// 不穏

 不穏な一日は、大概朝、足元から始まる。
 声を上げないでうずくまり、扉にぶつけた足の小指を撫でていた。しびれと、痛みの中で、きちんと爪の感触がわかることをたしかめて、それから、血が出ていないこともじっと見つめた。これで、もし、爪が死んでしまったならば、この汚い形もきれいに生え変わってくれるだろうか。じっと、見つめ続けたけれど、血は出なかった。汚い爪の形は、そのまま。
 そうした朝だったのだ。しかし、今日は良くない一日だということは、いつも思っていた。そうして、たしかに悪い日であっても、やはり、やはり、知っていた、とわたしは安堵のため息を吐くのだった。
 小さいころは、それを、家ごと共有していた気がした。家族の、誰か一人でも不穏なことを迎えれば、他の家族も、知らなくったって自然と、不穏な空気を飲み込んでいった。一日の終わりにようやくやっと、誰のしわざか気付くのだった。
 わたしならば、母と父がいつもより構い静かになぐさめ、母ならば、いつもより美味しくない夕飯を、私と父が美味しそうに食べた。父のときは、すこし、複雑だ。
 和室に閉じこもって、夕飯もそこで食べ終えたあと、わたしを呼ぶ。たいてい、わたしの名にちゃんをつけて呼ぶのだけれど、そういったときだけ、はっきりと呼び捨てにする。和室へ行くと、座りなさい、と父は低い声で言う。わかっているだろう、あやまりなさい。はい、とわたしは言って、ごめんなさい、とこうべをたらす。
 そのころの私は、ずいぶん短い前髪をしていたから、白いひたいをみっちりと、畳に押し当てた。あとがつく頃、父が許してくれるからだ。ごめんなさい、とわたしは言う。父は何も言わないことが多いけれど、ときおり、つぶやいた。
 ゆるさない。
 ゆるさない、とは、いったい、どれに、誰に対してなのだろうか。わたしは知らない。そして、父もまた、知らないのだろう。あてどない、この不幸な、不穏な空気は、わたしが静かに謝り続ければいつかぬぐえるのだから、幸いだ。
 もういい、と事が終われば、母が熱い風呂に入れてくれた。風呂を出るときには、なぜか涙ぐんで、謝られた。父が母に謝っている姿を見たことも、あった。そうして、私の家は、あるのだと。
 だれも、なにも、わからないで、この事は儀式かのろいか、習慣のように続けられるのだ。
 と、思っていたのだけれど、わたしが女学校へ上がったころには、なんとなく、失われた。焼きついた記憶でもないから、そのまま忘れ去られたのに、小指をぶつけて思い出した。
 珈琲を飲んで、頭が覚めてきたころ、今日の用事を思い出した。病院に行かねばならなかった。
 父はもうずいぶん歳で、長くないだろう、と言われていた。だから、会わねばならない。近頃は、毎日のように病院へ見舞っていた母も、用事で来れないのだから、なおさら行かねばならない。そう思ったのだけれど、思っていた丈に、白い病室の、ベッドで寝込む父は、わたしの記憶にうまくそぐわなかった。
 呼吸をするためだけの、さまざまな道具や、点滴。わたしは、つい、口をつぐむ。病室を抜けた。ベッドの横で座っていると、父は言う。口を動かしている。聞き取れない。耳を、寄せた。
「あやまれ」
 あやまれ。くりかえし、言った。
「い」
 ひ、と息を吸って。
「いやだ」
 父もまた、息を吸い、それから、吐かなかった。息を引きとった父に、あわてて、看護師たちが駆けよるのを見ていた。
 罪悪感にかられた。けれど、だめだ、と思った。わたしは謝れなかった。ここには母もいなければ、畳も、熱い風呂もありはしないのだから。

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