// 湖にて

 ボートに乗るような奴らにろくな人間はいない。前任のボート乗り場管理者であった初老の男はそう言って緑めいた湖を見た。ハアと若者は気のない返事をしたものの、この湖に限ってはそれがよく分かる気がした。
 彼はここまで来るのに最寄りの駅からバスに乗り、山の麓から出るバスに乗り継いだ。湖は山の丁度真ん中あたりにあったのだがバス停は挟むように離れたところぽつんと二つあるばかりだった。道は舗装してあるものの頂までひどく蛇行していた。湖から下ったほうのバス停が近いのだけどそれでも歩いて十分ばかりかかってしまうし、坂を上るものだからボートをする前にすっかり疲れ果ててしまう。ならば上のほうから下ればと思うのだが、上のバス停はさらに遠くて歩いて二十分ばかりかかった。そういった不便な場所にある湖にまでわざわざボートを乗りに来るのは相当浮いていたい人間と見える。
 湖それ自体もまた苦労して足を運ぶに比例しない。周囲が鬱蒼と茂った林に囲まれている小さな湖がゆえ、藻がよく繁殖し湖の中は年中緑色に隠されていた。ついで林から吊るされたように育った植物が落とすクローバーのような形の明るい緑色の葉が湖の縁全体にあり、湖を侵食しているようだった。せめてものボート乗り場の管理小屋は壁が白いペンキで塗られているがもう剥げてしまっていて、青いトタン屋根は端のところが錆びていた。そしてそれを取り巻くように育った蔦はもはや取り除けないほどで、まったくとうとう逃げ場がないように思えた。
 ボートは一時間三百円と他に比べれば随分安い。しかしゆっくり漕いでも十五分程度で一周出来てしまうような狭さと妙に釣り合いすぎていて良い値段とは言い切れまい。女子供がいかにも喜びそうな白鳥の形を模した足漕ぎボートなどは一切なく、やけに真新しい手漕ぎのボートが四艘あったが湖に常に浸かっている部分は暗い緑色の藻が張り付いていたし、軽く作られたはずのオールも漕ぐ度に藻が絡み付いているようで見るからに重そうだった。
 若者も男に釣られて湖に視線を移してみたが、何かしら特別な感慨は得られなかった。
「お前、変なことは考えるんじゃないぞ」
 脅迫めいた男の言葉の続きを待ったが、何を言うわけでもなく管理小屋に踵を返して去って行った。男がここに勤めて長いことは聞いていたが果たしてどのような暮らしをしていたのか、この湖に対してどのような気持ちを抱いているのか、若者にはさっぱり考え付かなかった。
 若者がこの仕事を継ぐことになったのは、ついぞ一週間前のことだった。父親が大学にも通わずあんまりに呆けた長男を心配して、祖父の弟が持ち合わせているという湖の管理者を押し付けることにしたのだ。若者は一人暮らしをしていたのだが一時間ほどで行ける身内の仕事かつ、長男の暢気さに合うというのはなかなか具合が良い気がして、父親は一人胸を撫で下ろした。本人にも話したところ、湖というのがなかなか興味深かったらしくすぐに了承した。初めは元々の管理者がいるということで休みの日だけという約束だったのだが若者は友人も少なければ趣味も少なく時折古本を多く買い込んで読みふけっているばかりだったので、話を聞くに今の生活と大差ないように思われた。そう考えているうち、ならばいっそと大学を辞めてボート乗り場の管理者を就職先とすることに決めてしまったのだ。一人で考え良くも悪くも勝手に決めてしまう性質は、間違いなく父親からの遺伝だった。父親に相談する頃にはもう大学を辞めてしまっていたので、父親は泣く泣くそれを了承するしかないようだった。母親がやる気を出すのは珍しいのだからと加勢してくれなければ、果たしてどうなっていたのかは分かるまい。そういった話の後であったので、つまりが若者は自分のためにこの初老の男の仕事を奪い取る形になったのだ。男がしばらくしたら手術する予定さえもなければ、また事態は変わっていただろう。男と若者は一週間ばかり仕事を共にし、あらかた仕事を教え終わったところで男は来ることもなくなった。別れの挨拶はなかった。仕事も教えられたと言っても男が仕事をしている様を見ているばかりで、後は管理小屋にかかっていたカレンダーに書いてある予定を信じて働くしかなかった。しかしたびたび男と親身に挨拶をする人々がいて、きっと湖の常連なのだろうと思わせたがそのことについて男は何も言わなかったし相手も若者を一瞥さえしなかった。若者は成人していたが人付き合いを多くして来なかったのでさして変にも思わず、そういうものなのだろうと隣で真新しいツナギを着て金勘定の練習をしていた。
 働いて一月、さして困ることもなかったがそもそも客がいなかった。一日一人乗りに来るか来ないかだったがしかし若者は不思議だった。若者自身最後にボートに乗ったのは幼い頃だったがたしか父親と一緒で、他のボートらも恋人同士であったりしたはずだった。だのにこの湖のボートに一人で乗る理由が分からなかったのだ。同時に知る気もなかった。三百円を先払いしてさえもらえれば後はいくら乗っても文句は言わなかったが、ボートに乗らずとも時間分きっちりと払う変人もいた。その人物が一番の常連だったが、ボートというより湖の常連といったほうがはるかに正しかった。男は白い髯をたっぷり生やしていて、歳は還暦を迎えたろうほどだった。胡散臭いほど画家らしく暗い赤い色合いのベレー帽を被って、雨さえ降らねば毎日でもキャンパスを背負ってやってきた。そうしていつも若者に挨拶し金を払った後決まった位置らしいところへキャンパスと椅子を設置し、いくらかゆっくりした後思い切ったように油絵の具を筆に塗りたくって描き始めた。一時間過ぎるたび画家は腕時計をちらりと見てまた金を払い、少し休んでまた再開するのだ。若者はまとめて払ってもらえるか、いっそボートにさえ乗っていないのだから払わなくても良かったのだが画家としてはそうもいかないらしかった。理由はそういう性分、ぐらいのものだろう。しかし若者は画家の描いている絵はまったく見えたことがなかった。管理小屋が湖の入口にある以上それは当たり前だったのだが、一度ぐらいは見てみたい気がしたのだ。それを思いついてすぐ管理小屋を出てみると画家も若者に目をやった。
「すみません、絵に興味があるのです、見ていても良いでしょうか」
 画家は謙遜しながらも了解した。若者は画家の後ろに回って、その絵を見る。やはり緑めいた湖が描かれていたがまだまだ途中のようだった。しかし写実的とは言い難く、だとしたら素人の若者には上手さなどさっぱり分かりようがなかった。絵に関してはせいぜい妹が美大に入るため美術学校に通っているぐらいにしか接点がないのだ。母の買い物ついで展示会に飾られた妹の絵やそのほか入賞した絵も見たが抽象画で、あれも何がなんだか分からないでいたのは記憶に新しい。母親は娘だからやたらと褒め称えていたがよくは分かっていまい。知ったか顔する母親の癖は、昔から良くないと思っていた。だから若者は本をよく読んでいるような気がしたのだ。活字で書いてある分どれほど下手糞だろうと小難しかろうと字さえ分かれば読めるのだ。なんと平等で優しいものか若者は絵を目の前にして感心した。
「ほら、あまり上手くないでしょう」
 最初と同じように画家は謙遜した。ウンともイイエとも若者は答えられなかったので、素直に分からないことを伝えた。それがなんだか教師に反省の色を見せているような小学生の様な心持で、なんだかすっかり身を縮めてしまった。しかし画家は聞いてすぐ朗らかに笑った。
「なに、気にすることなんてありはしませんよ。貴方は私を著名な画家か何かと思ってらっしゃるようだけど、そんなんじゃあありません。幾年か前にサラリーマンを辞めたような普通の爺です」
 画家は湖より上った先にあるバス停近くの古い大きなロッジに妻と住んでいた。絵は若い頃から興味を持っていたのだがその頃既に働き盛りで趣味として手を出そうにも時間がなかったのだと言う。だから隠居を期に道具を揃えたのだが、この辺りには絵になるようなところがさっぱりない。室内で静物画でもやろうとしたら妻が油くさいとうるさいし、家を描くのはなんだか気恥かしく嫌だった。すると周りに湖ぐらいしかなく、はじめはこんな薄気味悪いところと嫌々一枚描き終えたのだけれど、なんだが今までの絵で一番良く見えた。静物画や人物画より相性が良かったか、あるいはこの湖があんまりに緑に覆われていたから無茶苦茶にやってもなんとかそれらしくなるからか若者には分からなかった。画家は前者と考えていたようで、うっとり筆を動かしながら語った。
「しかしこうなんですな。描いているうちに変な愛着が湧いてくる。最初は憂鬱で仕方なかった湖が日増しに綺麗に見えてきて、不思議なものです。絵を描いているだけの私がそうなのですから、管理する貴方は一層強い気持ちを抱くかもしれませんね」
 まだまだ分からないでしょうが、と画家は笑った。若者は曖昧に笑い首を傾げた。それからも結局雑談は続いて、画家は語るのに夢中になって筆を置いてしまった。孫が中学生なのだが美術部で自分よりうんと上手いのに驚いたことや、あんまりに自分が上手くないから市民公民館でやっている美術教室にも恥ずかしくていけないことを若者は静かに聞いていた。中でも一番面白かったのが、若い頃有名な画家の偽物の絵を騙されて高値で買ってしまったのだが未だその絵をリビングに飾っていて妻は本物だと思っていることだった。客人にもしばしば自慢するのだかやはり気付く人はそうおらず、ハアたしかにこの筆遣いはとか相当お高かったでしょうとか知ったような口を利くのだという。なぜ詳しく知りもしない画家の絵を誉めるのか若者は分からなかったので画家に尋ねると、
「権威とはそういうものさ」
 とだけしか言わないので、若者は分かったような分からない様なままだった。ボート乗り場の営業時間がとうに終わって日が沈みだした頃、いそいそ片づけをして二人とも別れた。
「それじゃあまた明日」
 画家は上機嫌にいつもより多い金を置いて帰っていった。若者も管理小屋に戻って変える身支度をしようとしたところで、もう帰る家であったことを思い出した。
 若者は数日前にアパートを引き払って本と服ばかりを持ってこちらに住み込むことに決めたのだった。管理小屋は入ってすぐにコンクリートの廊下があって右手には受付のための窓とキッチンがあり、左手には一段上がって障子で仕切ることができる、しかし普段開け放たれたままの四畳半の畳敷きで押し入れが付いていた。外には客用のトイレにボートを洗うためかシャワールームがあったため、住むのに困ることはなさそうだった。前任は妻子がいたそうで住み込んではいないようだったが生活用品はちらほら残っていたのでそれが使えた。働き始めた頃は前のアパートから通っていたのだが、やはり一時間の道程や高くもない給料から出す交通費はつらかったのだ。ならばいっそ住んでしまえばいいとまた一人勝手に思いついた。案外と住みやすく若者はすっかり気に入っていたが、ただひとつ休みの日だけが厄介だった。
 ボート乗り場は客足に対して年中無休に朝の九時から夕方の四時まできっかり開いていた。通勤時間がなくなった今となっては朝の早さも問題ではなかったし雨が降れば休みにできた。そんな日は朝から傘を差し街へ下りた。若者はまず銭湯へ行く。どうせ帰りも雨で濡れてしまうのだが管理小屋には湯船がないから頭の先まで浸かりたかったのだ。街には二つ銭湯があって近い方が新しく底から泡が湧き出る様な風呂さえあって、遠い方が何の飾り気もない昔ながらの銭湯だった。しかし若者は毎度わざわざ遠い方へ足を運んだのだが理由は泡だとか昔ながらなどとはまったく関係なく、ただ近い方の湯がすべて緑色だったからだ。飽きるまで湯に浸かった後は古本屋へ行く。種類など関係なしに読んだことのない作家の安い本をいくらか購入した。そして近くの定食屋で腹いっぱい昼食を食べ買った古本に一通り目を通す。腹が落ち着いたら食料を買いに出掛けた。少ない金と力のない腕で持てるだけ食料を買い込むのだがこれがなかなか上手くいかない。週に一度都合よく雨が降るわけではなかったのだ。銭湯や古本はいくらでも我慢できたのだが二週間もすればすっかり食料は底をついて、実家から送られてきたたっぷりの茶葉で茶を沸かしそれでなんとか雨が降るまで凌ぐしかなかった。時折飢え過ぎて吐き気がするほどだったのだが上手いこと解決策は浮かばなかったのでひたすら雨を待つしかなかった。しかし似たような立地に住んでいる画家はどうしているのか若者は知らなかった。以前一度家に招待されて訪れたのだが奥さんも随分年老いていて家もそう出ないと笑って言っていた。ささやかながら自家農園があったもののそれで一年やり通せるはずもなさそうだった。はて、と思った若者が相談ついでに次の日いつものようにやって来た画家に尋ねた。すると画家はなんてことはないように笑い飛ばした。
「いやあ、いつもどうしているかと思っていたが成程飢えていたか。道理で最近めっきり痩せたなと思っていたよ」
 画家は笑いを我慢できないようでにやついていた。若者は飢えから思わず答えを急かしたのだが画家も詳しくは知らないようだった。
「妻は週一で街へ料理教室に行きますが、帰りに荷物いっぱいに帰って来たことはありませんな」
 結局二人で首を傾げボート乗り場が終わった後に夕飯ついで奥さんに聞くことにしたのだった。画家が事情を話すと奥さんはすっかり笑い転げてしまった。
「あらあら、大変だったのねえ。ええ、すみませんねえ。うふふ」
 女子学生のような笑いをしばらくしていたのだが画家に怒られてようやく答えた。
「料理教室のお友達にね、お野菜だとかお肉だとかをとにかく頼んだらなんでも家に直接届けて下さるサービスがあるって聞いてね。それをずっと前から使ってるんですの」
 画家と若者は大いに感心したのだが普段食べている妻の食事のことを知らなかったなんてと奥さんは少し機嫌を損ねた。画家が慌てて機嫌を取ってこれから週に一度一緒に頼んでもらうことにした。若者は大変喜んで頭を下げて御礼を何度も良い、自分にできることがあればなんでもするとさえ言った。それほど若者の胃はほとんど窮地にあったのだ。すると画家は良いことを聞いた、という顔でにんまり言い出す。
「大したことじゃあないんですがな、頼みがありまして。その、私も湖ばかり描いているわけにはいかんのです。それじゃあ成長がありませんし、飽きてしまっては元も子もない。ですからその」
 もじもじと手洗いにでも行きたいような仕草をしたのち、画家は言う。
「今度、絵のモデルをしてもらえないでしょうかね。いやなに、ここが終わった後でも良いんだ。デッサンなら室内でも妻が許してくれましてね、しかしモデルをするのは家事ができないから嫌だと」
 今度は若者のほうがもじもじし始めたが画家は画家で相当に飢えてるらしく御礼として食費はこちらが持つしモデル代や夕食を用意する、と目をらんらんと輝かせた。しかし少し坂を上ってじっとしているだけでそれだけ得られるというのは好条件以外何物でもなかった。黙っている若者に次々と言葉を重ねる画家を抑え、了承の言葉を述べると画家だけでなく妻さえ喜んだ。しかし食費はさすがに多すぎるし金が多くあっても使い道がないので夕食だけ頂くことにした。いくらか押し問答があったのだがなんとかその条件で収まった。気が向いたとき、あるいは手の込んだ料理を食べたい時に行くことにした。しかし隙あらば金をやろうという気概が二人から感じた若者はよく注意しようと肝に命じた。
 夜には勧められた酒を断れずすっかり酔っ払ってしまった若者はふらつきながら家路についた。といってもまだ日付が変わるには時間があって本でも読むかと考えていると、管理小屋の元にひとつ人影を見た。灯りひとつない湖では人影さえ見つけたこともほとんど偶然で、かといってこの時間に湖にやってくる人間も思いつかなった。近付くとそれがどうも制服を着ているらしいのに気付いた。それでいて背が低いのだから学生らしい。その人影がじいっと看板を睨んでいたところ若者はようやく声をかけた。しかし、あのうと言うぐらいで相手から口を開かれた。
「ここの湖のボートは、朝の九時から夕方の四時までなのですか」
 その声は不機嫌そうに低かったが元の響きは高いようでつまり女学生らしい。若者がハアと返事をする。
「どうしてもですか」
 どうしても、とはどういうことなのか若者には分からない。決まり事ですので、と答えると女学生は例もなしに去っていった。暗闇の中長い髪の擦れる音が聞こえた気がしたが定かではない。何せ若者は酔っていたのだ。次の日の朝も覚えていたが夢の様な気がしてそう思ってしばらく考えているうちにすっかり夢だと決めつけてしまっていた。若者にそんな夢を覚え続けている義理はないので夜になったら忘れてしまったし、一週間後にふと思い出したがはてどの本の話だったかとすっかり勘違いをしていた。しかしまたしばらくすると思い出す機会があった。
 昼過ぎ、管理小屋の受付で本を読みふけっていると声をかけられた。
「ボートに乗りたいのですが」
 三百円はいつの間にか置かれていて、はいと返事をしつつ本を置き顔を上げたところではっと思いだした。客が長い髪の女学生だったのだ。顔立ちからどうも中学生らしいが髪がやけに明るい茶色で不良娘のようだった。二重ながら切れ長で、細身の顔つきとよく合っている。しかしあの時の人ですかとも尋ねられず、そうだとしても相手もあの暗がりで見えなかったのだろうからはっきりとした返事もできまい。若者は大人しくボートを用意し娘が乗り込むまでを見ていた。スカートもやたら短く座りこむとき見えるんじゃないかと冷や冷やしたが、上手いこと乗りこんで大丈夫だった。にしてもこの歳の頃の娘が一人で乗れるものかと思ったが、あっという間に湖の中央まで行ったので器用なものだと感嘆し管理小屋に戻った。本来ならそうした客に何かあったらというときのために見ているべきが管理者なのだろうが若者にそういったらしい意気込みはなかったし、いざとなれば画家が呼んでくれるだろうという甘えもあった。若者がこの仕事にとことん向いていないと気付く人間すら湖にはいなかった。
 娘は午後三時頃に来て一時間乗り、営業終了時間ぴったりに乗り場に戻ってきた。若者と顔を合わせても何を言うわけでもなくそのまま乗って来たらしい自転車で帰っていった。それを三日ほど続けた辺りで、画家が不思議そうな顔で若者に声をかけた。
「いやあ、あの最近来ている女の子、あの子は不思議な子だね」
 それに若者も首を傾げ、一体何があったのか尋ねた。
「君、見てないのか。あの子はボートに乗ってすぐにすいすい湖の真ん中へ行くんだ」
 そこまでは見ている。
「そこから動かないんだよ、時間になるまでずうっと湖の水面を見ている。娘や息子のときもそうだったけど、あの年頃の子が考えていることはまったくさっぱり分からないなあ」
 若者も妹がいたが似たような具合だったので頷いて同意した。妹が中学の頃といえば少し前のことだが家族にはまったく話かけないで、だというのに自分の気持ちを察してほしいらしくよく一人でいらついていた。若者は思春期というものがあんまりなく育ったので初々しい気持ちになったものだ。だから知った顔で思春期なんでしょうと言い切ってみると、画家もまた大きく頷いた。
 娘はそれから四日も続けて来たし休みの日は朝から来て晩まで乗り、小雨が降ったから画家もやって来なかった日にも傘を差して来た。しかしその日はなんとなく機嫌が悪そうでいつもなら声をかけてくるところ受付の窓をノックして出来る限り喋らないようしていた。若者はその仕草にまた妹を思い出しながらボートを出して一時間、戻ってくると大層不機嫌そうに若者に言った。
「ねえ、ちょっと、あなた」
 ハアと少し疑問調に返事をする。
「あなた、良いの、それで。いいえ、良くないわ。女子中学生なのよ、あたし」
 だからなんだというのか。若者はそう言いかけるのをこらえた。
「女子中学生がボートに一人で乗るの。それから、ずっと湖を見つめてるのよ」
 若者は知っている。しかしそれが娘の言いたい事ではないようだった。いらついた様子を見せながら、娘は叫んだ。
「いかにも自殺しそうでしょう!」
 それは、知らなかった。その後も若者が尋ねてもいないのに娘は勝手に語り続けていた。
 話を聞くに娘は水泳部なのだという。だから髪の色が塩素で抜けて明るいことに、若者はようやく気付いた。戦績はなかなかに良いのだが、それを仲が良かったはずの同じ水泳部の友人は記録を妬んできていじめっ子になってしまったのだという。勉強のほうは並々なのだが母親は水泳などやめて勉強をしろと言うし父親は無関心。それがいくらも続いているからすっかり嫌になって、部活に行かずこの湖でさあいつ自殺しようと企んでいたのだという。どうもこの娘の自殺と言うのは、この世を果敢無んでというよりも面倒になったから自殺しようという程度に思えた。最近の娘はみんなこの調子なのだろうか、ならば妹は、と若者は考える。
「でもこの湖、汚いでしょう」
 管理者の前ではっきりと言いのける娘はなぜ自殺を考えたか不思議なほどだった。
「ずうっとずうっとよ、湖を見てたんだけど見れば見るほど気持ち悪くなっちゃって、こんなところで沈むなんてって思っちゃって。それにこれだけやってれば、管理者かあの絵を描いている人が声をかけてくれてあわよくば中学に連絡が行って、私は泣きながら虐めだのなんだのを告白出来ると思ったら」
 そもそも私を見やしない、と憤慨したように言う。客がそこはなんだか、とても申し訳ないような気がして若者も謝った。娘は納得しない。
「あなた本当に管理者なの、もし何か事故が起こったらどうするつもりだったの、まさかあの絵を描いている人が助けを呼ぶのが遅かったのですとでも責任を押し付ける気だったの、あの人は腐っても客よ、責任はあなたに回ってくるんだからね」
 ごもっともなことばかりで若者はすっかり落ち込んだ。それを中学生に言われているのはまったくどうしようもないことのように思えた。ハア、ハア、と溜息めいた同意を続けているうち、娘は大分気が落ち着いたらしい。もうこれからはいじめなどをしてくる奴など放っておいてしっかり水泳に行く、勉強はしなくても良い学校へ行けるほどに水泳へ行く、しかしきっとまた嫌になってくるだろうから部活が休みになる雨が激しい日あるいは休みの日にここへ来る、その時には愚痴を黙って聞きなさい、という旨を若者が気付いた頃にはしっかり約束がなされていた。娘が帰ろうとした際におずおずそれを断ろうとも思ったのだが、娘の一言で取りやめになった。
「管理不十分だって、この湖の本当の管理者に出しても良くってよ」
 身勝手な人間は大抵に頭が良いのである。反論する言葉をせめてでも考えていたのだが、口に出す頃にはもう娘は去っていた。最近の娘は恐ろしい、と若者は心底考えた。それから若者はボート乗り場を閉めてモデルををしに画家の家を訪れた。娘のことをあらかた話すと夫婦はよく笑った。
「まあ、思春期とはそういうものさ」
 そういうもの、と言えばよく分かっている風に見えることを若者が指摘すると、画家は恥ずかしそうに微笑んだ。
「思春期なんて、本当に気まぐれなものです。その子もそう言いながらまったく来ないこともあるかもしれませんわ」
 奥さんは慰めるように言った。若者もそんな気がしてきて気にすることはやめたのだが、娘はそんなことなく言った通り雨の激しい日と休みの日にきっかりやってきた。そして管理小屋に勝手に入って座敷で茶をせがんだ。敷かれたままの布団だの積み上げられたままの古本を怒られ、良い点のテスト、大抵現代文と社会だけを見せられてそれから愚痴を散々に言われた。若者の忘れっぽい性分や何事も気にしない性分が功を奏して、どちらもつらくなく日が経った。
 画家と娘を中心に、客はちらほらと来ていた。画家夫婦以上に年を取った老夫婦が運動がわりにと漕ぎに来たり、娘よりよっぽど死にそうなやつれた顔で一人呆然とボートを漕ぎ続けるだけの中年男であったり、べたべたとくっつくカップルがべたべたとしたままボートに、あるいは湖を見ただけ絶望したような顔をした。一番最後はもはや顧客の一種類で綺麗な女性が一人でやってきて見るに終わったり、学生が冷やかしに来たりするほどだった。
 その中、一人年頃が似た男がやってきて一時間きっかりボートに乗った。その男は最後、若者がボートを綱でコンクリートのところに引っかけているのを妙にじっと見つめているから、若者はさすがに何か御用ですかと声をかけた。
「さっぱり気付かないものだなあ」
 本当に驚いたように言う男は自らを指差した。
「僕だ、僕。覚えていないのかなあ。ほら、お前が辞めた大学の」
 若者はようやく思い出す。男は同級生であった。入学当初に関わったきりではあったが若者にとっては数少ない知り合いだった。しかし男の方は広く多く声をかけたうちの一人だったのは一ヵ月もすれば分かったことだったのですぐに疎遠になった。若者が大学へ行かなくなったせいもある。しかし若者が数少なく大学へ行った日にすれ違えば、かならず声をかけてくるような人間だった。ただ若者もそれで覚えていて挨拶を返すかと言うとそんなことなく、はて今のは誰だったろうという具合で虫をしていた。
「風の噂で聞いてな、まさか本当にこんなところで働いているとは思わなかったよ」
 男が喋るたびに若者はゆっくり記憶が明確になっていった。男はこう言った変なところではっきり言ってしまう癖があったのだが素直すぎる実直な奴とむしろ人気があった。若者はむしろ空気がわからぬ奴と囁かれていた。
 男はボートの営業が終わったら飲みに行こうと誘ってきた。それは良かったのだが、夜になるとバスがなくなる。そのことを真っ先に心配した若者に男は笑い、タクシー代を出してやるとさえ言われた。同い年なのだから断ったが飲みたがったのは自分と押し切られた。若者はこの頃ようやく自分の押しが弱いことに気付き始めていた。
「来たときに駅の辺りで良い感じの飲み屋を見つけたんだ、そこへ行こう」
 若者は断らなかった。
 行きから居酒屋まで沈黙し合うことはなかったのがほとんど奇跡のように思えた。何せ若者は誘われただけだから話すことはない。男は愛想よく今の大学について話し、ときおり若者の今の仕事について聞いた。男は今就職活動をしているというのだがなかなか上手くいかず二社ほどにしか内定をもらっていない、しかしまだ時間はあるから頑張る、と言ったことを話された。若者はもう就職してしまったので今に興味がなく、また世間一般のことすら新聞もテレビもラジオもなかったので分からなかった。たしか大学にいた頃は就職が大変とよく聞いたのだが事態は良くなったのかもしれない。良かったな、とだけ短く祝った。一方若者は画家の話、娘の話に終始した。しかし言っていて何が楽しいのか本人にすら分からなかったのだが、男は興味深そうにふんふんと聞いていた。居酒屋は二時間ばかりで出た。男の方が用事があるのに間に合わなくなりそうだったのだ。二人ともほろ良いにあって語りすぎたせいかとうとう黙ってしまったのだが、男がそっと尋ねた。
「なあ君、君は、今の生活は楽しいかい」
 若者はしばらく悩んだ後に、同じくそっと答えた。まず答えになっていないが、から切り出した。
 楽しいというより幸せだ、大学の頃のことを考えると人と会うのは思っていたより楽しかったし、必要とされるのは大変というより気恥かしく嬉しい、それでいて君のような人も尋ねてくれて、やっぱりこれは幸せ者だという他ないと思う。
 気が付くと頬が緩んでいたことに気付き、若者はなんだか恥ずかしくなってしまった。笑われても仕方ないということを覚悟したのだが、おかしなことに前を歩いていた男は声をひそめて泣いていたのだ。肩を震わせ子どものような泣き方をしているから上手く言葉が出せないらしい。若者がいくら聞いても答えない。駅に近付いた頃、ようやく収まった男は言った。
「僕はまったくの馬鹿者なんだ」
 それでも聞こえづらい言葉を一生懸命聞くに。男は本当は内定などもらっていなかった、どころか卒業までにもらえるかもらえないかというところだった、周りがもらえている中焦っていた、しかし落ち込んでいる中若者がボート乗り場の管理者などというものに大学を辞めて就職したという。大学ではどうも若者は親の借金を背負ってどうしても金を返すためにそれになったという話になっていたらしかったがさておき。じゃあそういう下の人間を見れば自分は安心できるし、こんな奴にならないようにしようと決意新たにできるのではないかと思ったのだという。しかし会ってみると予想と違った。大学の頃はやつれた暗い顔をしていた若者が、やけにふっくらと朗らかで自分より余程楽しそうであったのだ。つらい愚痴ばかりを聞きたいはずが、良い人に囲まれているという自慢じみたことを言われる。それですっかり自分のほうが嫌になってしまって、だが強がりかもと聞いてみた先程の問いもだめで、とうとう泣いてしまったのだという。
 若者はうんうんと娘と同じような具合で聞いていたのだが聞き終わった頃にはうんざりしてしまった。娘はほとんど愚痴の垂れ流しと言った感じで聞き流せばいいのだが、男は押しつけがましかった。きっと哀れんでほしいのだ、と若者は思う。どれが真実にせよ、自分が可哀相でならないのだ。途中に気付いてしまった若者は、かといって切り捨てるようなこともできなかった。しぶしぶとながら、若者は言う。
 世界で一番の幸せ者めと思っているようだが、それは違う。世間的には君の方がよほど立派だし、こちらは所詮誰にでもできるボート乗り場の管理者でしかも大学中退、将来どうなるかなどは分からない。大抵綺麗な話では幸せの形と言うのはいろいろで、世間一般より本人が何より幸せならそれで良いといったようだが、そんなことはない。幸せの形はいろいろであるなら、世間一般で立派であるというのは必ず一つの幸せだ。それも大衆的に認められる幸せなのだ。君はその最中だ。卒業すればその幸せはなおさら大きくなるだろう。就職できれば勿論のこと。君は君でそれを目標にしていけばよい、それがつらかったから途中でやめてたまたまここに来たら運よく相性が良かった、それだけの人間とは違うのだから。
 と言った事をもっともらしく語ると、男はまた瞳に涙いっぱいに貯めて感動していた。何を言っているか分からない礼の言葉を何度も重ねられ、男は電車に乗って去っていった。若者は男をごまかしたいという気持ちで言っただけだったが、一人思い出して恥ずかしくなった。
 しばらくして男から手紙が届いた。やはり礼ばかりの言葉と就職活動をよく頑張っているといったどうでもいいことが連ねられていた。適当に読んだのを部屋に放置していると、訪れた娘がそれを勝手に読んだらしい。何があったのかしつこく聞いてくるので省略して答えると、娘はふうんとつまらなそうに言った。
「その人、詐欺によく騙されそうね」
 若者はただ納得した。

 若者は春の終わり頃に勤め始めたのだが時期はもうすっかり冬でもうしばらく働けば一年が経ってしまうのだった。よく働けたものだと若者は自分ながら感心した。しかし何かが明確に変わった気はしなかった。画家は厚着にしていつもどおり湖を描いていたし、ぎこちなくも若者も二枚ほど書き終えていた。娘は大会が近くなるたび姿を消したが、過ぎるとにんまりと満足げな顔で賞状を見せた。納得が行くまで褒め称えなければ、ずっと賞状を持って若者の周りをうろついた。娘がいたおかげで生活が楽になったこともある。今まで古本屋は街に一軒しかないと思っていたのだが、山を越えたほうにもう二軒ほどあったのだ。娘は知らなかったのと驚いて教えてくれた。湖があるほうはすっかり寂れているのは逆側がよく栄えているせいなのだという。そちらのほうが都心に近くて山の頂を少し下りた辺りから市民体育館から中学校小学校、ニュータウンがあった。湖が寒さで凍りついてしまった日、冬休みであった娘に実際連れられ見に行ったところその通りで実に驚いた。市民体育館には室外ながらプールがあるので、いつもそこで水泳部は練習しているらしい。今の時期は都心近くの方にある温水プールで練習をした。
「それでもって、あたしの家はこっち、湖の少し下のバス停前にちらほら家があるでしょう。あすこにおばあちゃんがずっと住んでいたから、あたしたち一家もそこに住んでいるの」
 だから湖も学校帰りに来やすいのだという。若者はよく納得した。湖から出なければ分からないこともあるのだ。娘はなぜか自慢げに胸を張り、他に聞きたいところはと聞いた。若者はちょうど娘に聞こうと思っていたことをはっと思い出して質問した。
 近頃、湖に学生がよく来るのだ。小学生から高校生まで。しかし湖の敷地には足を踏み入れようとさえしない。入口の辺りでみんなしてそおっと覗き込む。たまに誰かが誰かを急かす声も聞こえる。それでつい若者が顔を上げると楽しそうな、時には恐ろしげな悲鳴を上げて逃げるのだ。そんなことがしばらく続いているから中学で何かあったのかと思ったのだった。
 娘はこれに不思議そうな顔ひとつ見せず、そういえばそんな時期だったわ、と当たり前のようだった。
「この町、というか山の怪談の一つよ。湖で死んだ子供というもの」
 なんとなく察するものがあったが念のため詳しく聞いてみた。娘も分かるでしょう、と言った素振りをしながらも答えてくれた。
 街には若すぎた恋人同士がいたのだか子どもができてしまった。産んだが育てられない二人はボートに乗って湖に捨てた。成長した恋人同士は今度はちゃんと子どもを産んで育てた。その子どもが大きくなってボートに乗りたいと言う。二人は嫌がったが、子どもはどうしてもとねだる。仕方がないので家族は湖のボートに乗った。子どもは楽しそうで二人もほっとしたが、突然子どもが振り返った。
「今度は落とさないでね、冬の湖は冷たいし、藻が喉に詰まって苦しいから」
 それは丁度、前の子どもを捨てた場所だった。
 最早どこか、というよりよく聞いたことのある怪談だった。しかし最後の台詞はこの湖に合うよう改変してテンポが悪くなっているのがなんだか慎ましい。
「噂のボートだけ全部新しいのも変でしょう。運営者が縁起が悪いからって買い直したって噂もある。でもまあ、それで冬になると季節外れの肝試しに来るわけ。冬にカップルでボートに乗ると足を引っ張られるっていうのも同じ流れね。でも愛情の深いカップルであれば子どもが感動だか安心だかしてやめるんだって」
 そういえば学生のカップルもよく来たが妙にべたついた奴らばかりだった。納得することばかりで面白かったが、風評被害の他ならないような気もした。
「もう昔からあるからどうしようもないでしょう。それになくなったからって客が増えるわけじゃあないわ。むしろ肝試しカップルが減るだけかも」
 我慢するしかない、というわけだ。世の中上手く回っている。思わず口にしたそれに、娘は笑った。
「でも、案外嘘だけじゃないのよ。去年、一昨年かしら。うちの中学の新聞部がほとんど冗談で湖の裏を取ったんだけど、それが本当にあったことらしくて新聞記事が見つかったんだって。事故だったって言うけど子どもが湖に落ちて、藻が喉に絡んで」
 管理者ながら初めて聞いた話だった。
「子どもは小学校に入った頃ぐらいで事故は二十年ぐらい前のことだというから、知らなくて当然かも。でもすると、丁度その子供が生きていたら今頃」
 娘はじっと、若者を見た。
「なあんてね」
 若者は自分が湖に覚えた覚えなど一切なかった。娘も笑って首を振りふり、所詮中学の新聞部だから分からないわと言った。疑り深すぎるような気もしたが対メディアの生き方としては良いのだろう。山の怪談というその他の話も聞いてみたがやっぱりよく聞いたことのある怪談で、娘より先回りして答えると怒られてしまった。山の中での現れて追いかけまわしてくる老人、追い掛けダッシュアババア。特にネッシーめいたものがいるという系統がひどかった。聞けば聞くほど湖の怪談も信用がなくなるのは安心すべきか否か。
 二人は娘の目立ちたくないという意向で朝から散歩代わりに歩いていたのだが、昼になると大分日が出て厚着をしていた二人は脱いでしまうほどだった。湖ももう溶けているかもしれないし腹が減ったからと戻ることにした。湖近くになった頃、遠目から既に一人、湖の敷地に足を踏み入れようか悩んでいるのが見えた。しかし画家ではないようだった。画家は今風邪を引いているから外にさえいるはずがない。ならば懐かしい同級生の男かとも思ったが今は就職活動が本当に忙しい時期であるはずだからいるはずがない。あの男なら分からない、などと娘が言い出すから覚悟を決めたが、近付くほどにその外見は男から離れていった。そこに佇んでいたのは女だった。白いファーコートをすっかり着込んでいたのだが細身さはそれでもよく分かったが黒いハイヒールは不安げだ。整った顔立ちの表情は暗い。頬に片手を当てて悩ましげだ。よく見ると、幾度か見た覚えのある顔だった。そうだ、と若者は思いつく。湖を見ているばかりの女だ。一ヵ月に一度来るか来ないかの人でいつもボートに乗らなかった。年甲斐もなく画家が鼻の下を伸ばし、あんな人がモデルになってくれたらとよく言っていた。若者は声をかける。
「すみません、今開けますが」
 それにひどく驚いたのか、女ははっとした表情で後ずさった。それに運が悪く坂の傾斜がつらい場所で、女は高い悲鳴を上げて倒れてしまった。
「ああ、ああ、大丈夫ですか」
 若者がおろおろと手を差し出し、娘は黙って女の後ろに回り今にも寝転がりそうな具合のところを支えた。女は茫然とええ、ええ、大丈夫、大丈夫とうわごとのように言ってまったく大丈夫ではなかった。若者が足元に視線を移すと、脚はくじいていないようだが履いていたはずのハイヒールが脱げ根元からぽっきり折れてしまっている。これは謝ったところでどうしようもなかったが、若者は謝り続けた。なぜか女も謝り続けた。
 結局その場は最年少である娘が収めた。女の時間があることを聞き、娘の家にある接着剤で折れたヒールをくっつける。その間若者が女を背負って管理小屋かどこか、ちゃんと座れるところを用意すること。それだけ言って娘はすぐに自転車で行ってしまった。若者も女も押しが強い方ではないので、娘の言うとおり背負い背負われた。女は大変に恥ずかしそうな顔で顔中真っ赤にしていたがやはりそのまま歩かせるわけにもいかなかった。管理小屋の座敷の方がいいだろうと連れて行こうとしたが、途中ようやく女が謝罪以外を口にした。
「あの、湖を見ていたいのです。外に、椅子か何かあればそちらでお願いできますか」
 若者はすぐさま、普段画家が浸かっているパイプ椅子を湖の前に設置して女を座らせた。ようやく二人とも息をついた。何か気を紛らわせるようなことでも話すべきかと若者は思案したが思いつかず、ちらりと女を見た。女はまっすぐと湖を見つめている。息をしていないような具合だった。手は力がこもって、コートを握りしめていた。そのとき光ったのは、左の薬指輪だ。自分とさして変わらない年頃のようなのに、と一度思ったが同級生が結婚し始めている。不思議ではない。真剣に見てらっしゃるところなんですが、と若者は声をかけた。おいくつですか、と初対面にそぐわぬ質問で。
「あら」
 女はくすくす笑う。驚いた様でもあった。
「初めて会った女に、聞くことではないですわ」
 答えないと思ったが曖昧に答えた。二十代の終わりです、と。若者は成程と頷く。この年の頃の客、それも一人の女性と言うのは大変珍しいのですと遅いながら補足した。
「そう、かもしれませんね。夫との、思い出の場所で」
 女の笑みは儚げだ。若者と一瞬目を合わせたが、すぐに湖へ視線を逸らす。
「夫と初めて会った場所で、辛いことがあるたび、なんだかついここに来てしまって」
 愚痴になってしまうんですが、聞いていただいてよろしいですか。女は今までで一番丁寧に愚痴を言い始めた。
「私、夫の後妻ですの。それでほら、世間的にはもう若くないんですけど、夫と比べられると遺産狙いじゃない、なんて言われてしまって」
 指輪を右手でいじる。
「私から夫を好きになったのは確かです。ほとんど初恋、でした。私も幼かったせいかもしれませんが、やはり命の恩人というのが一番強くて」
 もしかして、と若者は言う。先程聞いたばかりの話だった。湖の子ども。言うまでもなく彼女に伝わったらしい。
「ええ、そうです、知っていましたか。もう昔のことですから誰も知らないかと思っていました。でもあれは本当に、良い記憶でもありますし、悪い記憶でもあります」
 当時、小学生だった女は母子家庭だった。母親は夫との離婚ですっかり病んでしまって、しばしば女に虐待めいたことをしていた。ある日とうとう子どもだった女をボートへ乗せてあげると言って湖まで連れ出し突き落としてしまった。女は悲鳴もなく湖に落ちた。藻が体中に絡み、口の中に入ってくる。湖は底が見えぬほど深かった。自分は死ぬのだ、という気持ちと自分は死ぬべきだ、という気持ちがあった。母親をこれ以上苦しませたくなかったのだ。しかし手を引く感触があった。母親ではない、太い手と力だった。いないはずの父親を思った。しかし湖から助けられると、ツナギを着た知らない男がいた。
「それが、今の夫で」
 若者の先輩、つまり前任の男らしい。妻子持ちと言うのは知っていたが、まさかこれほど若く綺麗な人とは思わなかった。
「そのときにはもう奥さんはいたらしいんですが、病弱な方だったらしくてそのあとすぐに亡くなって、私もその後母親が反省して実家に戻って祖父母たちと暮らしたのでこの街を離れて」
 戻って来たのはつい数年前のことだという。トラウマと向き合うような気持ちで湖に足を運ぶと管理者が変わっていたのだが、ボートもまた変わっていた。新しい管理者に事情を聴くと、湖の責任者があの時の子がもう一度来たとき少しでもつらくないよう、とボートをしばしば一新しているのだという。その頃、まだボートに乗るのは怖かったがそう考えてくれた責任者には礼が言いたかったので管理者に連絡先を教えてくれるよう頼んだ。
「それから会って、お礼を言って」
 照れたように微笑む女。今は夫とならボートに乗れるらしい。しかしすると、計算がおかしい。前任の妻だとすると、新しい管理者とは若者になる。だが数年前と言えばまだ前任のことだ。
「あら、本当にあなた知らないのですね。あなたは、夫が一番だとしたら三番目ですの。それでいて夫は湖の責任者」
 若者は理解したが、納得はしがたい。
「その頃家が嫌になって、もう一人いた管理者に頼んでこちらに住まわせてもらったんだそうです」
 すると、本当に。若者は生唾を飲む。女は微笑んだ。
「口が軽くなってしまうぐらい良い親戚の方がいらっしゃって、本当に良かったですわ」
 祖父の弟の妻はそう言った。そのとき接着剤が探すのに手間取った娘がやってきた。上機嫌に微笑む女と茫然とする若者の構図には、まったく理解できなかったのだが。

 次の日、小雨が降りしきる朝だった。前任が出ていってしまって一人で働かなければならなかった朝とよく似ている。あの頃の朝はこの小雨が恐ろしくも頼もしく思っていたのをよく覚えていた。雨だから休んでしまおう、一日だけだから、と大学と同じような気持ちだった。しかし数十分もすれば空が晴れてきて悲しくなってしまったのを覚えている。あの頃は知り合い一人いなかった。画家も娘も、いなかった。今日もこのまま雨が降り続ければ二人は来ない日だったがまだ営業まで時間があったので分からなかった。外に出てみると湖は凍っていない。ふと思いつき、若者はボートに乗って漕ぎ出てみた。軋む音と水音だけだったがそれさえ林に吸い込まれた。こういう朝は植物のにおいがよく鼻に届く。存在感がやたら強くて鼻の中が緑になっているような気がするのだ。しばらくしたら会える何気ないことだったが、若者がここのボートを乗ったのは初めてだった。常に小雨の雑音がかった音で耳元は少しくすぐったい。湖の中央に来たあたりでオールを止めた。ここで女が落ち、娘は自殺しようとしたのだ。すると昨日やけに仲良さげに話していた二人であるのが不思議だった。殺されようとした人間と、死のうとした人間。この湖には得体の知れない魅力があるのだ。湖を描き続ける男。そして若者自身。ただ薄気味の悪いだけのはずの緑めいたこの湖に。きっと前任の男もそれに浸っていたはずだ。だがそれを訳も分からず奪ってしまったことに若者は理解した今反省していた。前任の男にもう一度会いたいと思う。しかしそうしたら若者は何を話すべきか思いつかなかった。謝るべきことでもない気がしたし、そうしたところであの頑固そうな男が簡単にそうですねと理解するわけでもなさそうだった。肺と脳が濡れていく。耳に音が届いた。水音だとかとは違う。車の音でもない。もっと金属的な音だった。管理小屋から聞こえている。若者は首を傾げボートを引き返し管理小屋に戻った。鳴り続けていたそれは電話だった。相当古い型であんまりに使わないから隅に置いたまま埃かぶっていたのだ。この電話番号すらも知らない若者は、はてと思いながら重い受話器を手に取った。
「ああ、もしもし。良かった良かった、繋がったわあ、お父さん、繋がったわ」
 聞いた覚えのない中年の女性の声だった。長い間コールさせてしまっただろう。それから女性は前任の管理者の妻であることを言った。今度こそ本物の妻らしかった。何せ後ろで前任の不機嫌そうな声が聞こえる。
「ああどうもお、初めましてね。いえ何ね、お父さんはいいって言うんだけど、手術が無事終わったことだけ伝えておこうと思ってねえ、朝早くからごめんなさいねえ。悪いところ全部切っちゃって。もう手術前にはすっかり気を弱くして仕事もやめて入院して、俺は死ぬんだってもお何度聞いたことか。ああ、ああ、お父さんに代わったほうがいいかしら。ごめんなさいねえ、長く話し過ぎちゃって、お父さん、ちょっとお父さん、もう、恥ずかしがってないでほら、心配なすってくださってたんだから」
 若者は何か言った覚えはなかったが問題はない。しばらくの押し問答の末、前任は負けたと見えて代わった途端無言になった。後ろで妻の何か言いなさいという声が聞こえる。若者は妙にほっとして、言った。
 今度、お見舞いに行きます。
「いい、いい。そんなこと」
 前任は不遜に言う。また押し問答が始まった。
「そんなことをしている暇があったら」
 次の雨の日に行きますので。
 ほとんど同時の言葉だったのだが、前任のほうが唖然として言葉を失っていた。それからすこし笑って言った。
「お前もろくでもなくなったなあ」
 若者はまったくその通りだと思って、久しぶりに笑い声を上げた。窓の外ではもうすっかり小雨は止んでいて、この電話が終わったらボート乗り場を開こうと思っていた。今日もそちらは一日晴れるからな、という前任の言葉を聞きながら。

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