁と子供を連れてくることを祈った。たとえばこの家が完成したときの若い夫婦のように。

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