// すべてを

 例の川端康成が浮かぶほどの、銀世界だった。
 私は曇りかけたドア窓を拭く。拭いても拭いても白には変わりない。そんな、猛烈な吹雪。この電車がきちんと走っていることが不思議だ。
「来てよかったでしょ」
 きみの言葉に私は反射的にうなずく。視線は無数の白から離せない。特に思うところがあるというわけでもないのだけれど。むしろ考えないことを考えている、といった方がいいかもしれない。
 電車が小刻みに減速し始める。揺れに負けないように私はドア窓に額をつけた。冷たい。
 間もなく、大きな揺れと共に電車が止まった。すぐにドアが開く。さようなら、額の冷たさ。こんにちは、冷気。
 私が感傷に浸っている間に、きみはもう、白の世界に踏み出していた。柔らかい白地に黒い足跡がひとつ、ふたつ、みっつ。
「さあ、行こう」
 きみは私に向かって腕を伸ばす。きみの足跡に重ねるようにして、私は新たな一歩を踏み出した。

 ■

 温暖化現象によって南極の氷が解けて海面が上昇するため、海のすぐ傍だった故郷はもうそろそろ沈むのだという。専門家の計算上、日本で真っ先に沈む土地だからと全国新聞が報じたのを見て知った。
 両親が生きていれば手紙でも寄こしただろうが、数年前に二人して癌ればになって、さほど間を置かず亡くなっていた。
 実家はまだある。女一人ながら幸い生きられる程度には稼げていたから、遺産金や保険金で税金を払い続けていたのだ。田舎にある上古い平屋だったから、売り払ったところで金になるわけでもなかったし、二十歳まで住んだ家を簡単に手放せるほど執着がないわけではなかった。
 やがてしかるべき機関から引っ越すよう、また、多少の援助はする旨の手紙が届いた。先の新聞を読んですぐ長い海外旅行に出かけていたから、随分経ってから受け取るはめになった。その頃にはもう日本のそこらじゅうが沈むことを、日本中が嘆いていた。
 今帰らねば次に帰りたいと思ったときにはもう、沈んでしまっているだろう。だから、故郷行きの片道切符を買った。帰省する期間を、決めていなかった。
「さんざん温暖化現象とあおっておいて、吹雪というのも変な話じゃない。昔は雪なんてほとんど降ったことなかったのに。そのせいで長らく電車は止まったしさ、止んだ途端快晴になって、暑くなったりするしさ」
 トランクケースを引きずりながらの文句めいた呟きに、先を歩く君彦は背負った登山用リュックを揺らして笑った。
「これは温暖化現象じゃなくて、また別の現象のせいらしいよ、ややこしいけども」
「本当にね」
 海と雪の入り混じったにおいは、私の郷愁を誘わない。
 止まった二両編成の電車の中を散歩してみたら、幼馴染と呼べる君彦を見つけたのには驚いた。成人してから別れたのと、髪型も服装も変わっていなかったこともあって、すぐに気付いた。しばらく見つめていると文庫本を読んでいた君彦も顔を上げて、そして私だと気付いておきながら驚いた様子を見せないで言った。
「この電車では、良いことが二つあったな」
「二つって」
「一つは君と再会したこと、もう一つは、この電車がトイレ付きのものだったということ」
 そしてなぜ帰ってきたかなど、一通り雑談をした。君彦は街からの買い出し帰りだという。読んでいた本は、三島由紀夫だった。
 雪は昨晩もずいぶん降ったというから、地面は見えない。硬くなった雪に足を滑らせないようにしながら、久しぶりの町を眺め回した。しかし、ぐるりと一度視線を巡らせれば用は済んでしまった。駅前商店街は昼であるのに、丁寧なほどすべてのシャッターが閉まっているせいだ。沈む町の気配があった。観光地だった時代もあったことを、信じさせる人間もいなかった。。
「今、誰が残っているの」
 具体的な名前が上げられないほど、故郷の記憶は薄れていた。たとえば、と君彦に返されたら、誰でも、と返すしかない。幸か不幸か、その必要はなかった。君彦は緩やかに、首を横へ振り振り言った。
「ほとんど、誰も。少なくとも僕の近所にはいないけど、噂だとこの町と一緒に沈むと言ってはばからない老人が、数人いるらしい」
「あなたは」
「街へ買い出しに出掛けて、戻ってくるような人間だぞ」
 笑う君彦に、私は笑い返せない。
 君彦は母子家庭で、母親も成人してすぐに事故で亡くしている。一人きりだった。二人だったところで、町が沈むことは変えられなかった。
「電気もガスも水も、もう通っていないこと、知ってて来たのか」
「知らない」
 本当に知らなかった。手紙を読んですぐ来たのもあるし、旅行のため新聞は解約してしまっていたから、知るタイミングもなかった。テレビは持ち合わせていない。
 そうか、と君彦はうなずいた。
「早く避難させたいがための強硬手段らしい。ほとんどの人間はこれのせいでいなくなった」
「じゃあ、あなたは一体どう生きているのよ」
「山登りが好きだったおかげで、なんとか」
 そう言って、君彦はまた背中を揺すった。そういえば高校の頃から休日に大きな荷物を背負ってふらりと出掛けていた。長い休みのたびに富士山に上ったし、将来の夢は登山家だなあ、と真意のわからない声色でよく言っていた。だからこそ、再会したことに驚いたのだ。
「そう、ニュースを聞いてすぐにね、君彦は山へ移り住むと思っていた」
 母親もいなければ、私のように故郷への中途半端な愛着で残るような人間ではないと思ったからだ。ちょうど良い機会だろうと思った。
「山が好きだからって」
「うん」
「それは少し、安易すぎやしないか」
「そうかな」
「山登りは別に、土地を捨てるわけではないからね。いつだって帰る場所はこの海の傍だ。けれど、移り住むことは土地を捨てる。その度胸はまだないよ」
「じゃあ、いつかは移り住むの」
 私たちの家は海からずいぶん近い。専門家はたぶん厳しく見積もっているから、計算による半月では沈まないだろうが一月は住めまい、と勝手に思う。
 角を曲がりながら君彦は、そうだね、と言った。
「いつかね」
 きっと君彦自身も知らない、いつかだった。
 曲がるなり、雪でトタン屋根が落ちそうな平屋たちに挟まれた道になる。海へまっすぐと伸びていて、先には水平線が見えた。横の立垣にも雪はまんべんなく降り積もっているし、道は一つの足跡もない。人がいないこと、平屋ばかりであること、雪が降ったこと、何もかもが海の引いては返す波の音を町中に響かせていた。
「海、早く見たいな」
「荷物置いてからにしなよ」
「うん」
 道の半分目で足を止める。左手に、数年ぶりの我が家があった。両親が死んでからきっちり訪れなくなったから、きっとそうとう埃かぶっているはずだった。君彦は目で、また、と言って先にある隣の家に入っていった。
 私も自分の家に目を向けた。家の中央に敷かれた割れた石畳を踏み越え、トランクケースを玄関の横に置いた。こうしたことで盗む人間も、怒る人間もいないのだ。
 小走りに敷地を出て、海に向かって走った。海風が露わにした額を冷やす。もし季節が夏で、薄着で、引っ掛けたサンダルだったら、きっともっと胸を痛めただろう、というぐらい突然、郷愁に駆られた。もっと海に向かう足音は多かったし、雪に足を取られるなんて有り得なかったのに、とたったそれきりで傷ついた気がする。
 記憶よりも海に近かったのに、呼吸は乱れていた。雪で見えないコンクリートの地面まで来て、白い鉄柵に手を掛けた。
「何もなくなっている」
 独り言のように、後ろから来ていた君彦に言った。
「記憶違いじゃないよ」
「うん、わかってる」
 黒っぽい海面はもう上昇を始めている。広かった砂浜にも、そこに繋がる階段も、もう見当たらない。三メートルはあったコンクリートの壁に、波はたっぷりと押し寄せていた。あと数センチで海は壁を乗り越えそうだったし、跳ねる水滴は既に飛び越えている。
 中学の頃に潰れた海の家が屋根だけ、ときおり見えたのは心痛む図だったけれど、もっと海側に崩れかけの小屋があったはずだった。屋根さえ見えないあたり、とっくに沈んだか波に押し流されたのだろう。
 関心は小屋自体でなく、そこに住んでいた乞食もどきの老人にあった。小学生の頃、あれほど繰り返し呼んだ老人のあだ名もすぐに思い出せなくて、時間が喉に詰まっている感覚が苦しかった。
「あの、なんだっけ、そこに住んでたさ」
 言葉をさほど絞り出さないうちに、君彦は察した。
「がんじいなら、いないよ」
「そうなの、がんじい」
 がんじい、と確かめるように言いながら、また海を見た。やっぱり小屋はなかったし、もちろん人影もなかった。なぜ思い出せなかったのか不思議なほど、君彦が発するあだ名の一音一音がみっちりと肌に密着するように落ちて、響いた。
 がんじいはいつも伸び切って汚れた白いTシャツと尻が破れた水色のトランクスを穿いていた、細身の老人だった。骨と皮のようだったし、それで毎日近くの港で釣りをしていたから、色黒に焼けていた。右耳にはなぜかピアス穴を開けていて、かといってピアスでなく紐付きの鈴を付けて、乱暴に歩くたびうるさく揺らしていた。いつも鬱陶しくないのかしらと不思議だった。声を掛けるとどんな話題であれ、数本抜けた黄色い前歯を見せて、にたにた笑うだけだった。
 これで眼鏡でも掛ければ非暴力主義者のガンジーにまったくそっくりだったのだ。そこから付いたあだ名だったから、うちの町のガンジー認知度年齢層は相当広かっただろうと思う。
 がんじいはいつからそこにいて、どうしてそこに住んでいるのか、本当はなんという名前なのか、大概の事を誰も知らなかった。そもそもがんじいは喋れない人間か、壮大な意志を持ってなんとしても喋らない人間だったから、知りようもなかった。文字も書けるか怪しかった。がんじいは子供に馬鹿にされても、不良に殴られても、へらへら笑い続けていた。
「がんじいは、どこへ行ってしまったのかしら」
「さあ。気が付いたらいなくなっていたから」
 いたところで、行き先を聞きようもないのだけれど。がんじいさえいなくなったこの町で未だ残る君彦について、私はなるべく考えない。
 家に戻ると荷物を運び入れて、埃かぶった部屋をいくらか掃除しているうちに夕方を迎えた。夕食は、君彦のご馳走になることにした。というより、そうするしかなかったのだ。商店街もなくなった今、昼食用に買ったおにぎりの余りひとつと烏龍茶しかなく、買い足すにはまた街へ戻るしかなかったが、もう電車は走っていない。以前は朝から夜まで一時間に一本はあったものだけれど、人がほとんどいない今、朝夕一本ずつあるのも不思議なほどだった。
 君彦はテーブルの上のろうそくに火を付けた。吐息で消さないように、と注意をしてすぐ、カップラーメンのためのお湯を沸かす。ガスバーナーに小さな鍋を乗せ、ペットボトルの水を注ぐのだ。
「本当にサバイバルだなあ」
「でしょう」
 君彦は誇らしげに言う。
「でも、思ったよりやることないね」
 電気もガスも水もない以上、夜はもう夕食を食べて寝るしかないように思えた。
 君彦はちらりと私を見る。
「ゲームでもする」
「良いね、何を」
 そうだな、と思案した後。
「どちらがここで、最後まで生きられるか」
 なんて、と君彦が言うまでの緊張感と言ったら、ここに帰ってこなかったら、きっと生涯味わえなかったろうものだった。
 君彦は肩をすくめる。
「冗談だよ」
「冗談なら、泣かないでよ」
「ごめん」
 君彦は泣くとき嗚咽をしないタイプで、涙と鼻水はたしかに滴っているのに声色は変わらないでいるから、逆に心細くなる。お湯がぐつぐつと沸いたので火を止めても、君彦の涙が止まらないから、そっと彼の震える手を撫でた。
 ねえ君彦、と呼んだ。
「一緒に逃げよう」
「嫌だ」
 君彦、と言うことを聞かない子供を諌めるみたいに言う。
「嫌じゃないの。君彦は生きなきゃいけないの。っていうかさ、ここにいることが生への逃亡みたいなところ、あるよ」
「違う」
「逃げてるよ。自殺みたいなもんだよ」
「違う」
「違くない」
「でもだって俺」
「うん」
「行けないんだ」
「なぜ」
 自然とテンポが高まっていく会話に、心臓が跳ねた。だって、と君彦の語尾も跳ねた。
「だって俺、がんじいを置いてはゆけない!」

 ■

 がんじいは二階の、元はおばさんの部屋のベッドに寝かしつけられていた。口をぽっかりと開けて、眠っているのかと思ったら目も開いていた。死んでるかもしれない、と首の脈と取ると、小さく打っているのがわかった。薄いシーツをめくると、その細い身体をぐるりと安物のベルトで締められていた。肘のあたり、腹のあたり、膝。三か所。
「がんじいを守るためだったんだ」
 君彦は言う。
「母さんが亡くなったとき、もういいや、死んでしまおう、と思ったんだ。海で入水自殺でもしようって、夜に母さんの遺骨抱えて海行ったら、がんじいに肩掴まれてさ。がんじい、笑っていなかった。ぎゅって口一文字にして、見たことない顔してさ。かといってなんか励ましの言葉言うわけでもなくてさ。でもじいっと、じいっと見つめ続けて方もつかみ続けてくるからさ、わかったよ、って帰ったの。たったそれだけ。三分もない出来事なんだけどさ、俺はがんじいを恩人だって思ってるの。それで、町が沈むことになって」
 そして黙った君彦は、昔から助けたがりだった。
 小学生の頃、私が東京から引っ越してきたばかりのとき、田舎が嫌で家出した。電車に乗って街まで逃げて、けれどたまたま君彦の帰り道とはちあってしまって、帰ろう、と手を差し出された。これ以上逃げる金も場所もなかったのを知っていたし、終電ぎりぎりにでも帰る気だった私は、早まっただけだと了承した。帰りの電車は吹雪に見舞われた。これ以上吹雪けばきっと、私は帰ることができなかった。
「来てよかったでしょ」
 すべて見通したような君彦の言葉に、つい頷いた。
 今の君彦は、何も見えていない顔をしていた。
「町が沈むってわかってすぐに、がんじいのところへ行った。がんじいはいくら手を引いても嫌がったから、仕方なく一発殴った。それで大人しくなったから、ここに運んだ。でも部屋に運ぶとまた嫌がってそこらじゅうで暴れたから、近所にばれるって思って、ベルト、付けて。水とかご飯は、ちゃんとあげて」
 懺悔めいた話を聞きながら、そっとがんじいのベルトを三本とも外した。
「良いじゃん、君彦。私は、間違ってなかったと思うよ」
 あっているとは言い切れなかった。私にはまだそれを判断する人生経験が足りなかった。ただ君彦を否定したくない一心だった。
「一緒に逃げよう、君彦。この町からさ。海からか。がんじいも連れてさ」
 がんじいは、ベルトを外しても動かない。たぶん筋肉がもうちゃんと働けないのもあるし、動こうとする意思も失われたのだ。がんじいの身体に付いた痣を、優しく撫でた。
「準備、しよう」
 君彦は泣きながら頷いた。
 逃げる準備のため、ひとまず私と君彦はセックスをする。人がいないのだから外でもできるけれど、ちゃんと部屋の中で布団を敷いて、窓だけ開け切った。波の音、さざなみ、潮のかおり、君彦の涙。初めてではなかった。おそらく君彦もそうだった。しかし、こんなに熱のない、悲しい行為があることを知ってしまって、寂しくなった。次があるとは思えなかった。
「君彦」
 手を伸ばして、絡め合わせた。雪が降り始めた。窓から風に流されて、私と君彦の身体に着地して溶けた。溶けるならば熱いはずの身体が信用ならないことを、すべて雪のせいにした。雪が降って良かった、と
 翌朝、シーツを纏って二階を見に行くと、がんじいの姿はなかった。眠っていた君彦を起こして、二人で探しに出掛けた。君彦はシーツさえなく、裸だった。玄関が開いていて、道の雪に引きずったような跡を見つけた。なんとなく裸足で追いかけた。迷うことなく、跡は海へと進んでいる。昨日より満潮に近い海は、コンクリートの壁から溢れていた。海の家の屋根もまったく見えなくなっている。追いかけた跡は階段さえ使わず、海へ飛び込んでいた。
 シーツが海風にはためいて、鳥肌が立つほど寒かった。足はもう霜焼けになりかけている。
 ねえ、と君彦に声を掛けた。
「言えなかったことがあるの」
「うん」
「私、小説で生計立ててるの。純文学でもミステリでもエンターテイメントでも、何でも書くの。名前を変えたりしてるんだけども。最近はね、ファンタジー小説書いてた。どうしてもここが沈むことがつらすぎて、逃げた海外旅行先でほとんど書いた」
「どんな話を」
「海に沈む街の話」
 海に沈んだ街では、幽霊たちが生き続けていた。喜びも悲しみもなく、息をしないことが許される。つまらない小説だった。海が沈むことに関係ない、顔も知らない祖父母や両親たちさえ生き返らせていた。それだけの小説だった。
 私は君彦と違う形で逃げていた。とてもじゃないけれど、向かい合ってたとは言えなかった。
 あーあ、と君彦はため息をつく。
「眠っている知らない間に、がんじいだけじゃなくって、町のすべてが沈んでしまえば良かったのに」
 私たちはどこへ行くのか、その言葉の中ではわからなかった。
「風邪を引いてしまう」
 ごまかすみたいな君彦の言葉に、私は頷いた。
 それから君彦は何も言わないで家に戻って、荷物を詰め始めた。私は今日の分の着替えを出すのと昨日の服をトランクケースにしまうだけだったので、また海へ足を運んだ。水平線の端から端まで見やるけれど、やっぱりがんじいはいなかった。
 仕方なく道の端にあった、雪の塊に埋もれた白い花をもいで、海に投げた。風に乗って上手く、遠くへ飛んだ。
 君彦から譲り受けたラジオを付けて、地面に置く。吹雪の予報が、ノイズ混じりに聞こえた。

 ■

 例の川端康成が浮かぶほどの、銀世界だった。
 きみは曇りかけたドア窓を拭く。拭いても拭いても白には変わりない。そんな、猛烈な吹雪。この電車がきちんと走っていることが不思議だ。
「来てよかったでしょ」
 私の言葉にきみは反射的にうなずく。視線は無数の白から離せない。特に思うところがあるというわけでもないのだろうけれど。むしろ考えないことを考えている、といった方がいいかもしれない。
 電車が小刻みに減速し始める。揺れに負けないようにきみはドア窓に額をつけた。冷たい。
 間もなく、大きな揺れと共に電車が止まった。すぐにドアが開く。さようなら、額の冷たさ。こんにちは、冷気。
 きみが感傷に浸っている間に、私はもう、白の世界に踏み出していた。柔らかい白地に黒い足跡がひとつ、ふたつ、みっつ。
「さあ、行こう」
 きみは私に向かって腕を伸ばす。私の足跡に重ねるようにして、きっと一歩一歩を踏み出していた。そのたび、鈴の音が響く。

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