形状記憶少女

// 娘の卵

 娘はよく卵と眠った。白い楕円を片手に隠し、ときおり頬に当てるのだ。ざらついた冷たい感触を、娘は愛した。しかし娘の目的は一緒に眠ることではない。そうして眠りながらも卵を温め、孵らせることを望んでいたのだ。娘は綿密に卵を考える。しばらくの生活費と、深く眠り過ぎて卵を割ってしまう可能性、孵らなかったときの再利用として卵料理のレパートリー、祖母に怒られない程度、など。そして店で買えるだけの卵を買うのだった。白いものだけでなく、赤玉を買うときもある、が、なんとなく娘には白いほうが孵りやすそうな気がした。また、店の中年女性からはただの卵好き、と思われているのはたしかだった。
 その日は朝から良い天気だったので、祖母に言いつけられた洗濯を終え次第、スカートに卵を抱えた娘は、緑の庭を訪れた。緑の庭は、娘の住む家から少し離れたところにある。道は森へ行く方向と同じだ。その道は両側には空も隠すほど植物が茂っている。そこをしばらく歩いていると、右手にほんの少し緑が開けたところがあった。道というには忍びないが、きっと十人に一人ぐらいは獣道と称すほどの。娘はいつもそこから、緑の庭に入るのだった。
 緑の庭は、この辺りのどこの家よりも広い庭だった。しかし周囲も緑に満ちていたので、境界が分からないから広く見えるだけにも思えた。それは誰一人、はっきりとした事実は知らぬ。娘は気にしたことさえなかった。
 娘はまず履いていた靴を脱ぎ、腰を下ろす。ついでスカートから卵を割らぬよう芝生に転がした。さて、と娘は通りすがりに摘んだ花の根元の緑を取り除き、口にくわえる。甘い蜜をゆっくりと吸いながら、卵の選別作業に移る。果たしてどの卵がさも孵りそうであるか。料理するときにはどれも一緒に見えるのだが、こういうときにはそれぞれの違いが強く浮き上がる。単純な大きさから楕円でも先が鋭いもの、丸みが綺麗なもの、ざらつきが多いもの少ないもの。ただ娘は未だ卵を孵らせることに成功したことがなかったので、どれが良いのかというのは分からなかった。すると結局娘の好みの形、感触のものを選ぶしかないのだった。娘は先があまり鋭くなく、下の丸みもまあまあで、なんとなく綺麗なものを好んだ。中でも重視したのは、いかに片手にすっぽり収まるかで、ざらつきはなんでも良かった。
 くわえていた花が萎れたからその辺に投げ捨てた頃、ようやく一つの卵を選びだした。後の卵は日影に置いて、帰りに回収するのがいつものことだった。
 卵を両手で包み、娘は芝生に寝転ぶ。ちくちくと身体を刺すのは嫌いではない。横に寝ようか迷った末仰向けになって腹の上に卵を置き、それから何もしない。なるだけ卵を温める、それきり。
「君も飽きない」
 いかにもつまらなさそうな声に、娘は閉じかけた瞼を開く。無精ひげを生やした細身の男性が、覗きこんでいた。
「先生」
 この男こそ、緑の庭の主人であった。なおのこと正しく言えばただの住人で、主人はすでに亡くなった彼の祖父だった。大学の卒業時期に、こちらへ越して来たのだという。娘は彼についてそれだけ祖母に教えてもらった。先生というあだ名もそれからなんとなく呼んでみただけだったのだけど、しかしこのあたり一帯に大学を卒業したものなど数えるほどだったから、充分それに値する、と娘は考えていた。ただ男はそれを喜んだことはない。初めの頃はずっと僕は先生なんかじゃない、と嫌な顔だけを見せていて、今はもはやそれも面倒だから反応を見せていないだけのようだった。
「先生、珍しいですね、あなたが外に出てらっしゃるなんて」
 男はいつも暗い家の中で、祖父が遺したのだという本を読みふけっていた。
「今日は朝から、実家に本を取りに行ったのです」
「やはり、本なのですね」
 娘はころころと笑う。男は少しむっとしたようだった。
「君も昼寝でしょう」
「昼寝じゃ、ありません」
 娘は起き上がって、卵を見せた。男にはぴんと来ていないようだった。
「卵だ」
「ええ、卵です。鶏の。私、ずっとこれを孵らせようとしているんですの」
「はて、君のところでは、鶏を飼っていたろうか」
「いいえ、飼っていません」
 男はなおのこと、首を傾げた。
「では」
「バス停の前に売店があるでしょう、あすこのものです」
「あすこのは、街から届く商品ばかりだったはずだが」
「ええ、そうです。街からの卵ですわ、たぶん」
 男はとうとう顔をしかめた。
「その卵は孵らぬ」
「卵は孵るものでしょう」
「種類が違う」
「赤玉ならよろしいんですの」
「そうじゃない」
 そうじゃあないんだ、と男は囁き、それから娘の学校のことを聞いた。娘は素直に、中学まで通っていたことを言った。本来なら高校に通って二年ほど、というところだったが、そもそも娘は受験をしていなかった。この町では高校へ行かずとも生きてゆけるし、勉強が好きではなかったし、むしろ高校へ通うための金を捻出したほうが、きっと祖母と娘自身の生活ができなくなるのが目に見えていたからだ。その話を一通りして、男は納得したようなそうでないような顔で頷く。
「君はこれが孵ると信じているのか」
「鶏とは、卵から孵るもの、でしょう」
 男は沈黙の後、ゆっくりとまた、頷いた。
 それが春の終わり頃のことで、しばらくした夏のこと、とうとう娘の卵が孵るのだった。見つけたのは蒸す出なく、男のほうだった。
 娘が緑の庭を訪れるなり窓から見ていたのか、いそいそと慌てた様子で家から出てきた。それだけで充分珍しい光景だったので、娘は驚く。
「先生、どうかなすったのですか」
「君、これを見てごらん」
 男は卵を両手で包むような具合で両手を膨らませていた。娘がじっと見つめるのを確認して、ゆっくりと開けた。
 そこにいたのは、赤い、柔らかそうな羽毛の塊だった。狭そうに男の手の中で動き、いつか、黒い瞳とくちばしを見せた。
「まあ、ひよこ」
 自然と差し出した娘の手に、男はひよこを移し乗せる。
「今朝方、妙に外の草むらが騒がしくて外を出てみたら、こいつが走っていた。近くにはきっと、君が忘れたのだろう赤玉の殻が落ちていた。たぶんそいつから生まれたのだと思う」
 いつになく真剣な表情で、いそいそ一度家に戻り、わざわざ殻を取っておいたらしくそれを見せた。
 娘はしばらく驚いた様子が続き、男が喋ることもなくなると、自然と沈黙が訪れた。娘はひよこと顔を突き合わせてしばらく、両手に抱えたひよこを高く上げて俯き、肩を震わせ泣き始めた。次は男が驚いた。
「君」
「ええ、すみません、大丈夫、大丈夫です。ただ、とても嬉しかっただけなのです」
 それから娘は泣き止んでから、ひよこを茜と名付けて、家で飼い始めた。祖母はそれに対して何も言わなかった。たまに緑の庭にも散歩に来て放した。そのときは珍しく、男も外へ出て駆ける茜を見ていた。
 そして一月もすると、ひよこの赤色はすっかりと抜けて真っ白になり、代わりに真っ赤なとさかを携え、鶏らしくなったのだった。卵も産むようになったので、一つ目は自分で食べ、二つ目の卵は男にお裾分けすることにした。三つ目は祖母へだ。
「先生、いつかはありがとうございました。これが、茜の卵なのです。食べてやってください」
 娘はひよこを抱える様に持っていた卵を、両手を器にした男へ。男はその卵をじっと見る。
「君」
「はい」
「君は、その」
 男は言いづらそうに、だが言ってしまう。
「知っていたのだろう、店で買った卵は孵らない、茜はあの卵から孵ったのでないこと、を」
 娘は男から目を逸らさぬ。そのまま、照れたように笑う。
「ええ、すみません、ありがとうございます」
 男はひどく悲しそうな顔で、娘の言葉を聞いた。自然とうなだれる。
「夜店であのひよこを買っただけで、お礼を言われることはしていない」
「いいえ、そんなことありません。私が今まで出会った先生の中で一番優しい先生でした」
 娘は昔から、自分でさえ信じていないことを成そうと、ずっと続けてきていた。店で買った卵を孵らせようとする、など、小学生の頃からしていたことだったのだ。どうしようもない困難を自分で仕掛けて、どうにか毎日の退屈さから逃れようと努力していた。しかしそれを見た教師は娘をただ頭の足りない子ども扱いするから、上手くいかぬ。とっくに知っている正しいことばかりを教えようとする。男はそれをしなかった。それだけで充分なのに、むしろ増長させるようなことをした。初めて、だったのだ。
「本当に、先生は、優しい人」
「やめてくれ、僕はただ、本当のことを言うのが怖いだけの人間だ」
 男はかぶりを振る。
「大学もそうだ。僕は本当は卒業をしていない。辞めてしまった。もとから鬱めいていたところ、なんとか卒業はしようと執筆していた卒論を、友人、と思っていた者に、取られてしまって。しかし僕は、彼より自分を信頼される自信などなかったから、すべてを放り投げてしまった。先生などとは、本当に、縁遠いものだ」
「ですが先生」
「やめてくれ」
「いいえ、先生は、私にとっては間違いなく先生であるのです」
 娘は言う。
「私は先生を求めていたのです。正しさがかならずしも正義であったり、優しさであったりしないのです。私は子供です。それゆえ、その先生の不幸事も素直に喜んでしまいます。それがなければ、私は先生と茜に出会うことさえなく、今もまだ卵を片手に持っていたでしょう。それを考えると」
 娘は続きを言うのをやめて、代わりに、先生、と呼んだ。
「どうぞ、卵、食べて下さい。お願いいたしますね」
 娘は名残などなく去ってしまう。
 男はその夜、目玉焼きを作る。卵黄は明るい橙色で、とても美味かった。男はなんだか寂しくなりながら、いろんなことを考えて、少し泣く。それきりのこと、だった。それから何もない風を二人とも装い、しかし決して二人には忘れ得ぬことであるのを、顔を合わせるたび知り続けている。それでも決して何も言わないのが、二人の築いた師弟関係、なのであった。

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