// 指

 目を覚ましてしばらく、指が足りないと泣いていた。いくら数えても五本しかないから、どこかに落としてしまったのだ、と考えた。前の晩、店で酒を飲んでいたからきっと帰り道だ。するともう見つからないだろう。とうに昼を迎えているし、店は駅前にあってずっと大通りを添った道程になる。通勤途中のサラリーマンが蹴飛ばし、登校途中の小学生が踏みしめ、見つけたところでそれはもはや指の体をしていないかもしれない。そう考えてまたしばらく泣いて、疲れて、短い間眠った。次に目を覚ますと指は五本、足りていた。生まれてこの方、指が足りなかったときがない。
 なぜ一時でも足りないと思ってしまったのかは覚えがあった。昨日、酒を飲む前に入院している祖母へ花を届けるよう、母から電話がきたせいだ。
 祖母は指が一本ずつ足りない。両手の薬指、ちょうど根元から綺麗にないせいで指がないのではなく中指と小指の間が少し開きすぎた、というように見えた。両親が不仲だった小学生の間、その祖母とずっと一緒に住んでいたのだ。祖母はその指について詳しく話すことを嫌っていたけれど、しつこく聞いたとき、戦争で、とただ一言教えてくれた。まだ若かった頃はそれで苦労したらしいが、おかげでずっと昔亡くなった祖父が同情してくれたおかげで結婚できたのだ、と言っていたのは親戚の誰だったか。
「しかしまあ、こん年になるともう紅を塗ることなんてないし、なあんの悪い具合もないわね」
 よく言っていたそれはたしかだったようで、指が足りないことで祖母が困っていたところを見たことがない。いつも大抵を器用にこなしていて、特に編み物を好んでいた。指がもう一本なくなっても作れる感じが良い、らしかった。
 小学生の頃は外へ出るのも億劫だし、本も嫌いだったから編み物をしばしば学んだ。しかしそのころにも指はたしかに五本あったはずなのに、不器用だったせいで上手くいったためしがない。そう、だから指が足りないのだ、と嘆いた。指がない祖母がいる以上、指はいくらでも減るし、いくらでも増えると勘違いしていたのだ。いつだかその考えはするりと抜け落ちたけれど、信じていた時期は迷いがなかった。不器用なことをするたび指が足りない、と祖母に愚痴った。願っていれば生えてくるとさえ思っていた気がする。
 はっきりと思いだしていくせいで、指が足りないという感覚もよみがえってきた。気持ち良くはない。祖母はずっとこの感覚と共に生きてきたのだろうか、と思案する。手の側面を撫でる。指先が感触を捉えた。傷がある。見てみた。何か生えていたのをもいでしまったような、小さく、縦に避けている傷だ。じいっとそれを見る。撫でる。鼻から息をもらす。
 病院の前に安い花屋があるから、と母は言っていたが肝心の病院名と病室の場所をすっかり忘れていた。母に電話する。母が出るまで指を指折り数えた。五本。
「もしもし、どうかした」
「病院名と、病室の番号を聞き忘れていて」
 短い沈黙の後、母は淡々と答えた。結局離婚もせず、子供を手放しもしなかった両親は冷たくはない。淡々としているだけであって、愛がないわけではない。ただ親しみだけが欠けている。
「ところで、昔手の怪我をしたことがあったっけ」
「あんたが、お祖母ちゃんが」
「こっち」
 先程と寸分狂いがなさそうな短い沈黙だった。そうね、と思案した風に言う。
「あんたは一度、釘で遊んでいたとき、手を滑らせて怪我したんじゃなかったかしら。お祖母ちゃんがそう言っていた気がする」
 釘、という響きは耳に馴染んだ。祖父は日曜大工が趣味だったらしく道具が庭にいつも放っておかれていたのを、勝手に遊んでいたのだ。それで釘以外でも大きな怪我こそなかったが、たしかに何度か血を流したのを思い出した。同時に、母も父も聞かされてはいただろうが心配して迎えに来たということもなかった。だからか、はっきりしないのだ、という感じが口調からさえこぼれていた。
「たしかね」
「そう、きっとそうだった。しかし、なんで手の怪我で祖母ちゃんなんだ。祖母ちゃんは戦争だろう」
「左手は戦争だけど、右手は違うよ。あんたが生まれてから、もしかしたら一緒に住んでいる時期になくしたんじゃない」
「どういうこと」
「知らない、気が付いたら右手のもなくなっていた。けど、そういうの教えてくれない人だったから。だからあんたが知らなきゃ、あたしも知らない」
「それもそうかもしれない。ありがとう、それじゃあ」
「うん」
 電話を切って、病院へ向かう。花は手頃な値段のものを選んだ。
 元より少し呆けていたところはあったのだけれど、入院してさらに進んでいた。何度訂正しても若いころの父に間違われしまうし、父は父で祖父と思われていた。しかし編み物は昔と変わらず上手にこなしていた。
「あん子もすうぐ大きくなるでしょう、寂しがってるけん、早く迎え来てやってえね」
 なるべく父に似せて息が抜けるような低い声で、はい、と答えた。
「もうすぐこれもできるからねえ、ほら、子供に手えかじかませたらいかんでしょう」
 祖母は小さな赤い手袋を編んでいた。言葉通り、もう少しで編みあがりそうだった。すぐ横のテーブルにも、同じような手袋が積み重なっている。色だけが違うそれらのうち、緑色を手に取った。指を数える。念のため。
「あん子はなんでも、すうぐ欲しがるから、ねえ」
「そうですね」
「んでも、すうぐに飽きちゃうんだから」
 ねえ、と繰り返された。はい、とも繰り返した。そのときにも、六本目の指は編まれている。


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