// 置き忘れの傘

 持っているビニール傘から滴を垂らした、セーラー服の娘が車内に乗り込んできた。目はぱっちりと、頬は丸くすべすべとしていた。黒い髪はまっすぐ長く、低く二つに結ばれている。私含めた観光客が多かったせいか、一人ぎこちなく微笑み、妙に姿勢正しくした。
 発車する際、電車が大きく揺らいだのだが、娘は傘を脇の棒に引っかけていたせいで少しよろけた。不意に車内の人々の視線や意識がそれとなく向けられたが、必死に手を伸ばして棒を掴むことができ、転ぶことはなかった。ほっとしてはいたが見知らぬ人々に見られていたのに気付いたのか、素知らぬ顔で耳をほんのり赤くさせていた。
「おまえ、転んだろう」
 少し離れた席にいた学生服の少年が、顔見知りだったのかにやついた顔で近寄ってゆく。空いた席はすぐさま幼少の子が座り、明るい笑顔を母親に見せていた。
 娘は知り合いがいたことにほっとしたようだったが、耳をまだ赤くさせたまま首を横に振った。
「転んでない、よろけただけ」
 想像していたよりも低い声色だった。
「おまえは不安定だからなあ」
「昨日、雨で滑ってたあんたに言われたくない」
「滑っただけだ」
 あたしもよろけただけだもの――、と娘は言う。少年は笑う。
「そうだそうだ、昨日だ昨日」
「何よ」
「昨日あったろう、ほら、宿題。あのプリント。で、滑ったときに鞄落としたろう」
「それが何だってば」
 娘は分からない様子で苛ついていたが、少年に気にした様子はない。
「あれで適当にしまっておいたプリントがぐちゃぐちゃになったからさ、おまえのを見せてくれよ」
「ええ……」
 嫌よ、と今にも言いそうな顔つきだったが、言わなかった。
「今日帰り寄っていくから」
「ううん、今日新しいプリントを先生にもらえば良かったのに」
「いや、でもさ」
 娘が乗り込んだ駅から三つ過ぎた駅で、二人はその会話を続けたままわいわい降りていった。娘の脇の棒には、ビニール傘がぶら下がったままだ。私は慌ててお嬢さん、と追いかけようとしたが扉はしまってしまった。はっとした調子で娘も振り返ったが、もうどうしようもなかった。
 遠のいていく傘を持たない娘と少年二人を見つめて、私はそのビニール傘を手に取った。そして次の駅で降りて、駅員に前の駅の女学生のものです、と言って渡す。次の電車が来るまで、私はホームのベンチに腰を下ろすしかなかった。雨が止む気配は、まだない。

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