// 雌豚

 広幸さんのおじいさんは養豚場を営んでいた。だから広幸さんも豚と一緒に育ってきて、特に広幸さんと同じ誕生日に生まれた豚なんかは特に可愛がったのだった。
おじいさんは広幸さんを信用していろんなことを自由にさせていたけれど、ひとつだけ約束をしていた。養豚場から豚を出してはいけないよ、とただそれだけ。連れていく力もなければ場所もない、まだ小さかった広幸さんは養豚場で豚と遊べれば満足だった。ウンウン頷いて、おじいさんのほっとした顔をいつも不思議に眺めていた。
 けれど広幸さんもすくすく育って、やがて小学三年生にもなると、自尊心というものがうずうずしてきた。周りの友達が犬だの猫だのペット自慢をしているから、広幸さんだってうちは豚を飼っていると胸を張りたかったのだ。
しかし広幸さんが言い張ったところで、周りの友達はピンとこない。なにせ広幸さんが通っていた小学校は広幸さん家からずいぶん遠いニュータウンのほうにあったから、山側のほうに養豚場があるなんてことは誰ひとりとして知らなかったのだ。疑わしげなざわめきも、広幸さんの幼馴染であるミドリちゃんのおかげで静まった。
本当よ、広幸のおじいちゃんはねえ、たくさんの豚を飼っているの。
広幸さんは勉強も運動も並々にしかできなかったけれど、ミドリちゃんは勉強も運動もうんと得意の物知りさんで、学級委員も任されているぐらいだったから、そんなミドリちゃんが言うんなら、とみんなやっと信じてくれたのだ。
広幸さんはそんなミドリちゃんのことが好きだった。ただ昔から一緒にいたからこそ芽生えた好意であって、愛着によく似ている、でも自覚さえ伴えばいつだって初恋になる、そんな感情だったのだ。しかも自分のことを守ってくれるのだから、広幸さんはうっとりミドリちゃんの横顔を見た。
でもガキ大将みたいな男の子が、そんじゃあ豚持ってこいよ広幸、と不遜な態度で言い始めてしまったのは、ミドリちゃんも止められなかった。本当のところを言うと、ミドリちゃんもあの臭い養豚場まで行くのは嫌だから、綺麗で臭くない小学校で可愛い子豚を見れたら良かったな、と思っていたし、ガキ大将の男の子はミドリちゃんのことが好きなのにミドリちゃんは広幸さんをかばうから気に食わなくてついついそんな見たくもない豚を持ってくるよう言ってしまったし、何より張本人である広幸さんも自慢したくって仕方がないものだから、みんな話に乗ってしまったのだ。
 次の日広幸さんは放課後すぐさま家に帰って自転車に乗って、おじいちゃんちの養豚場にひっそり忍び込み、一等に可愛くって人懐こい子豚を選んでかごに乗せた。豚も初めて見る外の光景にうんと興奮していたから、広幸さんも一緒になって興奮していた。もう広幸さんの頭の中にはみんなの賛辞だけがあった。急いで小学校へ向かうと広幸さん以外、もうみんな揃っている。
昨日よりも人数が多いのは、ガキ大将が言いふらしたためだった。広幸さんはなるべくゆっくり、なんでもないという顔つきで歩み寄った。先に見つけたひとりが思わず、アッ、と声を上げた。みんなが広幸さんのほうを見た。自転車の子豚を認めるなり、みんな声を上げて喜んだ。
嘘じゃなかった、可愛い、メスなんだ、あったかい、とみんな好き勝手撫で回しては口々に感想を叫んで騒いだ。ガキ大将の子も、ついつい馬鹿にしてたことなんて忘れて、興奮して抱きかかえた。広幸さんは満足だった。地面で走らせたりするだけで、みんな感嘆の声を上げるから、気持ち良くって仕方がない。みんなでわあわあ騒ぎ続けた。
ここで先生に見つからなかったのは、とても運が良かったのだけれど、ふっと大人になった広幸さんが思い返すと、さっさと見つかって叱られておけばよかったのだ、と思ってしまうのだった。
 しばらく遊んでいると、ねえ、どうしたの、とふたりの女の子が近寄ってきた。隣のクラスのアユミちゃんとヒカルちゃんだった。
アユミちゃんがお金持ちのお嬢様っていうのはみんなが知っていることだったし、ヒカルちゃんが舞台やコマーシャルに出ている子役だっていうのも、近頃知れ渡り始めた話だった。広幸さんもふたりのことは知っていたけれど同じクラスになったことはないし、なにより他の女子に比べてうんと大人っぽくてオシャレだから近寄りがたかったのだ。
でも今の広幸さんはいつもと違う。
なにせ、今は可愛い可愛い子豚がいるのだ。アユミちゃんやヒカルちゃんに比べたって、遜色がないはずだ。広幸さんは、キミたちも触って良いよ、なんていつもより大人っぽい受け答えをしてみた。子豚を持ちあげて、すぐにでも抱きかかえられるよう、アユミちゃんへ腕をのばした。キャア、可愛い、なんて抱きかかえるアユミちゃんを、広幸さんは想像していた。
 やだ、汚い!
 アユミちゃんは広幸さんの肩をつい突き飛ばした。広幸さんは後ろによろけたけれど、女の子の力なだけあって、さして強くはなかった。それでも、本当に驚いたのだ。
汚くないよ。
と広幸さんはすぐさま言ってみたけれど弱々しく、アユミちゃんはぶんぶん首を振る。そうするとリボンで結ばれたツインテールがぶんぶん回されて、ちょっと目が回りそうだった。
嘘よ、だってあたしテレビで見たし、ママから聞いたわ、動物ってスンゴイ病気とか菌持ってるんだからね。
アユミちゃんは憎々しげな顔で子豚を睨んでいた。ちょっと触れた服の全身を、ぱっぱと払いながら。広幸さんも他の子もなんにも言葉を返せない中、ヒカルちゃんが笑って返した
アユミだって猫ちゃん飼ってるじゃない。
ほっとした。
アユミちゃんは性格悪いけれど、ヒカルちゃんはやっぱり大人に囲まれていることが多いから大人っぽいのだな、と広幸さんはちょっとヒカルちゃんのことが好きになった。アユミちゃんはすねたみたいに唇をとがらせた。
違うわよ、ラブちゃんはそうやって病気とかにさせないためにずっと室内で飼ってんだから……それにケットウシュだし……。
と言ってみたものの、ママが言っていたこと以外はあんまりさだかでないらしかった。
ヒカルちゃんは、はいはい、と笑いながら、手を広幸さんのほうに差し出した。ねえ、私に抱かせてよ、いいかな、と。にっこり笑うヒカルちゃんに、広幸さんは慌てて頷いて、子豚を差し出した。みんなも前の調子を取り戻して、次私、お前はさっきも抱いてたろ、なんて言葉を交わせるようになった。ヒカルちゃんは優しく子豚を抱きかかえた。心なしか、子豚も大人しいから広幸さんは安心した。
けれど、ヒカルちゃんが子豚を抱いていた時間はそう長くない。十秒きっかり、突然ハイッと広幸さんに押し返してきたのだ。広幸さんにはさっぱり事情がわからない。もしかしたら次の子のことを考えたのか、とも思ったけれど、なにせヒカルちゃんが笑ってないのだ。どうしたの、爪で引っかかれたの、とおそるおそる尋ねると、ヒカルちゃんはさっきと違う困った笑顔を見せた。
ううん、別に大丈夫。
広幸さんが、じゃあ、と言う前にヒカルちゃんは言った。
やっぱり豚臭かったから、いらないって思ったの、あ、服は大丈夫よ、これ前から気に入らないから捨てようって思ってた奴だから、みんなも臭いは気を付けたほうが良いわよ、そう、特にあなた。
ヒカルちゃんは広幸さんを指差した。ああ、でももうダメかもね、飼い主なんでしょ、豚の臭い染みついちゃってるんでしょうね、かわいそうに、アユミちゃん、もう行こ、っていうか私着替えたいから、一旦家に帰って良い?
アユミちゃんは突然のことに驚きながらも、どうもそれは自分に不利じゃないことだけは察して、嬉しそうにウンウン頷いた。ふたり手を繋いで去るまで、またみんな、茫然としてしまった。
 それからなんでもない、という振りを広幸さんがして、別の話でもすれば良かったのかもしれないが、広幸さんが動く前に、クラスの女の子が豚をうんと撫でていた手の臭いを嗅いでしまった。やっぱり、豚の臭いがしたらしかった。
臭いわ。
ガキ大将も、ミドリちゃんほど好きでないにせよ、ミドリちゃんより可愛いあの二人にそんなことを言われてしまって、プライドが傷ついていた。やっぱり豚はダメだな、くせーなんてよお、汚いみてーだしよお、とむやみに悪口を言い始めた。広幸さんは上手く言葉を選べなかった。そんなことないよ、としか呟けなかった。でも臭いのは本当だし、汚いのも首を振りきれない。あのおじいさんの養豚場は昔ながらやっているだけあって、古いし汚かったからだ。子豚を洗うにしたって、自分みたいにシャンプーやボディソープを使うわけじゃなかったから、怪しいものだ。
口ごもる広幸さんにかわって、ミドリちゃんがかばおうとしたが、できなかった。広幸さんが抱いていた子豚がぷるぷる震え始めたのに、つい目が奪われたのだ。自分が汚いだの臭いだの言われて、悲しくて泣いているのだろうか、と小学三年生のみんなは心清らかに思った。しかし、そんなことはなかった。広幸さんも途中で、しまった、と思ったけれどもう遅かった。
子豚はぷりぷりとうんこをし始めた。
それも体調があまり芳しくなかったのか、いつものとは違う下痢みたいな水っぽいうんこだったから、広幸さんの服は茶色に汚れてしまった。うんこだーと誰か騒いでくれれば、と広幸さんは初めてそんなことを祈った。そうしたら今のうちだけ騒いでなんとかなる気がしたのだ。
けれど、みんなシンとしていた。そのうち臭いも辺りに充満してきて、それでも誰もしゃべらないから、もう広幸さんは耐えきれなくってその場を逃げ出した。来るときもずっとずっと早く自転車をこいだ。ハアハア息が切れても、脚が疲れても、走り抜けた。
 養豚場では、一匹豚がいないことに気付いたおじいさんが広幸さんを怒鳴って迎えたし、家に帰ると服がうんこで汚れているから、お母さんが悲鳴を上げた。広幸さんはそのとき生まれて初めて、死んでしまいたい、と心の底から思ったのだった。
 次の日から、広幸さんはいじめられるようになる。
ブタヒロ、ブタヒロ、とガキ大将は罵って、他の男子達もそれに乗ってさまざまなあだ名を作った。女子はそうしたことはあんまりしないけれど、広幸が近寄ると大げさに避けた。それもまだ男子たちみたいに笑って避けてくれればいいのに、笑わないで無表情に遠のくから恐ろしかった。たまに遠くで広幸を見て囁き合う女子たちは、ときおりその中で一人だけ近寄ってきたりした。それでわざとらしく鼻を動かして広幸さんの臭いをかいで、キャアと変な悲鳴を上げて戻っていく。
やっぱり臭いよ。
豚くさあい。
アユミちゃんとヒカルちゃんの言うこと本当だったあ。
なんて感想を勇者みたいに胸を張って語る。周囲も、あの臭いをかぎに行けるなんて、とはじめは尊敬の眼差しを見せていたけれど、そのうち飽きてしまったのか、罰ゲームで負けた子が嗅ぎに来るようになった。その中にはミドリちゃんもいた。悲しんだ広幸さんは養豚場へ行こうかと思ったけれど、それでは何も変わらないことに気付いて、我慢した。脳裏に子豚を描いては消した。広幸さんには本当にすっかり、友達が消えうせてしまったのだった。
 それについて何が一番問題かと言うと、ここの町があんまりに田舎で学校の選択肢がないから、中学は私立志望以外は持ちあがり、高校もほとんどメンツが変わらないということだ。それでも長い休みに入ったりすれば、みんなすっかり忘れるだろうと思ったのだけれど、広幸さんのそんな考えは甘かった。
みんな、初めてのいじめだったのだ。
その甘美さにすっかり魅了されてしまったらしくて、広幸さんがずっといじめられるはめになったのだった。もちろん、たまにはみんな他の子をいじめてみたりするのだけれど、それで広幸さんのいじめが終わるということはなく、ずうっと継続された。ただ、高校生にもなるといじめるということも疲れるし、みんなお金をよこせとかそういうことがしたいんじゃないし、別の部活とか恋愛とか楽しいことがあるから、今までみたいなことはやめてしまった。ただただ、広幸さんを無視するようになった。それでもたまに思い出したみたいに囁いてきた。
ブタヒロ、豚臭い。
 広幸さんは勉強を頑張って、大学では遠くへ逃げ出すことを決めていたころだった。広幸さんをいじめていた連中が広幸さんより頭が良くて良い成績を取っていたりするのをみて、死にたくなりながらもなんとか続けた。
といっても、主犯のガキ大将は中学を卒業してすぐに実家の大工を手伝うようになったから高校にはいなかったし、アユミちゃんとヒカルちゃんもわざわざ電車で一時間もかけて私立の女子校へ通っていた。幼馴染のミドリちゃんだけが、同じ高校に通っていたが、幼馴染なんてもう飾りみたいな言葉になって、声をかけることもかけられることもなかった。アユミちゃんとヒカルちゃんがいなくなったおかげで、学校の一、二を争う可愛い女の子、ということになっていたミドリちゃんは高校に入ってすぐナンパされ、野球部の男子と付き合っていた。スポーツ推薦で入ったイケメン、とまでは広幸さんも聞いたことがあったけれど、甲子園の県予選で初めて見たとき、剃り込みを入れた目つきの悪い坊主だったから、ぎょっとしてしまった。それでもキャプテン確定、なんて言われているらしいことを聞いて、広幸さんは嫌な気分になった。ミドリちゃんもたまにちらりと覗いたけれど、スカートが短くなって、眉を整えるようになったぐらいであまり変わっていないように見えた。
ただ、たまたますれ違ったとき、ふわりとレモンの安っぽい香りがしたときは嫌になった。香水を付け始めたのは、彼氏の趣味に合わせるためだろうか、そうじゃないと良いな、ただのオシャレだと良い、なんて。
 高校二年生になると、おじいさんが亡くなった。
広幸さんが高校に入学した頃から体調を悪くしていて、それでも頑なに入院せずに働き続けたのだけれど、ある朝、養豚場で倒れていたのを近所の人が見つけた。そのときにはもう呼吸をしていなかったという。広幸さんは泣かなかった。
葬式で両親含めた親戚たちが養豚場を潰す話をし始めたときばかりは、さすがに動揺した。元々さして儲かってなかったのを、おじいさんの老後の趣味みたいなものとして続けていただけだし、それを継ごうという人もいないのだから、当然だった。
僕が継ぎます。
と、広幸さんは言えなかった。そもそも継ぐ気もなかった。高校を中退してまで続けるほどの価値を、広幸さんは懐古以外で見出せなかったのだ。何より、ずっとここにいなければならないことになる。それこそ元も子もない。広幸さんはなんとしてもこの土地を離れなければならないのだ。火葬される直前のおじいさんに謝って、骨を拾うときもまた謝った。
ごめんなさい、おじいさん、ごめんなさい。
口をもぐもぐさせていたのを、骨食べてるみたいよ、と母親が見て言った。
それきりだけれど、ひとつだけ、思い残しはあった。あの、いじめが始まるきっかけになった子豚のことだ。もちろん、あれからもう随分と時間が経っていたから、子豚もすっかり丸々太ったただの豚になったのだけれど、あれだけは出荷されなかったのだ。
なぜかと広幸さんが両親に尋ねると、どうも広幸さんが随分可愛がってたのに怒ってから突然来なくなったのだが、次に来たときにあの子がいなくなっていてはかわいそうだろうとおじいさんが残していたのだと言う。でも、もうおじいさんもいないし、寿命だから殺してしまうんだ、とも。広幸さんの胸が痛んだ。そう、と知らんぷりしながらも、おじいさんとあの子豚の頃を思い馳せた。けれど、あいつが糞さえしなければ、まだこんなことにはならなかったかもしれない、という気持ちも少しよぎった。
 葬式の数日後、広幸さんは夜に養豚場へ忍び込んだ。もう豚はすっかりいなくなっていた。ほとんどの豚は隣町の養豚場が預かったのだと言う。だから、暗闇の中でも目当ての豚はすぐに見つかった。ブウブウうるさく鳴くその豚は、記憶の子豚と何一つそぐわなかった。広幸さんの細い体の二回りも三回りも大きく、その肉を包み込んだ皮が張り裂けそうだった。とてもじゃないけれど、もう持ちあげられるはずもなかった。
処分するまで近所の人が餌をやってくれるらしいから、ただ一匹になっただけだ、としか思っていないのだろうか。
広幸さんは嫌になる。
妙に興奮している豚の尻をひとつ叩いた。大きな声で一度鳴く。元から落ち着きがない豚だと思っていたけれど、はて、と広幸さんは首をかしげたが、いずれ納得した。発情期なのだ。まだその言葉を知らない頃に、興奮した豚に向かって祖父がそう言っていたのを思い出した。もうすぐ殺されるというのに。
もう一度、広幸さんは優しく尻を叩いた。豚は鳴きながらも体をよじらせて広幸さんの腰の辺りを鼻で付いた。すると、ポケットに入っていた瓶が動く。ズボンは、着替えていなかったから制服のだ。それは広幸さんに豚臭くなる、という発想より早く、ミドリちゃんのことをすぐさま思い出させた。その瓶は、ミドリちゃんの香水だった。おじいさんが亡くなった、と担任に教えられ、早退することになった日に、盗んだのだ。
荷物をまとめ、昇降口に向かおうとする途中、からっぽの教室に広幸さんはつい足を止めた。ミドリちゃんのクラスで、今は体育の時間だった。耳を澄ますと、バレーにキャアキャアと騒ぐ女子たちの声の中に、ミドリちゃんの声も聞こえるような気がした。
お前だって、世話になったろうに、無関係な顔して。
広幸さんは、正義感にさいなまれる。何かやってやらねば、という気がしたのだ。ミドリちゃんの教室に入って、ミドリちゃんの机を探し始めた。教室で着替えるのは男子だから、制服が机の上にあるところは無視すれば良い。元から女子の少ないクラスでもあったから、見つけるのに手間取らなかった。窓際の、前から三番目。広幸さんは鞄を探る。名前の知らないキャラクターのアクセサリー、手帳、定期……さしたるものはない。そもそも広幸さんに目的のものなど元からないのだから、自然とそうなるのだった。着替えひとつでもあれば、それらしい気持ちに落ち着けたかもしれないが。
そして、結局広幸さんが選び抜いたのは香水だった。
いつだか、ミドリちゃんがのろけるように友人にしゃべっていたのを覚えていたからだ。
彼氏がね、香水買ってくれたの、部活忙しいのに、お姉さんと一緒に選んだんだって……。
 ポケットからその瓶を取り出した。暗くてよく見えないので親指でなぞると、天使の羽根のようなモチーフが彫り込まれているようだった。盗んだときには気付かなかった。ずっしりと重みがあるのは、瓶のせいだけではないだろう。まだ液体はたっぷりと入っている。香水を本当に大事に、大事に使っているのだ。広幸さんは試しに一押し、香水を自分の腕にかけた。湿った感触はすぐに失われる。これで匂いがつくものか。広幸さんは疑りながら鼻を近付けてみると、うっすらと良い匂いが漂ってくる。ああ、間違いない、広幸さんは確信する。ミドリちゃんの匂いだった。彼氏に贈られたという、あの。
 豚は広幸さんがそうして思い馳せている間も、鼻を擦り続けていた。いらついた広幸さんは、先程よりも強く叩く。お前のせいなのだ。わかっているのか。広幸さんの強い口調にも、豚は知らん顔だ。そんな豚の態度にも、広幸さんの暴力性は高まってゆく。
本当に許しがたかったのだ。
いじめのこと、ミドリちゃんのこと、おじいさんのこと。おじいさんだって豚を可愛がってなどいないで、本人自身を直接可愛がるべきだったのだ、と広幸さんは思う。そうしてぬくぬくと自分の代わりに祖父の愛を一身に受けていたのも嫌だったが、祖父を憎ませるところも嫌だった。豚は鳴いているばかりだ。
 広幸さんは呟いた。
わかったよ。
だからベルトを外した。ズボンを下ろし、パンツも迷ったが脱いだ。大人しくしていろよ、と祈るみたいに豚に告げ、背後に回った。豚も何か察したように、期待するような目を見せていた、気がした。
広幸さんは童貞だったし、自慰だって面倒だからあんまりしないほうだ。いくらか男性器をこすりあげて硬くすると、もう前戯など何もなしに、豚の膣へ突っ込んだ。さすがに無理か、と思ったけど、案外簡単に挿入できた。ただ乾いてはいないが、入り口が極端に狭く、強く締め付けられる。それに中がねじれた形になっているらしく、まるで搾り取られるみたいで、熱を持って、にょるにょると柔らかく……。
広幸さんは豚をレイプして気を晴らそうとしただけだったのに、思わぬ快感ですっかり頭が真っ白になった。片隅の理性だけが、なんとか片手をもがいて、瓶を手につかんだ。蓋を取って、プッシュする部分も壊して、瓶を逆さに振り回した。
香水は豚の背中にかかって、あたりにレモンの甘酸っぱい香りが満ちた。それでも豚と広幸さんの行為は止まない。ただただ、広幸さんはミドリちゃんのことを思っていた。レモンの香り、膣の感触。しかしミドリちゃんはぶうぶう鼻を鳴らすまい。広幸さんは豚の背中に鼻を擦り付けて、ミドリちゃんの名前を呼んだ。
ミドリちゃん、ミドリちゃん、ミドリ、ミドリ……。
広幸さんは射精するまでに、いったい何度ミドリちゃんの名前を呼んだろう。そして何度むやみに、叫んだろう?
ざまあみろ!
 本当に本当に広幸さんは高校三年間勉強を頑張って、無事東京の大学に行くことが決まった。ほとんどが校推薦なんかで地元の小さな大学か専門学校、あるいは就職、なんて風だからセンター試験を受けただけでも注目されていた。けれど広幸さんだったから、誰も何も言わなかった。卒業式を終えてすぐ、契約しておいたアパートに移り住んだ。
 広幸さんは、他の大学生となんら変わりのなく生活した。何せちょっとした不運が知れ渡ってしまっただけだから、東京では誰もそんなことを知らないと知っていたからなんでもできた。友達もできたし、サークルにも入って、先輩後輩ができて、恋人さえも作った。誰も広幸さんに、臭いなんて一言も言わなかった。
ただ、豚肉だけ食べれなくなっただけだ。しかし、大概の人間は小さい頃豚を育てていたんですと言えば納得するから、困ることはさほどなかった。就職活動も頑張った。小さな広告会社の営業に決まった。
 社会人になってしばらくすると、広幸さんに後輩ができた。広幸さんより一回り若くって、小柄な可愛い女性だった。ある日その子が、いつも仕事を教えてくれるお礼に、と弁当を作ってきてくれた。好意に甘えて受け取った弁当を広げてみると、豚肉の生姜焼きがあったから、ちょっと困ってしまった。それも白飯の上に乗っていたから避けるわけにもいかず、さてどうしようか、と思案している広幸さんを後輩が不思議そうに眺めた。通りすがりのパートのおばさんが笑って言う。
あら、だめよ、その人豚肉食べれないんだから。
無神経な物言いだったのに、思わず広幸さんは感謝を口にしかけたのを、後輩の本当ですか、と問う言葉に遮られた。真実であるのと理由、そして謝罪を広幸さんが言うと、後輩は納得し、謝罪し返し、微笑んだ。
すみません、先輩、良ければ今度は豚肉を入れない弁当を作りますから、また持ってきても良いですか。
 数年の交際を経て、広幸さんはその後輩と結婚した。豚肉が食べられないことを冷やかされるようになった。また数年経つと、奥さんが妊娠した。同時に、広幸さんのお母さんが倒れた。
 上京してから、広幸さんが帰省したことは一度もない。奥さんを紹介するのだって、説き伏せて両親たちが旅行がてらにきたものだから機会がなかったのだ。
今回だって奥さんの出産が近いし、お父さんだっている。お母さんも今までの疲れが溜まっちゃったのね、と電話で軽く語れていたし、何よりそれほど重い病じゃないというのは、広幸さんの行く気を削ぐ。それでも妻のほうが行くべきだと強く言ってきたから、そこまで言われたら行くしかあるまいということで、広幸さんは十年以上離れたあの土地に戻ることになったのだ。
 新幹線、電車、バスと乗り継いで、広幸さんは帰省する。仕事で疲れ果てていた広幸さんはほとんど眠りこんでいたし、幸い夢も見なかった。
着いた頃にはもう日が落ちていた。明かりの少ない田舎道では何もかもが見えにくくなっていたが、それでも長らく広幸さんから失われていた郷愁というものを思い起こすには充分だった。
あの幾度となく俯いて帰ったあの道は、これほど小さく細かったろうか。
広幸さんは道を間違えたような気がずっとしていたが、家にはもちろんお母さんは入院しているので姿なく、お父さんが疲れ果てた表情で広幸さんを待っていた。
夕飯は、と挨拶もなく尋ねられる。新幹線で軽く食べたが、どうやら用意してあるらしい口調だったのを察して、広幸さんは首を横に振った。煮物と白飯を差し出される。お父さんも家事ができないという人ではないが、白飯を炊くのがせいぜいだ。すると煮物は母が入院前に作り置いたものか。
広幸さんは咀嚼する。広幸さんのお母さんは、さして料理が上手い人ではなくて、かといって不味いわけでもないから印象が薄かった。だから、そうそう、これがお袋の味なのだ、という感動は広幸さんになく、ただ煮物らしい味だなと思った。
 食べ終えてすぐ、広幸さんは外出をした。養豚場へ。行かねばならぬとさえ、思っていた。
明かりもなく、人気もない、そもそも養豚場のあの施設が残っているかさえ危うかった。しかし不確かな記憶に従って道を進むと、幸い崩す資金もなかったらしく養豚場は残っていた。あのただでさえみすぼらしかった小屋は、地震のひとつでも起きれば待ってましたとばかりに崩れそうなものだ。豚の姿はもちろんなくて、いたのかさえ気配なく、すると広幸さんは自分が何しにここへやってきたのか、さっぱりわからなくなってしまうのだった。それでもここにいるだけで、胸元から何かが湧きあがって、息をするのも一苦労になる。それを吐き出すように、ため息した。同時に、別の呼吸も聞こえてきた。広幸さんは何も考えないで、その呼吸がするほうを向いた。
 荒い息を必死に抑えて、整えて、愛想の良い声は投げかけられる。
久しぶり、本当に、おじさんから聞いて、帰ってくるって。
 広幸さんはすぐさまその女が誰だか思い至ったけれど、なんと名前を呼ぶべきか迷って、呼べなかった。なにせ、二十年は名前を呼んでない。
ミ、ミドリちゃん。
まだ整えきれないその呼吸は自分に会うため、と思うといじらしいようにも見えたけれど、広幸さんにときめきはなかった。なにせ、ミドリちゃんは特別美人ではなかったけれど顔立ちは悪くなかったはずなのに、その面影が今となってはさっぱりなくなっている。
でっぷりと肥えた、うさんくさい中年女にしか見えなかったのだ。
同い年のはずだったろうに、広幸さんより一回り年上に見えた。それでも、その笑みの端々からミドリちゃんであったのだ、というのが読みとれて、広幸さんは悲しくなった。なにか諦めて、そっけない挨拶を呟いた。
久しぶり。
ミドリちゃんは広幸さんの思うところには気付いていないらしかった。笑顔を崩すことなく、近頃どうしていたのかを尋ねた。広幸さんを無視していたことなんてすっかり忘れてしまっているようだった。広幸さんは東京にいることだけを教えて、それから、ミドリちゃんにあの高校時代の彼氏はどうしたのか尋ねた。
 ああ、あの人、そんなのとっくに別れたよ、卒業してすぐに友達に取られちゃって、まあそっちも別れたみたいだけど、今は短大で知り合った別の人と結婚してさ、まあ悪くないけど、良くもない感じ、自由にさせてくれてるから、まあ、って。
髪をかきあげながら、ミドリちゃんは笑っている。広幸さんには何がおかしいんだかわからないから、頷くことしかできなかった。
でも、広幸が元気そうで良かった、あたし、ずっと心配してたんだからさあ。
ミドリちゃんのはちきれそうな太い指が、広幸さんの二の腕に触れた。
広幸さんはミドリちゃんとセックスをする。
ミドリちゃんが先に広幸さんの胸元に飛び込んできたのだったか、広幸さんが両手を広げて待っていたのだか。あの女子高生だったころのミドリちゃんを思い出しながら陰茎をこすりあげて広幸さんは無理やり起たせる。挿入する。大丈夫だ、もう広幸さんは童貞じゃない。何度だって繰り返した。それでもなぜだか、広幸さんの脳裏には、今までの恋人や奥さんの裸でなくって、あの豚が思い返されたのだった。ミドリちゃんの白い背中を見ていた。鼻をこすりつけても、もうレモンの香りはしなかった。
ミドリちゃんは喘ぎ声の中、やっぱり笑っている。
「やっぱり親子でも、セックスのやりかたって、似んのかしら」
 ミドリちゃんの喘ぎながら呟いたその一言に、広幸さんはお父さんを思い出して、煮物を思った。それから倒れたお母さんと、妊娠した奥さんのことを考えた。広幸さんは、なるほどなあ、と言いながら射精した。

 数日後、何食わぬ顔で妻のもとに帰ってきた広幸さん。数週間後、出産に立ち会った。そのとき生まれてきた子供が豚じゃなかったことに随分安心して、豚肉を食べるようになった。こんなものか、と広幸さんはあっけなく思っていた。たしかに、さまざまなことへ。

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