// 果たして、果たして

 病室を訪れると、彼女はすぐさまこちらを見た。
「こんにちは」
「こんにちは」
 挨拶を交わして、窓際の椅子に腰かけた。
「お元気そうで、なによりです」
「ありがとうございます。下半身がなくとも、生きていけるものですね」
 寝ていた彼女はベッドから起きようとしたけれど、起き上がれなかった。空を手で泳ぐだけ泳ぎ、恥ずかしそうに微笑む。
「そうですよね、下半身がなかったら、起き上がれませんよね。まだ頭がわかっていないんです」
「お手伝いしましょうか」
「いいえ、手をわずらわせるのも申し訳ありませんので、このままで」
 そうですか、と私は頷いた。彼女も優しく頷いて、私の背中にある窓を見る。よく晴れた青空を、初めて見たようにじっくり眺めていた。そうしてしばらく黙っていたのち、口を開く。
「あの」
「はい」
「彼はどうなったのでしょうか」
 彼女は病院に運ばれたばかりのときも、やはり恋人を気にしていた。自分を上半身と下半身に分けた恋人を。大丈夫でしょうか、大丈夫でいらっしゃるでしょうか。くりかえし、息も絶え絶えの中、彼女は言っていた。そのときもやはり、手を泳がせていた。きっと恋人の手を求めていた。
「まだ何もおっしゃらないので、なかなか」
「そうですか。彼は頑固ですから、きっと難しいでしょう」
 そうですね、と呟いた。
 半月前、生臭い臭いがする、と近所の人間から通報があった。足を運ぶと、小さな古いアパートの一室は、血まみれだった。血だまりに死にかけの彼女と、呆然とした彼が座り込んでいた。真っ青だったあの顔は、今も似たようなものだ。
 私は顔を見に来ただけですから、と席を立つ。実際、仕事中の合間だった。
「あ」
 私が向けた尻のあたりを彼女は小さくつまんで、微笑んだ。振り向くと、指先に赤いものがつままれている。
「ほら、うろこですよ。もうないと思っていたのに。あなたのコートにでも、ついてらしたのかしら」
 私は苦く笑った。そうした小さなことで、たしかに思い出される。
 彼女は人魚だった。人になりたいと恋人に頼み込んだ。彼は了承して、のこぎりで上半身と下半身を分けた。彼が殺したのは彼女であった、魚だけだった。現場に残されていたのも、たしかに頭のない魚のような下半身だった。だから警察も裁判所も、どうすれば良いかわかっていない。そして彼も彼女も私も、誰も彼も。
 果たして、果たして。
 新しい事件を見るたび、頭の中を巡る言葉だった。事件が終わるたび間違いなく止むのに、この事件ではいつまでも巡り続けた。
 果たして、果たして。
「そのうろこ、頂いてよろしいですか」
「ええ、どうぞ」
 差し出されたうろこは、もう乾ききっていた。
 頭を下げて、病室を出る。
 廊下でその赤いうろこを鼻を押し付けてみるけれど、もう潮のにおいはしなかった。はじめからあったかもわからない。
「淡水で人魚は生きれるのかなあ」
 果たして、果たして。私は鱗をポケットにしまう。

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