// たゆたえ

 町の隅に小さな湖があって、そこで母は溺れ死んだ。不倫していた男と心中を図ったのだ。しかし直前になり男は怖くなって逃げ出し、事が落ち着くなり、すぐさま町を去ってしまった。父の手元には僅かばかりの金と遺骨、そして姉と私の子供二人だけが残った。男を追いかける気力も湧かなかったという。
 母が私を生んで、すぐのことだ。
「母さんのこと、写真で見たことあるよね。真っ白な肌で細くって、本当に綺麗な人だったの。だけど死んだときは、それはもうひどかった。ぶくぶくと指先まで膨らんでいて、いっそう白くなってね。今でもまだ、よく覚えてる、恐ろしくって」
 姉はそう語りながら、自分の膨らんだ腹を撫でていた。きっと母の腹もこうして膨らんでいたから思い出したんだろう、と思う。せめて私が母の腹にいたときであるといい、しかしきっと違うのだろうな、と考えながら、そうね、と浮わついた返事をした。
 姉は妊娠が分かってから、今までさして語りもしなかった母の話をよくするようになった。初めはそれを不安がったけれど、今は出張でいない姉の夫が不倫、ましてや心中なんてしそうにない、しっかりとした人だからこそ姉もこんなことが言えるのだ、良い傾向だ、と自分に言い聞かせた。
 姉はこの短い間にも、ずうっと腹に愛しげな目を向け優しく撫で続けているから、私のところどころ思案するような仕草は見なかったらしい。
 思いついた、と言う風で、ようやく顔を上げてみせた。
「ねえチヨちゃん、もしこの子が生まれたら、水泳を教えてあげてちょうだいよ」
 嫌だ、とも、どうして皆いつまでも引きずるの、とも言えなかった。
「お姉ちゃん、水泳なんて良いことないよ。男の子ならまだしも、女の子ならかわいそう。肩が広がって張って、制服どころか女物が合わないったらないんだから」
 みんな言ってるんだから、と思春期らしくごまかしたけれど、実のところ本当に嫌だったのは水泳大会で応援に来た姉と父だった。私の成績は毎度下から数えたほうが早いというのに、いちいち生ぬるい笑みを浮かべ、優しく満足げなのだ。つまりが泳ぐことさえできれば二人はどうだって良かったのだ。少なくとも、母の二の舞になることはないと安心している。母はカナヅチだったわけでもないし、それが原因じゃないことも分かっているだろうに。
 姉が、そうかしら、とちょっと困ったように首をかしげるのを見て、つい言葉を付け足した。
「私は、好きでやっているからいいけどね」
 好きなことを好きにやらせるのが一番よ、というありきたりな話で締めた。言いながら、いつもこれだからいけないのだ、と自戒する。
 次の日、姉は破水した。予定より一週間は早い。それで夫もいないのに一人で良いと言って聞かない姉は、私と父を廊下に追い出してしまう。父は少し不満げだったけれど、一緒にいたところでうろたえるだけなのが目に見える。
 廊下にもどかしいだけの、緊張した空気が満ちていた。姉の苦しそうな声が聞こえるたび、いっそ外へ出てしまおうか、と悩んでいると父が口を開いた。
「チヨ」振り向いて、目が合うなりだった。「水泳、やめてもいいからな」
 突然だったせいか昨日のように、私は好きでやっているから、という言葉を繰り返せなかった。やはり自分が水泳を好きでなかったことに気付いてしまったし、なにより素直に、良かったなあ、と思ってしまったのだ。声が震えた。
「ありがとう」
 絞り出したような言葉はほとんど囁くようで、父に聞こえたかはわからない。ただしばらく、長い沈黙があった。その横をばたばたと忙しなく看護師が通り過ぎていく。ありがとう、とまだ生まれきっていない赤ん坊に思った。あなたが生まれてくれるおかげで、私たちは変われるようです、ようやく母の呪いから逃れられるのです、ありがとうございます、と。医者に呼ばれた。父と一緒に、早足に近寄る。
 医者は遠目でも分かるほど険しい顔つきをしていた。父もつられた表情になったのを見て、慌ててそれに倣った。胎盤が、剥離が、などという単語が連なる。なんとなく嫌な響きだけを感じていた私でも、ようやく理解できる言葉が一呼吸を置いたのち、吐き出された。
「そのため羊水で溺れて、お亡くなりになりました」
 息を呑む音。


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