// コーヒーノキ

 彼女は珈琲の木に珈琲を与えて育てていた。それを知ったのももう夏のことで、彼女が珈琲の木を買ってからだいぶ経っていた。
「育つの、それ」
「さあ。萎れてるけどね」
「だめじゃん」
 彼女は湯気が立つほど熱い珈琲を、ベランダに置いた珈琲の木の鉢に注ぐ。自分と私のために淹れた珈琲、三杯のうち一杯の行き場だった。
「もしこれで、育たないまま枯れたら」
 彼女は背を向けたまま、言い訳みたいにつぶやいた。私は彼女の長い髪が分かれて、少しだけ見えるうなじを見ていた。
「珈琲の木が悪いのかしら、それとも、珈琲が悪いのかしら」
「さあ」
 私はわざとらしく首を傾げて言った。
「少なくともこの場合では、あなたが悪いようにしか見えないよ」
「うん」
 彼女はそこから動かない。
「どちらも悪くない、ふたつは悪くなかった。悪いのは、悪くないふたつを無理やり交わらせた私、なんだよね」
 そうまで言っても彼女の手はサーバーを傾けたまま、一滴残らず珈琲を注いだ。一粒一粒の雫さえ、彼女は許さないでいた。
「分かってるならさ」
「うん」
 彼女も私も、こういうやりとりをせねばらならない、という義務感さえあった。そういうタイミングだったのだ。
「また、絵、描きなよ」
「うん」
「母親なんて、何の関係もない」
「うん」
「それから、珈琲も実ったら、炒って、挽いて、淹れよう。そうしよう」
「うん」
 茶番とも取られかねない会話が終わって向き直った彼女は、泣いていない。
 それから私たちは、ぬるくなった珈琲を飲んだ。酸味が強く感じたのは冷めたせいか、元の豆のせいか、彼女の淹れ方が下手なせいか。私にはわからなかった。
 ただカップだけを傾けて。

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