// 手を

 幼い頃に知らない人の手を握って、どこまで付いていくことが許されるのか試していたことを思い出したのは、産んだ赤ん坊が私の人差し指を握ってきたせいだ。「良かったですね」と、なぜだか産婦人科医は祝う。「昔は赤ん坊、みんながそれをしたんですけどね、近頃はしない赤ん坊もいますので」。だから何が良かったのだろう。昔ながらであること? みんなと同じであること? 私はそうですか、と頷いて、痛む膣を思いながら赤ん坊が指を離してくれないことに少し困る。
 知らない若い女は、小さな私の手を驚いて振りはらった。赤いマニキュアが塗られた長い爪は手の甲を引っ掻いていった。あんまりに鋭かったのか、私の皮膚が薄かったのか、みみず腫れも許されないで赤い血が滲み出た。それが申し訳なかったのか、若い女は座り込んで、目線を合わせて困った顔をした。「どこのお嬢ちゃん? ここの家の子?」。すぐ横にあった一軒家を指差されたが、知らない家だった。首を横に振ると「そお」と若い女は首を傾げた。金色の長い髪はつむじの辺りが真っ黒だった。「じゃあ、迷子かしら」。違った。家からそう離れていない上、もう通っていない幼稚園の道のりの途中であったから、いつだって帰ることができた。首を横に振る。「暇なの」。首を縦に振る前に若い女は笑った。「わかるわ」。「そういうときってあるわよね」。若い女は皺がついたハンカチで私の血を拭い、バンソウコウをくれた。「あたしが暇だったら良かったんだけど」。そう言って、手を振って去っていった。駅の方角だった。
 知らない老人は驚いたけれど、手を振り払うでもなく、力を込めるわけでもなく、私を見た。知らない子供であることを確認するなり、そっと手をほどかれた。「おれはお前のじいちゃんじゃねえからなあ」。惜しむような声色だった。たしかに血が繋がっていれば、こんなことはいくらだって許されるんだろう、と思う。「飴やるからお行き。警察でも呼ばれたらな、娘に泣かれるからな……」。そうして、老人はべっこう飴をくれた。ポケットは膨らんでいて、まだまだ、いくらでも持ち合わせていそうだった。しかし私はべっこう飴が嫌いだったから、老人が去るなり、土に埋めた。どぶに捨てるのは気が引けて、地面ならあるいは、蟻か誰かが食べてくれるかもしれない、と思ったのだ。土を掘り、目印に近くの木の棒を立てていると知らない子供が近寄って、尋ねてきた。「死体?」。
 知らない男は、私を見なかった。その男の横をずいぶん歩き続けた。知っている道はやがて知らない道になり、知らない駅、おそらく最寄りのひとつ隣にある駅前の喫茶店に入った。さすがに許されまい、と思ったけれど、男の手は力が入りすぎもせず、入らなすぎもせず私の手と共にあったから、つい正面の席に座った。もしかしたら見えていないんじゃないだろうかと思われたが、店員はきっちり水をふたつくれたし、濡れたナプキンも二つくれた。「珈琲ひとつ」。男は低い声で言った。「ホットですか」。男は頷く。「そちらのお客様は」。店員は丁寧に、私と男の両方を見た。私は首を振った。この遊びにおいて喋らないことも私の中にあった規則だった。男は代わりに言った。「珈琲をもうひとつ」。男はやっぱり私のことが見えているらしかった。運ばれた珈琲に、私はたっぷり砂糖とミルクを入れた。男は本を開いた。薄い文庫本だった。カバーが付けられていたから、何の本かはわからなかった。尋ねることも、先の規則で許されなかった。そのわりに、男はすぐさま珈琲を飲み干すし、瞳をさほど動かさないうち本も閉じた。私も慌てて飲み干した。男は席を立つ。追い掛けた。男がきっちり珈琲二杯分の金を払うと、あらためて手をつないだ。男は電車に乗ろうとした。一番遠くまでの切符を、大人と子供一枚ずつ購入した。私はそのとき、きっとこの人はどこまでも許すだろうということに気付いた。しかし、私は相手が手をほどかないときの規則を決めてはいなかった。ちょうど電車が来ていた。もう扉は閉まりかけていた。男は軽く走ったが、私は足がもつれて倒れ込んだ。手がほどけて、男は電車に乗って行ってしまった。男は私を見てはいなかった。私は泣きながら、駅員にホームから出たいことを言った。「さっきのお父さんは」。私は首を横に振った。「お兄さん?」。そうではなかった。
 赤ん坊は指を離す。やがて泣き出した。私は抱いて、赤ん坊を揺らした。この子に父親はいなかった。でも手を繋げる手は二本あるから。

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