形状記憶少女

// わたし

 目を覚ますといつもどおりの自室であったのだけれど、洗面所の扉をずるずる開くと、知らないキッチンが広がっていたので目が覚めた。後ろ手に閉めた扉を、巻き戻すみたいにもう一度開かねばと思って、振り返らないで手探りしたのだけれど、そこにドアノブはなくなっていた。土壁らしく、触るたび土が落ちる感触しかなくて、仕方がない、振り返ってみるとやっぱり扉ごとないのだからまたキッチンに視線を戻した。だだ広いキッチンというよりも、台所、さらに言うならば六畳一間木造築二十年家賃三万五千円、といった感じで。
 困ったな、と思いながら、冷蔵庫を開いてみた。中身を見れば、大抵の人物像が浮かぶでしょう、と思ったのだ。備え付けの小さなものらしく、冷凍庫さえないタイプのものだった。中はほとんどすっからかんで、一缶のビールと玉ねぎが一つ、それから調味料がいくらかというぐらいだった。どうもここに住んでいるのは妖精さんだとか小人さんではないらしいことはわかった。
 溜まった洗い物はなく、というよりそもそも食器がないようだった。なんだかおそろしくてぞっとしてみたけれど、横に置いてあったごみ袋の透けたごみを見ると、コンビニ弁当の器ばかり見えたので、つまりそういう人らしかった。畳の真ん中に置かれた机の上には煙草がやたらと積もっていた。物がないし、ごみもさほどないからそこだけが妙に目立っていた。
「いらっしゃい」
 家主らしい人の声が後ろから投げかけられた。けだるげに疲れた声で、もうそこで女だとわかったのに、振り返って若い女性であるのを見てなぜだかまた驚いてしまった。
「すみません、あの、わたし、泥棒じゃなくって」
「大丈夫、わかってるから」
 わかってるってことは、誘拐犯か何かかしら。けれど私は目を覚ましたらここなのではなくて、目を覚まして部屋を移動したらここだったのだから、そういうことじゃあるまい、と冷静にぼんやりと考えた。若い女性はタンクトップと短パンでコンビニへ行っていたらしく、缶詰や煙草が入ったビニール袋を玄関に置いた後、わたしを見て小さく笑った。
「すげえや」
「何がですか」
「鏡見てみなよ。テレビの上にある」
 彼女はそのまま玄関に座り込んでしまったから、わたしは手鏡を手にとって自分の顔を見てみた。彼女そっくりの顔だった。わたしはこんな顔じゃなかった。けれど、元の顔ももう思い出せなかった。彼女は煙草をくわえながら言う。
「交代するの。元の自分も部屋も思い出せないでしょう。そういうこと」
 相槌さえ打てなかった。
「わたしもずいぶん昔にやってきて、交代した。でも、まあ、悪くないよ」
「でも、一体、これは」
「わたしもいろいろ考えたけど、そうだね、自分で人格を作れない多重人格の女かなあって思ってた。自分で作れないから、他人から人格を借りるの。無理やり引っ越させるの。それで飽きるなりだめだなって思ったら、通りすがりに一目ぼれして引っ越しさせる。そういう感じかなあと思ってた。確証はないけど」
 大丈夫、と穏やかに彼女は言葉をつづけた。
「ちょっと暴力をふる恋人と、たまに襲ってくる自殺衝動。それといやらしいバイト先の店長。耐えるはそれだけ。わかってたら、まだ我慢しやすいでしょう」
「わからないです」
「わかんなくても我慢はできるよ。なんかこれ耐えたら元の人格に戻れそうだし、死なない方が良いよ、たぶんね。死にたいなら別だけど」
 同じ顔、同じ声、しかし多くを悟っている彼女は立ち上がる。
「じゃあ、うん、もう行くよ。別にここから逃げても良いからね。ルールとかないし。でも逃げられるかとか、そうしたら元の身体に戻れるかとかは、全然わかんない。っていうかそもそも、私何もわかってなかったね」
 妙に可愛い笑顔を置いていって、彼女は出て行った。煙草のにおいだけが残った。それが半年前のことだった。
 さまざまな予定がさまざまな書体で書き込まれたカレンダーと手帳の通りわたしは行動して、もう半年だった。わたしはわたしに慣れていた。刺青をいれた恋人に殴られることにも、自殺衝動を抑えてリストカットで済ませること、いやらしいバイト先の店長をそれとなく避けること。わたしはたしかにわたしでなかったことを忘れていく。元のわたしが戻るべき価値のある人間がどうかも思い出せないで、ただただ日々を過ごしていく。
 新たな人格が現れたのは二年後のことだった。彼女に教わった通りのことと、自分の推測をくわえて相手に説明した後、わたしもたばこをくわえて家を出た。慣れた道をあえて遠回りしようにもおそろしかった。わたしがわたしに戻れているかなんて知らない。ただ、尿意に耐えきれず駅のトイレに入り、性器を手にしてようやく思い出した。
「そういえば、わたしは女になりたい男だった」
 振り返っても、もうわたしには戻れないことだけ知っていて、わたしがどんな顔なのか、どんな性格だったのかも思い出せなかった。涙をぬぐうと、生えてきたひげがちくちくと指を刺した。

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