// ゆめみるくじら

 雪が降っていたので、海へ、出掛けました。
 誰もいない電車では、雪が窓の対角線をなぞり、わたしはしばしば目で追って、やがて酔ってしまいました。でも大丈夫、これぐらいならば、目をつむって眠ってしまえばやり過ごせる。幸い、海の最寄りは終着駅でしたから、問題はありません。海まではまだ遠い頃でした。ひっそり、目をつむりました。目の前のおじいさんも、わたしが電車に乗り込んだ前から眠りこんでいて、その小さな寝息は心地良く、わたしがすぐ眠れることに手を貸してくれました。
 海は、さほど良い記憶はありません。そして、悪い記憶もありません。訪れたことは、一度か二度、通り過ぎたことさえ数えるほどでした。両親が、自分たちは合理的な人間だと思い込んでいたことが発端です。夏の暑い日に、暑い外へ、日差しを浴び、人の多い海へ行くだなんて、とんでもない。本当に、とんでもないことだと信じていたのです。たいへん非合理的だと。両親たちは思っていたのです。もちろんプールも、その範疇です。塩水であるか、そうでないか。二人にとって、それだけの違いでしかなかったのです。
 ですから、わたしの記憶では、プールや海より、なみなみたっぷりの水風呂が夏なのでした。あるいは、涼しい図書館です。家でクーラーを使うより、解放された公共の施設で涼しむこと。なんと合理的なのでしょう。そういった意味合いが強かったのでしょう、本を読みなさい、と両親に言われた記憶はありません。だからわたしは、長らくの間、絵本コーナーにいました。小さな子供たちが、大きなお姉ちゃんがいるわ、という顔つきでときおり目を向けることにも、ずいぶん慣れました。わたしはくじらの絵本を手にとりました。くじらはとっても大きいのに、海がもっと大きいから、寂しくて陸へ上がろうとする話でした。
 「くじらさん、くじらさん きみは、りくへあがれない」/「なぜですか、うみがめさん」/「きみは、うみでしかいきられないから」/「つまり」/「りくへあがったら、しんでしまうよ」
 しかし、くじらは海亀の反対を押し切って、陸へ上がりました。しかし、すぐに苦しくなりましたし、人間にも見つかってしまいました。人間は海水をたっぷりくじらに浴びせて、死なないよう世話をしてくれて、そしてくじらを海へ押し戻しました。
 「ばんざい、ばんざあい! くじらがうみへもどったぞ!」/「ああ、なるほど。ぼくは、りくではいきられない」
 そしてくじらは、また海の中で生きるようになりました。それだけの話でした。たったそれだけ。ですが、わたしはずいぶんはっきりと覚えていました。もしかしたら勝手に、自分と、そのくじらをどうにか重ねようとしていたのかもしれません。くじらが陸では生きられないように、また、わたしも海では生きられない。それはそうなのです。わかっています。海の中では、息ができない。生きられない。だから海へは行けない。海への憧れなんてないつもりでしたが、一度で良いから、と少なからず思っていたのかもしれません。
 夢で、その絵本を読み返して、わたしは涙してしまいました。海へ行くからこそ思いだしたのかもしれません、が、そんなお膳立てめいたことを、今さら思い出し、これで目的ができたとばかりに行くのはなんだか、とても恥ずかしかったのです。わたしは、恥ずかしさと寂しさから、なおのこと涙して、しかし、目は覚ましませんでした。夢の中で泣き続けて、くじらが、陸で生きられないから海で生きる、そういう消去法の生き方をしていることも考えて、鼻水さえ垂らしました。
 「着きましたよ」と肩を揺らされました。幸い、現実では、うっすら涙がたまっただけで滴ることはなく、鼻もすすってみましたが、乾いていました。顔を上げると、声をかけたのが、正面で寝ていたはずのおじいさんでした。外の掲示板を見ると、たしかに水平線を背に、終着駅で、目的の駅の名が書かれていました。おじいさんの、前歯が抜けた笑みを見ながらたずねました。「どうしてわかったんですか」「切符が落ちていましたから。乗り込んだ駅は、知っていたので」「でも」。目的の駅が書いてあるわけではなく、いたって普通の、裏が黒で、表がオレンジ色の、××円区間としか書かれていません。「ぼくは」。おじいさんが、ぼくと言ったのに驚きながら。「昔、ここの車掌をしていましたから、いろんなことが、頭に叩きこまれているのです」「叩きこまれて」「ええ、叩かれると、痛いでしょう。痛みを伴って覚えてるから、忘れられない。ほら、早くしないと、電車がまた出てしまいますよ」「ああ」。間の抜けた声を上げて、わたしは急ぎ、降りました。おじいさんは、降りませんでした。わたしはホームで振り返って、たずねました。「おじいさんは、降りないのですか」「まだ、しばらくは。ああ、忘れ物ですよ」。おじいさんは、絵本を差し出しました。
 ゆめみるくじら。
 涙が点々と染み込み、背表紙に図書館のシールが貼られたその絵本は、たしかに。「ありがとうございます」「借り物でしょう、忘れてはいけませんよ」「ごめんなさい」。頭を下げると、扉が閉まり、電車は去って行きました。おじいさんは、手一つ振らないで、席に戻る背だけが見えました。わたしは絵本を抱いて、改札へ行きました。
 ここはどうも、自動の改札機はなかったようなので、おそるおそる、無愛想な顔の若い駅員に切符を渡しました。受け取り、ふん、と鼻を鳴らされました。「変な奴に、声はかけられませんでしたか」「えっ」「変なやつがいて、自分は昔、車掌だったとか、言い張るんです。ただの鉄道好きで、一切関わりはないって、もうばれているのに。たまに、迷惑だって連絡が来て。特に、若い女性に、よく声をかけるらしいので」。わたしは迷いながら「いいえ」と首を横に振りました。「いませんでした、そんな人は」「それなら良かったです。遠慮せず、言ってくださいね」。若い駅員は、きっとわたしを見つめました。きっと、ばれていました。わたしがおじいさんに会ったこと。その、懺悔めいた短い時間に、懺悔できなかったわたしは、そうっと目を逸らし、早足で駅を去りました。
 海までは、まっすぐと続く、舗装されていない道を行けば済むようでした。小さな平屋と垣根が続き、水平線に近付いた気はしませんでしたが、波の音は静かに、ざざんざざんと、大きく聞こえてきました。
 ひたり、足を止めました。なにか、邪魔をするものがあったのではありません。道路工事や、変な人、足を痛めたわけでもありません。ただ、この絵本を抱いて、海へ、自らの意志で足を運ぶこと。その非合理性に、わたしの遺伝子が悲鳴をあげた、そんな気がしたのです。両親が、わあわあと身体中で、わたしを批判するのです。
 「その、とても非合理的なこと」「やめたほうが良い。お前のためにならない」「その褒められた白い肌、守ってきたのは誰かしら」「本を水場に持っていくのか」「良くないわ」「良くない」「悪いとは言わないけれどね」「わかるだろう」。わたしはそうして、大きな失敗をした覚えはありません。それがきっと失敗だったのだと。合理的なことを選び続けたことが、失敗だったのだと。失敗をしないよう、何もしないこと。それが合理的なんだと、わたしは、思っていたのです。わたしは小さく呟きました。「わたしを産んだことが非合理的だって、早く言いなさいよ」。ひそり。両親の声は、止まりました。遺伝子は、死んだように声を失くしました。「良い子」。もっと早く言えば良かったのだと、思いました。それこそ、生まれて、すぐに。一言め。
 雪が降る、合理性のない、寒いばかりの海は、しんと静まりかえっていました。人の声はなく、わたしの白い息を吐く音と、波の音、海風だけが、ありました。一歩踏み出すたび、雪の軋む音と、砂の軋む音がありました。わたしはほとんど初めての海に、戸惑わないでいられず、眉をひそめて辺りを見回しました。遺伝子が静かになっても、なおのこと、わたしが海にいることは許された気には、ならなかったのです。人がいなくて安心しているのに、同時に、怯えていたのです。しかし、遠くをよくよく見てみれば、人の姿がありました。青いダウンコートを着た、若い男の人でした。なんだか見覚えが合って、その顔が近付くたび、覚えがあるという気持ちだけがはっきりと色濃く、煮出されました。
 わたしは、決心して、声をかけました。「こんにちは」「こんにちは、お散歩ですか」「ええ、まあ、そんなところです」「冬の海は、良くないですよ」。わたしはどきりとしました。やはり、良くないのだと。わたしの緊張を悟ったらしい彼は、人懐こく微笑みました。「犬の一匹でも連れていなきゃ、心中か何かだと、思われてしまいますから」。その声で、はっとしました。「駅員さん」「あっ弟を見ましたか。双子なんです」。そうです、思いだしました。先程の駅員と、まったく同じ顔で、同じ声だったのです。しかしなぜ気付かなかったかと言うと、駅員は駅員らしく、黒い短髪で真面目そうな印象を見せ、この人は、髪を茶色く染めて、ピアスを顔中に付けていたからです。「しばらく、気付きませんでした」「ええ、そのように、しているので」「なるほど」。
 彼はぱっと、わたしの手元を見ました。「ゆめみるくじら」「ええ、その」。わたしはなぜこれを持っているのか。説明しようとして、口をつぐみました。なぜ持っているのか。わたしの中でははっきりとしていましたが、人に説明できるものではありませんでした。海へ行くのに、この絵本を思いだしたら、おじいさんに渡されたのです。そんなことは、とてもじゃないですが、言えませんでした。すっかり黙りこんだわたしに、彼は微笑みました。「読ませてくださいよ」「ええ、それは、どうぞ」。絵本を渡しました。「懐かしい。ぼくもこれ、読んでいました。なんか、わりとえぐいですよね」「ええ、そうなんですよね。すごく、さみしくて」「わかります」。きっと、さほど有名ではないだろう絵本だったけれど、だからこそ、わたしたちは連帯感のように、通じ合いました。
 「これ、嫌なんですよね。くじらが海でしか生きられないように、ぼくらも、陸でしか生きられないって感じ」「わかります」「まあ、くじらはまだいいですけど、ぼくらが海へ潜ったら、誰にも助けられないで、死にますしね」「わかります」。わたしは、繰り返し頷くことしか、できませんでした。なにか、自分の言葉を言おうとすると、涙がぐっと押し寄せてきそうだったからです。へえ、なつかしい、と彼は気にしないで、読み進めていました。
 「たぶん、でも、わかりますよね。生きていくうちに、この、なんとなく生きていかねばならない場所が、決まっていく感じ。人間が陸、みたいに、ぼくが、こういう場所にしかいられないこと」。彼は、朗らかに笑いました。「ぼくが、本当は、車掌になりたかったんですけど。でも、こうやって、ピアスとか、髪染めたりとか、やりたいことをしていたら、なれなくなってしまった。あいつは、やりたいこと我慢して、なったんだろうと思うんですけど、でも、なんかね、寂しいよね」「あなたは、今、何やってるんですか」「この本の主」「えっ」。彼は出会った中で一番の笑顔と、本の背表紙を見せました。××市公民館図書。それは、この海の最寄り駅と、同じ名前の市でした。「アルバイトですけど、違いはないでしょう。日付、わりと古いですね。もしかして、むかしむかしに、借りたままとか、したやつですか」。わたしを責める声色なく、彼は面白そうに本の最後のページにある、貸し出しカードを見ました。「××××」。彼は、一字一句間違えることなく、わたしの名前を発音しました。わたしは驚いて、泣いてしまいました。ずっと泣きそうでしたから、泣くのは簡単だったのです。「わあ、大丈夫ですよ。よくありますから、こんなの。うちは特に、最新の機械とかもないから、簡単に借りパクできちゃうから。漫画とかも置いてなくって」。かばいながらも、しかし、面白そうに笑いながら彼は言いました。「すみません、どうしてか、こんなことになってしまって」「いえいえ、返しに来ただけ十分」。
 彼はふっと、空を見上げました。そのときの顔は、やっぱりあの駅員とうりふたつで、わたしははっとしました。「雪強くなってきましたね。公民館に寄りませんか。今日、休みなんですけど、ぼく、鍵持ってるから。雨宿りということで」「大丈夫ですか」「大丈夫。開いていても、誰も来ないし」。わたしは、こっくり頷きました。雪が降っているから来たのに、わたしは傘を持っていないから、ひっそり、服を濡らしていたので、助かりました。
 公民館は海の近くで、本当に小さな、よくある公民館で、空いている部屋をいくらか貸し、一階の隅でさらに小さな図書館もどきとして、本を貸し出しているようでした。わたしの背ほどの本棚が壁際に並べられて、机が真ん中にいくらか置かれていました。そして、女の人もひとり、床に座って絵本を読んでいました。ずいぶん熱中しているようで、わたしが部屋に入ったことも気付かず、一生懸命文庫本を読んでいました。戸惑っていると、遅れてきた彼も、驚きました。「くじら」「あっ、あっ、どうも」。彼女は慌てて本を置いて、わたしと彼を交互に見て、照れたように笑いました。「くじらです、どうも。どなたですか」「海で出会った人」「へえ。じゃあ、わたし、不法侵入見つかったし、帰ります」。いつまでも照れ笑いをしたまま、彼女は窓を開きました。そこには靴があり、そこから入ったのはたしかなようでした。「ひどいくじらだ」「ごめんね、我慢できなくて。また明日」。ひらひら、彼女は手を振って去って行きました。「あの、くじらさんは」「ぼくの恋人」「はあ」「でね、弟の元恋人」。泣きはしなかったものの、でもやっぱり驚いてしまって、目を見開いたわたしへ彼は穏やかに言いました。「これも、きっと、くじらだよ。ああ、絵本のね。なるようになってたから、こうなってしまった。弟も、くじらも、ぼくも、なんとなく、結局、この形になってしまった」。そんな、わたしは、信じ難かったのでした。恋愛が、決められたように選んでいったら、双子同士で奪い合うような形になったこと。
 「いやだ」。わたしは、つい、叫んでしまいました。「なにが」。彼はやはり、怒った様子なく、穏やかに尋ねてきました。続けて、彼はじっとわたしを見ながら、言います。「こういう形になることが? 選ばざるを得なかった形が、美しくないことが?」「そうです。だって、もっと、人間は自由なはずです。だって、わたしたちは、別に海で生きていない。陸で、それなりに大きな陸で生きているはずじゃないですか。電車に乗ったら、別の、誰も知らない町へ行ける。寂しくない程度に、ちゃんと人がいて、お金さえあれば、そこで生きていける。そういう世界なのに、どうしてその狭い中から、少ない選択肢を見つくろって、選ぶのか。わたし、わからないです」「じゃあ」。彼は、じっと、あの、駅員と似た顔つきで。
 「君はどうして、海へ来たの」。
 わたしは。
 いつの間にか、波は足元へ来ていました。一番下の棚にあった本は、もう沈み始めていました。なんてもったいないのでしょう。くじらさんが置いて行った本も、沈み、底で揺らいでいました。「満潮だ」。彼は、わたしの答えを待たず、言いました。「もう行かないとだ。くじらは、子どもを孕んでいる。ぼくの子どもを。腹は小さいけど、もうじき産むから。でも、どうせ、あいつと同じ遺伝子なのにな。狭くて小さな選択肢。そう、きっと。選択肢なんて、意味ないんだ」「ああ」。わたしは、声を上げた。ため息でなく、叫ぶように。「ああ」。もう一度、言った。「わかりました。あなたたちは、間違いでない。意味があること」「何がだ。もし育てるのがあいつになったら、あいつの子どもと何が違うんだ」「でも、やっぱり、あなたたちは選んだ。くじらさんは、あなたを。あなたは、くじらさんを。そして駅員さんは、身を引くことを。狭い中で生きることを。わたしが海へ来ることを選んだように、あなたたちもまた、それを」「そうか」。彼は納得したようにでもなんでもなく、ただ、頷きました。「さよなら、駅員さんと、くじらさんに、よろしく。きっと可愛い赤ちゃんを。本をごめんなさい。さようなら」
 わたしは、波から逃げるように、走って公民館を出ました。波は、津波のように大きいものではなく、ただただ、湖のように、小さな波だけを立てて、ひっそり満ちて行きました。わたしは振り返らないで、駅に着きました。駅員は、うんと老けたおじいさんに代わっていました。行きと同じ切符を買って、ホームへ入ろうとすると、駅員が止めました。「お嬢さん」「はい」「きっと、変な老人がいるだろうが、応えなくて、大丈夫ですから」「それは」。おじいさんは、口を入れ歯の心地でも悪そうに動かして、ため息をつきました。「わたしの双子の兄なのですが、もうずいぶんぼけていて。だから、ご迷惑をかけますが、気にしないでください」。わかりました。わたしは黙って頷きました。「すみません、切符、買い直していいですか」「ええ、どちらにします」「この、一個前の、駅まで」。わたしは、行かねばなりません。図書館へ。そして、ゆめみるくじらを。
 「くじら、くじら。やはり、りくはだめだったろう」/「ああ、うみがめさん。そうだね、すこし、さみしくなったよ。なにせ、あんないいひとたちがいるのに、ぼくは、いっしょにいきてはいけない。でも、いきようとしたとちに、あんないいひとたちがいた。そして、すこしでも、いっしょにいられたこと。ぼくはきっと、このひを、うみでしぬまで、わすれないだろう」
 ゆめみるくじらを最後まで読み終えて、わたしは手に、借りに行きました。不慣れそうなアルバイトの子は、とまどいながらやってくれましたが、機械が変な音をたてました。「あら」。彼女がよくよくシールを見ると、どうも、別の図書館のものだったらしいのです。「どこで紛れ込んだのかしら」「あの、大丈夫ですか」「ええ、すみません。これ、うちの地元の近くなので、わたしが返しておきます」。彼女は愛想よく笑って、ゆめみるくじらを新たに探してくれました。
 そのアルバイトの子の笑顔は、あの彼に、そして、探している最中の厳しい顔は、どこか、くじらさんや、駅員を、思い出させたのです。

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