// バレリーナの娘

 あの娘が可愛いと褒めそやされるのは、バレエを習っているからに違いない。
 長く伸ばした前髪ごと、あの子はいつだってきつく後ろにまとめてた。いくら黒いヘア・ネットったって、レースとリボンが付いていたんじゃ校則違反に決まっているのに、校長さえ何にも言わない。きっとあの娘のご両親が、学校にお金でもたっぷり渡してんだわ。それをまわりの娘たちが、あの娘は特別だから、って勘違いしてるから救われない。これについてはあの娘にすこし同情するし、考えなしに似たような髪飾りを買う娘たちは馬鹿ばかりでうんざりした。
 昼休みになると、いつだってあの娘は踊りだす。クラスの娘の誰かが求めることもあれば、ふと指先を反らして立ち上がることもある。どちらにしたって、みんなの視線をかっさらう。チュチュなんか着なくたって、あの娘は紺色のスカートをひるがえすだけで十分なのだ。
「とっても素敵」
「もう一度まわってくださる、そう、くるりと」
「そんな動き、あたし、できやしない」
 娘たちは、ぎこちなく真似をする。アン・デュ・トロア。立派なのは口ばかり、足を伸ばすことさえままならない。根気強く教えられたってすぐ、できないわ、とあきらめるのを、あの娘だけが続けて踊ってこう返す。
「トウ・シューズがあれば、もっとうまく踊れるのだけれど」
 あたしだって、あの娘と同じバレエ教室に通って、同じトウ・シューズがあれば、同じぐらいうまく踊れる。そうした自信は口に出さないで、あの娘のなめらかな足の動きを見ながら、小さく鼻を鳴らすだけだ。
 その日思い立って、放課後、貯金箱を持ち出した。欲しいものひとつ買えるほどには貯まってる。電車に乗った行き先は、街にたったひとつあるバレエ用品専門店だ。あの娘が使っているという店。間違ってもはち合わせないよう、店に入るなりすぐさま目的のトウ・シューズを指差した。あの娘と同じのかは知らないけれど、うんと可愛い白いシルクのトウ・シューズ。
「こちらのトウ・シューズを頂戴」
「サイズはおわかりですか」
「ええ、もちろん」
 店員はあたしの顔をうかがって、腰低く問いただす。
「こちらで測ったほうが、間違いないですが」
「本当に、よろしいから」
 強く言い返すと、わかりました、と店員は肩をすぼめた。取り寄せるのに数日かかるという。構わなかった。
 翌日、あの娘がおずおず話しかけてきた。まさかトウ・シューズを買う姿を見られたのだろうか、と身体を強ばらせたけれど、差し出されたのは一枚のチケットだった。
「今度、バレエの舞台を立つんですの。お時間空いてらしたら、ぜひいらしてくださいな」
 他の娘たちがもらったのと同じらしいチケットの日付を見ると、ちょうどすっかり空いていた。ちょうどトウ・シューズを受け取る日でもあったから、暇つぶしに行くことにした。
 舞台が始まる直前に、そっと扉を押し開ける。思っていたより大きな舞台で、主催しているバレエ教室も有名なところらしかった。知らない観客たちの中で、なぜかうんとおめかしをしたクラスの娘たちには見つからないよう、ひっそり後ろ隅の客席に座る。アナウンスの口上もそこそこに、舞台は始まった。あの娘は、すぐには出てこなかった。知らない美しい少女ばかりが、ティアラを付けて踊っていた。
 あの娘が出てきても、すぐにはわからなかった。きつい化粧と白いチュチュで、多くの娘に溶け込んでいたからだ。学校ではひとりっきり、何もかも違う人間のようだったのに、舞台では娘たちのひとりに過ぎなかった。どれがあの娘なんだか、目を見張らねばわからなかったし、めぐるましく動くのに追いきれなくなれば、また捜し直さねばならなかった。あたしは妙にほっとする。それみたことか。あんただって、そんなもの。乾いた唇を舌で舐めながら、舞台を見つめた。飛び跳ねる娘は汗をだくだくと流す、ただの不器用な鳥だった。赤く塗られた唇は、きゅっと引き締められている。
 舞台を見た娘たちは学校にいる間一日中、選ばれし人間のようにあの娘を口々に褒め称えた。
「とっても素敵でしたわ……まるで本物の白鳥のよう」
「いいえ、白鳥なんてとんでもない、お姫様か、天使のようだった」
「本当に。素晴らしかったこと」
 見に行けなかった娘たちは羨ましがって、次の舞台を見に行くことを決心する。話題の主役であるあの娘はぎこちなく笑み、言葉少なくこう言うきりだ。
「ありがとう、みなさん、本当に嬉しい」
 放課後、あの娘は学校まで迎えに来た車に乗ってバレエ教室へ行ったはずだったのに、教室へ戻ってみると残っていた。教室の後ろの棚で、空っぽだった花瓶に色とりどりの花々をうんと詰めて、重そうに置いていた。視線が合うなり、うやうやしく頭を下げられたから、あたしもつられて頭を下げた後、問うた。
「バレエ教室、大丈夫ですの」
 娘はこっくりうなずく。
「ええ、急にお休みになったらしくって。それで先日の舞台で頂いたお花を、母が持ってきたので飾りに戻ってきたんですの。お家にもう、飾る花瓶も場所もなくなってしまったから」
 ご迷惑になってしまうかしら、と娘は首を傾げる。あたしは娘が花束をもらう前に席を立ったから、どれほどもらったのか知らなかった。あんな端役でたくさんの花をもらったのだろうか、それともみんながみんな、たくさんもらっているのだろうか。なんにも知らなかった。
 あたしは笑みを繕って、首を振る。
「とっても素敵。きっと、他のみんなも喜ぶわ」
「良かった、安心しました」
 沈黙は、娘の白い指先でささやかに位置を変えられる花を見ているだけで埋められた。去ろうか迷っていると、ありがとうございます、と娘が口を開いたから、去れなかった。
「なにかしら」
「舞台、見に来てくださってたから」
 その言葉に、あたしは素直に驚いた。なにせ誰かに挨拶もしてなければ、姿も見られてなかったはずだから、すっかり気の抜けた声で返してしまった。
「ええ、気付いてらしたの」
 いたずらに笑う娘は舞台のときと違って、汗ひとつかいていない、つやつやとした肌だった。
「みんな知らないことですけれど、案外舞台の上からだと、暗い客席もよく見えるんですの」
 今日もよく褒めてくださった子いらしたけど、あの子ったら、何度もあくびしてたんですのよ、と娘は笑う。やがて笑うのをやめたときには、舞台の上と同じで、唇をきゅっと引き締めていた。
「わたし、下手くそだったでしょう」
 あたしは何にも返せない。そおかしら、と他愛のない言葉を言う前に、娘が続けて喋ってしまった。
「母も父も、わたしにバレリーナになってほしがってらっしゃるけれど、学校を卒業したら、バレエをやめようと思ってるんですの」
 初めて他人にこんなこと言いました、と娘は照れ笑いするから、あたしは戸惑う。
「あたし、あなたのこと、ずっとバレエが好きだと思ってた」
「好きと上手は違います」
「でもじゃあ、どうして、あたしにそんなことをおっしゃるの。あたしはバレエなんて、何一つ知らない、ただの……」
 娘は静かに首振った。
「ずっと私を、厳しい顔で見てらした。だからきっと誰よりも、すべてわかってらっしゃるって、思ったから」
 娘は花瓶に挿された花束の中から、元より萎れていたらしい花を一本抜き取り、黙って手折った。音なく花が折れるのに、あたしはなんだか驚いてしまう。
 娘はそうして、俯いていた顔をあげた。
「わたしにバレエが似合うのは、娘のうちだけってこと」
 娘は大きな瞳を涙でうるませて、あくまでけなげに微笑んだ。
「先生、どうぞまた、舞台を見にいらしてくださいね。わたし、頑張りますから……」
 あたしはずっと、娘の手の花を眺めていた。
 帰り、店でトウ・シューズを受け取った。家に帰るなり箱を開いて、包んでる紙をいそいそ破り、さっそく履いてみた。姿見に映るあたしの足は、舞台にあったあの娘の足に負けず劣らず美しい。足にぴったりのトウ・シューズは、既にあたしの身体の一部のようで、うっとり撫でると、指先はシルクを滑っていった。
 立ちあがって、そっと目をつむる。するともうそこは狭い部屋なんかじゃなくって、あの娘が立ってたみたいな大きな照明に照らされた広い舞台。観客たちの期待した顔が、たしかによく見えた。
 アン・デュ・トロア。頭の中で口ずさむ。脚を伸ばす仕草だけで、観客は釘付けだ。指先で立ってみるなり、トウ・シューズが足と離れる感覚。指先が詰まった分、かかとが浮いたのだ。ふらついたのを立ち直れないで、あたしは転ぶ。トウ・シューズも勢いでほどけて、脱げてしまった。あたしはもう踊れない。きっと観客たちは、がっかりしている。おそるおそる、あたしは観客席を見下ろした。しかし観客たちは期待した顔を崩してはいない。しかし、あたしの後ろを見ているのだ。振り返ると、あの娘が踊っている。ぎこちなく、唇をきゅっと引き締めて踊るあの娘。けれど観客の焦点はそこにすら合わない。さらにその先の、ティアラを付けて舞う、美しい少女にあった。
 あたしは、しとしと泣く。飛んでいったトウ・シューズを拾って、きれいに箱にしまいなおしながら、もう二度と開けないだろうと予感していた。涙が止まらなくって、あたしは幾度も鼻をスンスンすすっては、こすった。
 ああ、これが最後なのだろう、と思った。そうきっと、泣き止むまでが、あたしが娘であれるときなんだって。

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