// 歯

 歯が口からこぼれたのだった。
 昼、カフェでサンドイッチを食べているときのことだ。すぐ隣には近頃眠れていないという恋人が、目を何度もこすりながら珈琲を飲んでいたので、とっさに拾って隠した。幸い、気付かれなかったようだった。「眠りたいのに、珈琲を飲むのかい」。ほっとしながら、ぼくは言った。恋人は首を横に振る。「どうせ寝れないなら、目をかっちりと開いて起きていたいの」。恋人の口の端から、珈琲が垂れた。頬の筋肉の動きも曖昧だった。ねえ、と恋人は言う。「午後、病院へ行くから。送って行ってくれる」「良いよ」。テーブルの上に置かれた恋人の血色が悪い、細い手を撫でた。
 昼飯を済ませて恋人を病院に送り届けた。心細そうにぼくの頬にキスをして、「仕事、頑張ってね」と微笑んだ。申し訳ない、と思いながらも締め切りが近い。仕事をするため、家に急ぎ戻った。
 ポケットにしまい込んだ歯を思い出したのは、汗ばんだジーパンを脱いだ時だった。そのまま洗濯機に放りこもうとした手を慌てて抑え、人差し指と親指でつまんで抜き取った。
 やはり、歯だった。
 つい忘れていたのにも理由がある。なにせ、今舌で口の中を探っても、歯が抜けた場所が見つからないからだ。血の味もしない。空洞もない。その歯は、上だか下だかわからないが、食べるものを噛みつぶすために大きく平たい。奥歯に違いない。黄ばんでいるのは、歯を磨いていないからか、それとも珈琲の飲み過ぎか、煙草の吸い過ぎか。歯医者と縁のない健康なぼくには、それぐらいしか見当もつかない。ならばサンドイッチに紛れ込んでいたか、あるいは。
 先生、と悲鳴のような高い声が玄関から響いた。「ペンを持たねばなりませんよ!」。扉を乱暴に叩かれた。ぼくはのろのろと、鍵を開く。「先生!」。若い女の編集者は、ぼくの手を見た。歯があった。「先生!」。悲鳴は繰り返される。「歯ではありません、ペンですわ、先生! あなたが持つべきものは!」「ええ、そうですね」「なら、その歯は早くお捨てになって。大丈夫、原稿が終わったら素敵な歯医者を紹介します。あたしの友人にいるんですの、夫に先立たれた歯医者の女性が。たしか先生の作品のファンでしたから、話は早いでしょう」「恋人は間に合っています」「あらそう、残念です」。
 赤い唇を気が済むまで動かした後、編集者は埃を立ててソファに腰掛けた。ぼくは仕方なく歯を机の隅に置いて、ペンを持つ。目の前には、白い原稿だった。編集者は言う。「あたし今、赤い豆のスープが好きなんですの。とっても健康的だから」「そうか」「あなたを待っている間、とっても食べたかったのに、食べられなかった」「じゃあ、今食べたまえよ」「ありがとう」。編集者は水筒から赤い豆のスープを注いだ。僕の白い原稿へ。「赤くなった」「そうですわ、先生」。編集者は笑う。「どれが豆で、どれが歯だか、あなたにわかるかしら」「無理だ。ここは、デスクだから。食卓ではない」「だいじょうぶ」。編集者はぼくの後ろに回り、目を覆い隠す。「さあ」。僕は手を伸ばし、指を伸ばす。摘む。その指の腹の感触を確かめる。ひよこ豆なのか、歯なのか。
 眠る。目を覚ます。
 カフェ、隣の席で健康的な血色の、つやつやとした頬の恋人が微笑んでいた。「どうしたの、あなた、最近眠れていないようね」「締め切りが近いからさ。今の短い間にも、変な夢を見た」「なのに、私とお昼を食べているの」。嬉しそうな恋人だった。ぼくはペンを持つ。二本だ。そして食卓の上にあった赤い豆のスープから、ひよこ豆だけを摘み取る。「器用だこと」。ぼくへ批判するわけでもなく、恋人はただ呟いた。ぼくは上手く摘めない。つるつると、ペンを隙間を縫っていく。やがて、ひとつ、摘めた。「摘めた」。ぼくは言う。「何が」。恋人は丁寧に尋ねた。僕は返す。
「歯を」

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