// 阿修羅さん

 阿修羅さんの阿修羅さんという名前は本名であり、また存在する女の子だった。つまり阿修羅さんの親はいささか非常識な人だった。成人するまでには名前を変えよう、と阿修羅さんは考えていた。ただ、その決心を親に宣言するわけにもいかず、かといって他に言える友人もいないのだった。でもそういえば、それを言いたいがためだけに、スクールカウンセリングには一度だけ足を運んだことがある。保健室のすぐ隣にあった小さな空き教室を、朝と昼休みと放課後、知らない綺麗なお姉さん(おばさんだったかもしれない)がいるのを見計らって生徒たちがつまらない愚痴や深刻な告げ口をしにゆく場所だった。阿修羅さんは同じクラスの峰川くんが昼休み、ひっそり入っていくところを見たことがきっかけだった。阿修羅さんは親のせいもあってなかなか非常識な子だったので、彼の悩み事を聞くためひっそり聞き耳を立てたのだ。勿論廊下などという安易な場所ではなく、廊下の突き当り右手の靴箱を出て校舎の壁を沿っていくとあるその教室の窓の傍の花壇でだ。生活の授業で仕方なく育てていた稲の青々い葉を撫でながら、阿修羅さんは耳を立てた。「あのう」。もじもじと口ごもりがちな口調の太い高い声は間違いなく峰川くんの声だった。「僕う、給食いっぱい食べちゃってえ、みんなにデブって言われてえ」。やがていくらかもしないうちに峰川くんは泣き始めた。おえっ。おえっ。その声だけ聞くと、峰川くんが吐いているみたいだった。阿修羅さんはその声にもらいゲロしそうになりながら、今さっきあった給食の時間を思い出していた。今日は峰川くんは配膳だったから、嬉しそうに汁物をたくさんよそっていた。「デブよそいすぎじゃねえの」。クラスのリーダーっぽい吉野くんが嬉しそうに指摘したのに、峰川くんの手は止まってしまった。ヒッ、と息を引いた気がする。「ごめん、お腹減って、ごめん」。峰川くんの手が震える。ちょうどいた先生がきつく眉を上げて怒る。「吉野くん、なんてひどいことを言うんですか」「だって本当じゃん、峰川デブじゃん」「デブじゃありません」「じゃあメタボ」。知恵のついた小学校高学年らしい台詞はクラスみんなの笑いを誘い、そして先生の怒りを買ってしまったようで、先生は机を殴り大きな音を立ててクラスをしんと静かにさせた。吉野くんのにやつきが引く。峰川くんは自分がデブなせいでこんなことになっているのだ、と泣きそうな顔をしていた。「吉野くん、廊下にいらっしゃい」。先生はずんずん歩きながら途中にいた吉野くんを捕まえて廊下へ消えた。とんでもないことをしてしまった、という顔の峰川くんに、クラスのミス平凡少女な手嶋さんは小さな声で話しかける。「あのさあ、峰川さん、ちょうだいよ、豚汁」。峰川くんのかく汗、めっちゃ豚汁っぽいな、と阿修羅さんは思いながら、震える手つきのまま峰川くんが汁物をよそっているのwを見ていた。今日はそれだけだった。給食を食べ始めてしばらくしてから、厳しい顔をした先生と吉野くんが戻ってきて、吉野くんが峰川くんに謝って、終わり。しかし峰川くんにとっておそろしい重大な事件だったらしく、さめざめ泣きながらスクールカウンセラーに語るのだった。こんなくそくだらないことを聞くだけで金もらえるなんてちょろいな、と阿修羅さんは思いながら、峰川くんがお昼休みぎりぎりまで居座って慰められて満足して去った後、走ってその教室に飛び込んだ。お姉さんだかおばさんはびっくりしていた。「お昼はもう終わりだから、また放課後来て欲しいのだけど」「どうしても聞いて欲しいんです」。阿修羅さんの切実な声色に、彼女は眉をきゅっと上げて、頷いた。妙に質の良いソファに招かれ、阿修羅さんは座るなり、深刻そうな口を開いた。「私、トンデモネームなんですけど、大人になったら名前変えようって思ってるんです」。話は終わりだった。彼女は戸惑っていた。「ええと、あなた、お名前は」「言わなきゃいけないんですか、トンデモネーム言いたい人なんていないんですけど」「言ってくれたら、仲良くなれるかなって。次来たときもお話しやすいよ」「え、次来なきゃなんですか」「そんなことないけど」「先生は私に苦しんで欲しいんですか」「そうじゃなくて」「先生なんて名前ですか」「良子だけど」「良子先生に私のつらさがわかるんですか」「話は聞いてあげられるわ」「名前は聞いて欲しくないってわかってますよね、なのになんで名前聞いてきたんですか」「だって、呼べなきゃ、困るから」「もういいです、先生サイテー死んで」。もう話は済んだので、とっとと切り上げた買った阿修羅さんは適当に彼女を罵って教室を飛び出して、もう授業が始まっていた自分のクラスに戻った。いらついてた先生にちょっと怒られながら、すいませんと言って席に着いた。すぐ隣にいた峰川くんは、太った身体を阿修羅さんと触れさせないようよじらせた。
 阿修羅さんがそんなことを思い出したのは、大人になって、改名が済んだからだった。もう阿修羅さんは阿修羅さんではなくなっていた。彼女の名前は、良子さんである。

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