// 少女たちだった

 少女たちだった。
 細い体躯より伸びた白い腕足は、セーラー服に包み隠されていた。少女は小さな唇を白い手で隠しながら耳元に寄せ、甘い声密やかに囁いた。少女は黄色い声を上げ、少女の手を取った。少女たちの三つ編とスカートが揺れる。しかし少女たちは女だった。初恋を思わせる頬の色合いがあっても、交換された赤いスカーフがあっても。
 紅子さんと千代子さんは春の身体測定でぴったり同じ身長だったが、体重は紅子さんのほうが少し軽いのは二人だけの秘密だ。ただ力を抜いた時の手の高さが同じであれば良かった。帰り道くだらないことを語り合っているうち、近付きすぎて肩がぶつかり合い謝って少し離れ、どちらともなく手を繋げれば良かったのだ。千代子さんはそれを申し出るには未だ恥ずかしかったが、紅子さんは必要とあらば口に出した。
 二人の立ち位置も大抵決まっている。紅子さんが左で、千代子さんが右に立つ。すると帰り道、交差することなく別れることができるのだ。するとなんだか、名残をそこへきちんと置いていける気がする、といつか紅子さんが言っていた。千代子さんはその通りかもしれない、と頷いた。でも本当の理由はそんなことじゃないということは二人とも気付いていて、しかし口には出さなかった。指を絡ませ合う力が強くなるほど、千代子さんは何にも言えなくなってしまうのだ。
 紅子さんの左腕には、いつも新しい包帯が巻かれていた。その腕に何があるのか誰も知らない。教師も同級生も、千代子さんさえも。
 紅子さんは成績も悪くないし、後輩が憧れるような容姿だったのだけど、そのせいで自傷癖があるとずっと噂されていた。同級生たちもそれとなく疎遠になり、だから千代子さんと仲良くなったのはほとんど偶然だ。二人が日直になり、放課後日誌を書きながら話したのが始まりだ。
「女は生まれついて女であり、また死ぬまで女なのです、少女とは相対的なものでしか有りはしないのです」
 紅子さんは演劇部のようになめらかに読むので、千代子さんは驚いた。しかしすぐに、自分の日誌の文章が読まれたということを恥じらい、頬から耳を赤く染めた。たとえ教師の言葉を写しただけにせよ、どうしてこうも恥ずかしいものなのか、千代子さんには分からなかった。紅子さんが、あんまり上手に読んだせいかもしれない。
「これは自習の時、先生がおっしゃっていた言葉だったかしら」
「ええ、そうよ、紅子さん、よく覚えてらしたわね」
「自分だけしか、聞いていないとでも思ってらした」
 そんな、紅子さん、とまた否定をしようとして、顔を上げた千代子さんの声は止まった。二人の視線は絡み合ったが、また手の温度も絡み合っていた。紅子さんが、千代子さんのペンを握る手と重ねたのだ。
「紅子、さん」
「今日」
 ああ、と千代子さんはここから逃げ去りたい思いでいっぱいの胸を抑えながら、紅子さんの瞳をよく見ていた。明るすぎるほど茶色い瞳は大きく、全てを写すようだった。長い黒髪は、風が吹けば千代子さんを取り巻いてしまいそうだった。
「一緒に帰りませんこと」
 有無を言わさぬその言葉に、千代子さんは眩暈がした。
 それがたった数ヶ月前のことであるのに、二人は妙に長い間運命的であったような気がしたのだ。
「懐かしいわ、千代子さん、よく覚えてること」
「紅子さんのことだもの」
 二人はいつものように帰り道、手を繋いで歩いていた。もう時期は夏を迎え、セーラー服は薄い生地の半袖になっていた。すると紅子さんの左腕の包帯はより目立ち、紅子さんはなんでもない顔つきだったが、千代子さんはなんとなくやるせなくなる。通りすがりの見知らぬ男性などの遠慮ない視線に、なぜか千代子さんが思わず身を震わせると紅子さんは繋いでいた手を引っ張った。
「怯えることはないわ、千代子さん。いつだって、私たち少女は正義なのだから」
 千代子さんの力が自然と抜ける。私たち少女は正義、とは紅子さんの口癖で、以前語った紅子さんの少女論だった。
 女子校は少女たちの集まりで、勿論その中にもグループができるでしょう。けれど少女たちは少女たちである以前に、女だわ。良き隣人をナイフでためらいなく刺せるような、女。つまりここは少女たちと私だけしかいないの。悪意ある隣人の少女たち、良き隣人の私。そして貴女からすれば、悪意ある隣人の私たちと、良き隣人の貴方。けれど周囲からすればたとえどんな条件でも多数派が勝ち、正義になりうる。この構図はここにいる限り、逃れることはできない。中心にいてもなお非難も賛辞も浴びやすいばかりだ。でも、一度だけ、一度でいいわ。私はそこから逃げ出してみたい。ここに居続けながら、逃れてみたい。
 そう言って、紅子さんは千代子さんの手を取った。
 逃れる方法はただひとつ。二人でひとつになること、それだけ。少女たちと私たちになるの、あるいは、私たちが少女たちに。それだけ。
 紅子さんは、千代子さんの頬と自分の頬を重ねた。接吻めいたそれは千代子さんが死んでしまいそうなほど、心臓を大きく高鳴らせた。
「ねえ千代子さん」
 千代子さんははっとして、紅子さんを見た。千代子さんは時折、フラッシュバックのように紅子さんとのことを思い出していた。隣に本物の紅子さんが気にならないほどに。
「何かしら紅子さん」
「今日、貴方の家に泊まってもよろしいかしら」
「ええ、ええ。先日お約束したもの」
 本当は随分前から泊まりに来る予定があったのだけど、千代子さんの両親がいない日になるまで待っていたのだ。泊まるなら親の目がない方がいいだろう、という二人の意思からだ。
「それじゃあ、一度着替えと荷物を取りに行くから、また後で」
 さよなら千代子さん、と紅子さんと別れる。普段なら千代子さんもそのまま帰るのだけど、今日は振り返り紅子さんの背中を見た。そこからゆっくりと視線を移し、左腕の包帯へ。今日ようやく、紅子さんの包帯の中身が知れるのだ。そうしてようやく、すべてが終わる。千代子さんは興奮を抑えながら踵を返し、家路を急いだ。
 お泊まり、と言っても普通の少女たちが何をするか分からない二人は、食事を作り、読書をし、音楽を聞き、語り合った。手探りながら誰一人と邪魔をしない空間に酔い痴れていた。そして夜は更け、二人は風呂に入った。勿論一人ずつで千代子さんが先だったのだけど、最初冗談めいた口調で紅子さんが一緒に入ろうかと誘ったものだ。
「千代子さん、新しい包帯を巻いて下さる」
「ええ、勿論」
 風呂上がり、それとなしに紅子さんが包帯を外していた。しかしもう就寝前だったので、電気を消していて枕元の灯りしかついていなかった。何かあったとしても、分かるまい。
「紅子さん、私はとても不器用ですの。良かったら、灯りをつけてはくれないかしら。勿論、その腕の何かが見えるのが嫌でしたら良いのだけど」
 段々と五月蝿くなってゆく鼓動を抑えながら先程の返答と変わらぬ、普段通りを千代子さんは演じたつもりだった。紅子さんもいつものように微笑んだのだが、灯りが下からその表情を照らしていると、さながら幽霊の様で千代子さんの背筋をぞっと撫でていった。
「大丈夫よ、貴女になら、貴女にだけ」
 千代子さんに語りかけているようでもあったし、一人ごちた言葉のようでもあった。千代子さんはなんだか声をかけるのが躊躇われ、ぶつぶつと独り言葉を繰り返す紅子さんの肩にそっと触れた。するとようやく、千代子さんと視線が合った。
「何でもないし、何にもないもの」
 紅子さんは灯りの首元を持ち、ぐっと左腕に近づけた。千代子さんは息を呑む。
「何も」
「そう、だから言ったでしょう、何もない、って」
 紅子さんの左腕は真っ白で、傷一つありはしなかった。右腕と比べて、包帯を巻き続けていたせいで肌の色がほんの少し違うとようやく分かる程度か。
「安心なすった、千代子さん」
「そんな、一体どうして」
 紅子さんはやはり微笑む。
「ねえ、貴女はこれを見てどう思ったの。いいえ、聞かなくったって分かるわ。きっと心より安心したことでしょう。私が自傷癖のある人間じゃないということ。良かったわね、千代子さん。自分が、一番かわいそうで有り続けて、ね。貴女はそういう人だものね。一人であり続ける可哀相な自分が一番大好きな貴女。私が寄り添う間もずっとそのまま。でも意味なんてない」
 紅子さんは、真っ白な左腕から伸びる左手の人差指で、千代子さんの腕を指差した。
「貴女がその左腕の傷を晒し続けても、誰も貴女に触れやしない。触れる価値すらないんだもの」
 千代子さんは茫然と、紅子さんの瞳は見ない。見つめるのは、紅子さんの白い左腕だけだ。紅子さんは一層微笑んで、その左手で千代子さんの頬を撫で、口付けた。今度は間違いなく、唇と唇で。
「そんな千代子さんが好きよ、愛してる」
 今までで何より甘ったるい声色で、紅子さんは口付けを繰り返した。しかし千代子さんの耳にはそんな甘い言葉は届いていない。頭いっぱいにあるのはただ、紅子さんもまた、少女たちだったということばかりで。

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