形状記憶少女

// 旅

 恋人は目玉焼きを強火のフライパンにかけたまま、新聞を手にトイレへ消えた。「焦げるよ」「すぐ、すぐだから」。すぐの人は新聞を探して持っては行かない。そうして結局、私が端の焦げた目玉焼きを皿に落とすしかなかった。「ねえ、冷めるよ」。トイレの扉をノックして、反応がないのにため息をついた後、白飯もよそって、味噌汁もよそった。もちろん別々の器であるのに、彼はいつもトイレにぎりぎりまでこもって遅刻しそうになるから、慌てて味噌汁の器にすべてぶちこむのだった。白飯も、目玉焼きも。味噌汁に沈む。わかめが絡みつく。冷めていたほうが都合が良かったのだ。
 しかし、今日は家を出る時間になってもトイレから出てこなかった。はて、と思う。「ねえ」。ノック。「遅刻だよ」。ノック。無反応。「冷めたから」。ドアノブを回す。開く。「食べれるけど」。食べる人間がいなかった。
 トイレには日差しが差していた。洋式の白いトイレに黄色地にオレンジ色の花を咲かせたカバーは、中に排泄されたものを隠さず開かれている。匂いもした。昨日の夜、彼は会社の上司の酒に付き合ったから、ひどくアルコール臭い。床には新聞紙が置かれていた。朝刊だった。先ほど彼が間違いなく、持ちこんだものだった。彼はいなかった。茫然と驚いて、トイレの中をつい覗いた。幸い、私がきらいなミステリのように、水面に足は生えていなかった。ただアルコールのにおいは更にきつく、鼻についた。緑色の尿だけしか、中になかった。私は落ち着いて、トイレの水を流した。小。レバーを左へ。
 私は大学へ行く。必修のテストがあって、これを落とすと五年生を迎えてしまうかもしれなかったから、何としてでも行かねばならなかったのだ。「たとえば、恋人がトイレで行方不明になっても?」。そんなことを尋ねる友人がいなくて良かった。私の良心は、私だけしか責め立てられることができなかった。狭い教室で入学したばかりのとき、間違えて入ってしまったサークルの知り合いと軽く目配せの挨拶して、テストをした。だめかもしれなかった。
 昼を迎えると、彼の職場から電話が来た。
「彼が来ていないんですが」
 でしょうね、という言葉を飲み込み、季節外れのインフルエンザであり、連絡が遅れたことを詫びた。職場は疑わなかったが、インフルエンザ証明証が必要なことに後から気付いたが、仕方ない。嘘なのは違いないのだ。
「しまったぞ」
 夕方になってようやく、携帯に彼から連絡が来た。テストを終えて何の気なしにバイト先へ足を運ぶと、見逃していたのかシフトが入っていたから、仕方なくレジに入った後だった。
 もしもし、の挨拶もないまま、彼は神妙に繰り返した。
「しまったぞ」
 思っていたよりも演技がかって余裕そうだったので、心配しなかったのは正解だったなと思った。驚かせるのが好きな人だから、たぶん、あれだな、トイレの小さな窓から抜け出したのだろう、そうして私を一日驚かせたかったのだろう。そう予想付けて尋ねた。
「今、どこにいるの」
「アジアのどこか」
「どこよ」
「地理が弱いから、わからん。嘘じゃないからな」
 ほら、と受話器は彼の後ろに向けられたらしい。何の言葉を紡いでいるのだかわからない、賑やかな喧騒が聞こえた。たしかに、日本ではなさそうだった。町中か市場なのか、ときおり激しい声が飛んで、四足歩行の動物が土埃を舞わせて歩く音さえ聞こえる。信じがたい。受話器はそれらの音から遠のいて、その喧騒に負けないよう声を張る彼に戻った。
「なあ、だろう。気が付いたらな、いたんだ」
 私は曖昧に相槌を打ちながら考える。パスポートとカードと半日もあれば、こうしたところへ行けるのだろうか。あのパジャマ姿で。歯磨きもしてない、寝癖も直していない。私はわからない。
「大変だったんだぞ、言葉も通じない屋台のじいさんにな、携帯借りてな」
「じいさんが携帯持ってるの」
「うちの呆けたじいさんだって持ってるぞ。ボタン三つだけのな」
 やっぱり、余裕そうだった。
「もう切るよ、早く帰ってきなね」
「当分無理そうだ」
「なぜ」
「楽しいからだ」
「このどっきりが?」
「どっきりじゃない。どっきりだったけど、どっきりじゃなくなった。世界旅行が楽しくなった」
 私を驚かせるために外に小さなバッグを用意して、そのまま知らないアジアの土地へ高飛びしたのだという。服とパスポートと少しの現金とカード、それから飛行機のチケットはキャンセル待ちをしたら運良く一人分手に入ったのだという。職場には有給を申し込んでおいて、昼の電話は悪友に頼んだのだという。「お前、インフルエンザはばれるぞ。今回だったから良かったがな、自分のときはやめなさい」。
 私は尋ねる。
「もう帰ってこないの」
「そしたらどうする」
「別の恋人を作る」
「良いね」
 彼は笑う。
「帰るという言葉は合うかわからないが、日本にはいずれ行くよ」
「そう」
「恋人は作っても良いけど」
「うん」
「再会したら、セックスはしよう」
「良いよ」
「またな」
「ばいばい」
 電話を切る。帰ったら、朝食を食べよう。

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