// 父と母と

 夜に、父と母が、セックスをしていたのだ。
 わたしが八つのときで、もちろん、セックスなんてものは知らなかったはずだったのだけれど、わたしの遺伝子に古くより昔刻み込まれたところが、わあわあ胸元で騒がしくしたから気付いてしまった。父と母が、セックスをしているのだと。
 父と母は十五ほど年が離れていて、見合い結婚だったという。どうしてそんな年の離れたふたりをくっつけようとした人がいたのか、さっぱりわたしには見当がつかないのだけれど、でも父と母の身の回りは良い人だらけで、ふたりが幸せになってほしいと願いそうな人は数え切れないほど思いついたから、きっとそういうことだ。わたしがセックスを見てしまったときは、たぶん、わたしの年から逆算すると父が四十三で、母が二十八のはずだ。母が幼いのもあって、ほとんど父娘のようなものだった。わたしも父と母のことが好きだったし、母は母というより姉のように思っていた。だから父と母がセックスしているのを見て、わたしはしばらく、そのころしていた、やはり遺伝子にあった股間をまさぐるとなんとなく気持ち良いぞという、いわば自慰行為を自慰行為と知らないまま、やめた。父が必死に母のそこをいじっていたから、その必死さがなければ許されないような気がしたからだ。
 今思えば、父と母はすこし焦っていたせいで、気迫があったのだ。長女であるわたしが生まれてから、とんとん拍子に長男だか次女を産む予定だったのが、ずいぶん遅れてしまっていたからだ。八年。母はまだ若いのが幸いだったけれど、やっぱり時が経つほどつらいのに変わりない。父は優しいから、きっと母に苦労させることなんてしたくなかったろうと思う。父と母は必死だった。
 八つだったわたしは、そうっと、トイレへ行くのをやめて、二階の自分の部屋に戻って、仕方なく窓を開けた。パジャマのズボンとパンツを床に置いて、膝ぐらいの段差を上って窓から落ちないよう両手を窓枠に手をかける。暗闇でよく見えないままうんこ座りし、そのままじょろじょろとおしっこをする。ちょうど父と母がいた一回の客間の真反対の部屋で、あのふたりの必死さなら気付くまい、と思っていた。下のある庭の土へ上手に着地させるけれど音は響いていたと思う。それでもトイレの水を流す音で父と母をどっきりさせたり、我慢できずおもらしをしてしまって、あの父と母に泣きつく、なんてこともなくて、やっぱりベストな行動だったのだ。
 おしっこをしきったわたしは、そうっと窓を閉めて、ティッシュで股間をぬぐって、またパンツとパジャマのズボンを履いて、布団にもぐった。しんとした夜だった。何もないみたいに、おそろしい夜だった。わたしが眠る間にも、あるいは、わたしが眠っている間こそ、多くの物事が起こっているのだ、ということを知った夜だったから。

 わたしが父と母がセックスを見たときの、母の歳になった年だった。高校を出てすぐに就職したのだけれど、やっぱり大学でちゃんと勉強したくって大学に入りなおして三年目、すっかり大学生というぐうたらなものに慣れてしまっていたからゼミをさぼった昼に、また。同じ客間にて。わたしは、父と母のセックスを見たのだった。
 はっと、妹と弟のことを思い出す。妹は女子高生だから、まだ授業のはずだ。それから、中学生の弟だってもちろん。それだけで十分、ほっとした。見てしまうのは、わたしだけで良かった。切実だ。しかし、あのころのわたしより、わたしは、ぐんと大人になってしまっていた。もう処女じゃなかったし、今にも結婚しそうな恋人がいた。ただ、父と母も、ぐんと老いてしまっている。六十一と、四十八。若くて美しいと褒められていた母でさえ、ただのおばさんになってしまっているのだ。父のでっぷりと出た腹が、母のくすんだ背中に押しつけられて、昔よりも、良く言えば穏やかに、悪く言えば醜く遅く、行為が行われていた。定年してから吸うようになった煙草のせいもあって、父の呼吸は浅い。親子マラソンで、父がひいひい必死に走っていたのと、同じ呼吸だった。母はじっとしているけれど、ときおり喘ぎ声を洩らして、父の首元に絡みついていた。でも、昔はもっと、あでやかだったんじゃないか、と、わたしの色あせた記憶でしか比べようのないことを考えている。
 わたしは、小さく息を吐いて、止めて、家を出る。靴をちゃんと履けないで、かかとを踏んだまま携帯を見た。二通の着信、一通は妹からで、もう一通は恋人からだった。妹は相談したいことがあるのだという。高校に入ってから、よくされていた。部活のこと、恋愛のこと、人間関係のこと、だいたいが愚痴なのだけれど、妹は大抵のことをわたしに話した。わたしから求めたことは一度もない。それが、妹にとっては魅力的だったのかもしれない。父と母に漏らすこともないし、しかし年上で同性で流されやすいからなんでも同意する、とにかく、都合の良い姉なのだ。知っていた。歩きながら何かをできないわたしは立ち止まって、両手でキーを打ち、良いよ、と夕方に喫茶店で待ち合わせることをメールで約束する。次に恋人のメールを開こうとして、首筋を撫でられた。
「遅いよ、メールの返信」
 わたしはこの、低い、なのに艶があって女っぽい声があえぐときを知っていた。この人のほうこそ、首筋が弱いのだった。振り返って、頭を下げる。
「ごめんなさいね、もんちゃん」
「またゼミさぼったりして」
 首筋を、くりかえし撫でた。くすぐったいふりをする。
「もんちゃん、髪切ったのね」
「毎日、少しずつ切ってるの。どれぐらいがちょうどいいかわからなくて」
「それぐらいが、わたしは好きだよ」
「そお、じゃあ、維持する」
 五分刈りとか、それぐらいに切りそろえられたピンク色の髪をした恋人のもんちゃんは、近所に住む、年上の人だった。いつも友達なんかに恋人はどんな人、と聞かれるとき、わたしはそう答えていた。そういうんじゃないよ、と多くがそう返してきた。もっと、見た目とか、いろいろあるでしょう、と割り算ができない小学生みたいに優しく諭された。でも、もんちゃんの見た目はくるくる変わる。恋人であるわたしでさえ、たまに分からなくなるぐらい、服も、目つきも、笑顔も、特に髪が一番変わる。もんちゃんを見てると、なんだってできるという気がする、そんな人と、と二言目に言うと、のろけはいいのよ、と呆れられて、もんちゃんの話は終わってしまう。もったいなかった。わたしはもっともんちゃんについて語れるのに、みんなはもんちゃんの年齢だとか、仕事だとか、そんなつまらないことにしか興味を示してくれないのだ。もんちゃんは三十九で、仕事は刺青を入れるお仕事をしているよ。だからもんもんで、もんちゃん。背が高くて細身で、年のわりに格好良いよ。でもおじいちゃんの仕事を継いだだけで、自分は痛いのが嫌だから、刺青を入れてないんだよ。だから見た目があんなにぐるぐる回らなきゃ、きっと誰もそんな仕事してないだろうと思うはずだよ。そう言ったら、みんなは満足してくれるのだろうか。でもわたしは満足しない。
「もんちゃん、仕事は」
「後輩に任せてる」
「じゃあ、夕方まで暇なの。夕方までじゃなくて良いけど」
「なによ」
「セックスしようよ、もんちゃん」
「良いよ」
 もんちゃんと近くの寂れた平屋みたいなホテルまで行って、セックスをする。一度だけ。もんちゃんとはいつだって一度だけ。もんちゃんが年上なのもあって疲れやすいのと、セックスの数えかたが分からないせいだ。一挿入で一度、なのかしら。もしうっかり、もんちゃんは下手だからよくあることなのだけれど、途中で抜けてしまったら、二度目になるのかしら。それとも、一射精で一度、なのかもしれない。するとやっぱり、何回も挿入はするけれど、一度しか射精できないもんちゃんとは一度しかしない、のかもしれない。
「またくだらないことを考えている」
「なんでばれたの」
「分かるよ、それぐらい」
 もんちゃんは理由を話してくれない。そういうところが、きっと好きだった。
「ねえ、もんちゃんはさあ」
「なんで、そんな集中力がない、のかなあ」
 挿入されていても、構いっこなしだった。もんちゃんの息が荒いのと、わたしがちょっと気持ち良いだけだ。もんちゃんだって、わたしの質問なんて構いっこなしに、腰を振り続けているのだし。
「もんちゃんは、他人のセックスを見たことある?」
「あるよ」
「うそー」
「なんで」
「びっくりしただけ」
 なにそれ、ともんちゃんは笑いながらも、細い眉をうねらせている。
「どうして見たの、見ちゃったの」
「違うよ、高校時代の、先輩の、バイト」
「バイト?」
「先輩と先輩の彼女がー、見ないとー、興奮しない人で、えー」
 それからちょっと黙ってあげた。声も上げてあげて、射精を待った。わたし達はゴムをしない。結婚を前提としたお付き合いをしているせい、だと思う。もんちゃんはいつだって結婚を覚悟しているけれど、プロポーズできないチキンだから、できちゃった婚を狙っているのだ。わたしの痛い妄想なんかじゃなくて、もんちゃん自身が酔っ払ってもんちゃんの友達にこぼして、流れで告げ口されたのだった。そうでなくても、別に良かった。もんちゃんの子供ぐらい、一人や二人、いくらだって産んで良かった。まあ、気持ちだけなのだけれど。
「で、見られたいの」
「わたしは違うよ」
「そう」
 もんちゃんと別れ際、別の話をしたあと、おもむろに話題をぶりかえされたから、一瞬何を言っているのだか分からなかった。ちゃんと返事ができて良かった。
 もんちゃんは仕事場へ、わたしは駅前の喫茶店へ行く。妹の学校が終わるまで、まだまだ時間があったから、途中、つまらなそうなミステリ小説を買っておいた。うんと面白くないと良い、といつも思いながら小説を買っている。自分が今いる生活のほうが面白いじゃないか、と思えたら良かったからだ。しかし、父と母のセックスを見る生活はわりと面白いんじゃないだろうか、と思えて、くすっと微笑んだ。ケーキとコーヒーのセットを頼む。
 案の定、ありがたいことに、そのミステリ小説は売れてるわりに大したことがなくて、良いものだった。厚みもなくてすぐ読み終えたところ、やってきた妹が「それ今流行りのじゃん、貸して」と不遜に言うのに快く応えられたのも幸いだった。いわく、近頃人気の男性俳優がドラマで主役を張っているのだという。
「ミステリ好きとかじゃないのね」
「全然。だってさあ、犯人となんでやったかとどうやったかを知りたいだけだし。途中の推理とかマジいらんから」
「ああ、あれだ。野球とかサッカーを結果だけ知れれば良くないって思うタイプ」
「そうだよ」
「野球ゲームとか好きじゃないっけ」
「それは好き。まー、弟がやってるせいもあるけどさあ、普通の野球とかは自分が操作できるわけでもないのにドキドキしなきゃいけない意味がわかんないから。やだ」
「ふうん、そういうもの」
「そういうもんだよ」
 と、前ふりが終わって、妹は神妙な顔を作る。わたしは、今は隠れている妹の太ももを思い出す。近頃の女子高生らしく、短いスカートは、むっちりとした妹の太ももをさらにいやらしく見せていた。バスケ部の彼氏も、きっと必死にむしゃぶりついていることだろう、と思う。
「あのさあ」
「うん」
「最近、っていうか、ちょっと前、からなんだけど」
「うん」
「お父さんとお母さんが、エッチしてるみたいなんだけど」
「う」
「やめさせてくんない」
 コーヒーを飲み干そうとして、できなかった。あろうことか口の中に含んでいたコーヒーをカップに戻してしまうほどだった。妹はちょっといらついた風のまま、アイスコーヒーをすすって、人差指で机を叩く。妹が好きだという女優が演じた弁護士役のとき設定されていた癖だったはずだ。妹は案外影響を受けやすいから可愛いのだ。
「客間でさ」
 妹は黙ったわたしなんて放っておいて、話し続けた。それでも声をひそめている分、きっと常識はあるのだろう。
「へえ」
「へえじゃないよ、お姉ちゃん、分かってんの」
 よく分かっている。あなたよりも、ということは、言わないでいたら妹は続ける。
「自分の弟がいくつか分かってんの」
「十三」
「そうだよ。そんな年の子がさ、あたしはまだしもだよ、そんな子が両親のエッチなんて見たらトラウマ確定だよ。っていうか反抗期っていうの。もっと上手く隠してやってくんないと困るわけ」
「そう、そうだね」
「でしょ」
 わたしの適当な相槌を、妹はお気に召したようだった。息づいた。
「っていうか、気持ち悪いの。ジジイとババアがさあ、あんなことするの」
 気が付くと、浅く息を吸っていた。そうして、上手に腕を振り回して、妹を平手で打っていた。ちゃんと、頬だ。耳にぶつけたら鼓膜が破れてしまいかねないし、上すぎると痛くない、それに、目にも当てないように、と知らないうちに慎重だった。だから上手に頬を打てて、赤く染まって、妹の目はあっというまにうるんでいた。
「あのさあ」
 まだ呼吸は浅いままだ。わたしは、父の呼吸と、もんちゃんの呼吸を思い出しながら息を吐いている。
「そういうことしないと、あんたもあんたの大好きな弟も生まれなかったんだから、バカ!」
「は」
 妹の声は震えていた。
「だからなんだっていうのよ、バカ姉貴」
 それもそうだわ、とわたしは納得してしまう。世の中の大概の説教は、そう返されたらなんともならないことを知った。だって、わたしにとって重要なことも、相手にとってそうとは限らないし、説教したからって共有できるとは限らない。そうでしょう、そうなのでしょう?

「ねえ、セックスしようか、もんちゃん」
 随分前に検査で分かっていたことだけれど、わたしは子供が作れない、不幸にも。それを言った、すぐあとの言葉だった。言葉を選んでいられなかったのだ。近頃はずっとそうだ。
「喜んでるんじゃないよ、本当に」
 もんちゃんは笑いながら怒った。すぐあとに、もんちゃんとわたしはセックスをする。一度だけ。ゴムなしで。し終わるともんちゃんの薄い、全然毛が生えていない胸板で、ぐっすりと眠る。本当は眠ってなんていない。もんちゃんがぐっすりと眠っているから、そんな気分になるだけだった。でも浅い眠りの中で寂しい夢を見たから、ちょっとだけ泣いてしまって、もんちゃんの胸板を濡らす。今ではもう思い出せないけれど、なんとなく水っぽい夢だった。うるおいはあっても、救いがない、そんな感じだった。もんちゃんの胸板は、枕よりずっと乾くのが早いから、泣いてもなんとかなる。

 驚いたことに、というより、たぶん、わたしの分の卵子さえも母は持っていたのだろうと邪推したのだけれど、母が妊娠した。誕生日を迎えて、四十九。高齢出産になる、母体に影響が大変かかるでしょう、という医者の言葉なんて言い終わる前に、母は産みます、と言った。隣にいた父は身体をびくつかせたけれど、わたしは、かっけーなー、と思っていた。もんちゃんに言うと、複雑な顔をされて、抱きしめられた。ちょっと泣いて、なんとなく美しい関係っぽく見せた。
「結婚しようか」
 でも、さすがにもんちゃんからそれを今ここで言われると思わなくて、びっくりした。
「なんで」
「それで、子供もらうの。養子。孤児院とかで」
「一人でもらえばいいじゃん」
「男一人じゃもらえないんだよ」
「じゃあ、しょうがないね、結婚しないと」
「そうだよ」
 もんちゃんはもう婚姻届をもらっていたから、二人で汚く書き込んだ。いつ行こうか、孤児院、いつでも、とわたし達は静かに言葉を交わして、セックスは一度もしないで、二人で眠った。近頃、妹が処女を捨ててしばらく生理が来ていないこと、弟がレズもの動画を見ている履歴が残ってしまっていること、そんな弟の部屋がないから客間を壊して弟の部屋を作ろうとしていること。まだもんちゃんに言っていない最近のいろんなことを思い出しながら、どういう順番で話そうか、眠るふりをしながら迷っている、私。
 間違いなんて、ないのだ。

( 120721 ) 戻る
inserted by FC2 system