// あれは恋文のような

 はじめは、指の絵だった。親指だったと思う。すこし変わった形の爪だったから、すぐに自分のものだと分かった。たぶん、シャープペンを握っているとき。ちゃんとささくれとかも描かれていて、やだなって思う反面、これを描いて封筒にとじ、わたしのロッカーに放り込んだ人の目には、わたしの親指はこういうふうに見えるんだな、と思った。中学二年の夏休みが終わった直後、荷物を入れようと、ロッカーを開けた時だった。もう二通ほど、入っていた。
 手、足、腕、誰かはゆっくりとわたしを描く。ほくろの位置も間違いなく、ちゃんと処理してない産毛さえも細かく。それは届き続けたし、絵はどんどん上手くなっていった。わたしは新しい絵が届くたび、届いた絵すべてを身体の位置に並べてみた。向きや大きさはばらばらだから、いびつなわたししか出来あがらなかった。それでも、ひとつひとつは美しいから、ときおり絵の中の自分が羨ましかった。
 わたしはずっと"誰か"と呼んでいたが、誰がこの絵を描いてロッカーにいれてるかはすぐに分かっていた。夏休み中にも学校に来て、それでいて絵が上手いのは美術部しかいない。美術部前の、部員全員の絵が飾られたところで、わたしは見覚えのあるタッチを探した。それはすぐに見つかって、同じクラスの平江くんだった。がりがりひょろひょろの男子だ。わたしも大概友達が少なくて目立つことも喋ることもあまりないのだけど、平江くんはそれをさらに下回る、物静かな人だった。平江くんは絵が上手かったけれど、部長や他の数人よりは上手くなかった。平江くんか、そうか、でもまだ中学生だしな、と思ってわたしは踵を返した。
 それから何があったというわけでもなく、気が付いたら受験期で、わたしと平江くんは一言さえも喋ることなく別れてしまった。卒業式、唯一視線が交わったぐらいだろうか。たぶん平江くんがわたしのことをじっと見ていて、それに気付いたわたしが振り返ったのだ。それから、五秒くらいか、目が合い続けた。話しかけるだろうか、最後だから、すこしぐらいは、とも思ったけれど、わたしも平江くんもそれぞれ友人と後輩に声をかけられて、どちらともなく視線は途切れた。それでも視界の端で一応とらえ続けていたら、平江くんはそれなりに可愛い後輩に第二ボタンなんかあげちゃって、ああ、ちゃらいなって思って、それきりだ。わたしは高校で平然と彼氏を作ったし、そもそも中学の友達と会わなかった。でもあんまり興味ないのに、美術はいつもどことなくまとわりついてきて、友人が美術展に入賞したから一緒に見に行かない、なんて誘ってきたりした。でも家の近所だし暇だったから見に行ったのだ。それで、そこで平江くんが入賞しているのを、わたしは見つけてしまう。最優秀、とかではなくて、佳作とかそんなところだ。まさか、と思ったが、絵はもちろんわたしじゃなくて、かといって別の女の子だったり、あまつさえ男だったりもしなくて、意味が分からない抽象画だった。なんじゃこりゃあ、方向性変わったなあ、とぼんやり見ていると、何、どうしたのじっと見て、と友人が声をかけてきた。
 知り合いなの。中学の同級生なの。ふうん、高校で抽象画やるってのも珍しいね、入賞するのも珍しいけど。中学は、こんなの描いてなかったんだけどね。へえ、じゃあ何描いてたの。………………さあ、あんまり仲が良くなかったから、知らない、なんて、素知らぬふりをしちゃって。その後すぐに、彼氏とくだらない喧嘩をして、別れちゃって。
 高校はそれきり。大学なんてもう、東京へ出てしまったから地元の子とすら会わなかった。でも美術はしつこい。遊びしかしないサークルの先輩が、とあるバイトに誘ってきた。いわゆるモデルのバイトで、ほら、片桐さんいつもぼやっとしてるからこういうの向いてるかと思って、でも時給いいからさあ、なんて言ってきた。大体合ってるので怒ることもせずそうですね、そうですね、と言い続けていたら、なんとなくそのバイトをやることになった。そもそもなんで先輩がそんなバイトのつてがあるかと聞いてみれば、昔美術の大学に受けたけどもう二回落ちたから諦めたのだという。そういえば、この人は二浪万歳、みたいなことを飲み会のたびに言っていた。でも先輩、二年間遊んでたって言ったじゃないですか、と言うと、嘘に決まってんじゃん、かっこわるいし、と返される。美術なんてさ、最悪先生も誰もいなくても筆と紙さえあればどうにかなるよ、でもあたしはそれがないので頑張り続けるのがこわいから、こっちの大学に来ちゃってやめちゃったの、それ超かっこわるいでしょ、恥ずかしいでしょ。先輩は笑う。先輩は本気だったんだな、と思って、そのときなぜだか久しぶりに平江くんを思い出す。頭の中の平江くんは、まだ中学生で、がりがりひょろひょろだ。
 バイトは毎週土曜日の午後から、公民館で行われる絵画教室、なんていう、暇な主婦や老人が集まるようなぬるいものだった。服は着たままで、椅子に座ったり寝転んだりして、同じポーズを十五分、休憩挟んで、また十五分。それを繰り返して二時間続く。そんな感じだった。おじいさんもおばさんも若い人も、わたしを見ては描き見ては描き、わたしは止まっているだけで良かった。これはすごいことだな、と思った。わたしが止まっているだけで、誰かが生産的な活動をしているのだ、とても、不思議だった。それでお金もそれなりにもらえて、わあ、世界って、すげえ、と思った。その頃平日やっていた飲食店のバイトを、すぐにやめるぐらいには。
 それにこなれて来た頃になると、先輩がもうそろそろ脱ぐか、なんてグラビアアイドルのマネージャーみたいなことを言い出す。でもまあ、公民館ですらたまに全裸の人を見るようになったりしたから、わたしはそれに頷く。みんな絵を描くことに必死で、別に恥ずかしがる意味もないな、とわたしは妙に冷静に脱いでしまう。気がつくとわたしは、大学はそこそこにモデルのバイトばかりするようになっていた。もう先輩のつてもなくても、わたし個人に仕事の依頼が来るぐらいに。でも専門的なほうへいけばいくほど、時間は長くなるし絵画教室とかより熱気がすごくて、わたしは申し訳なくなったりした。でもなんとか応えようとして頑張って、仕事が増えて、大学を卒業してもそれを正式に仕事にした。先輩も大学を卒業したら、また美術の大学を受け直して合格して、さらに仕事を回してくれるようになった。世界ってほんと、回るのうまいな、と思う。
「それで」
「はい」
「次の仕事だけど」
「いつですか」
「今月末」
「大丈夫です」
「うん、で、先輩の先輩なんだけど、画家やっててね。それでお願いしたいそうで」
 あ、と思う。世界がうまく回ることを知ったから、わたしは気付く。
「平江、ですか」
「えっ」
「名前」
「そう、だけど、知り合いだった? それとも仕事二度目とか?」
「いえ」
 いいえ、と繰り返し否定して、いいえが二回だから、はい。わたしは英語が得意だ。
 平江くんはあの頃よりさらに身長が伸びていた。部屋は狭い洋室で、なんていうか、画家っぽいなあ、と思った。わたしと平江くんは、相変わらず言葉を交わさない。眼を合わせるだけだ。椅子に座り、彼と目を合わせる。平江くんは筆を握って、わたしを見た。五秒、過ぎても、わたしを見ていた。わたしは、涙がこぼれないよう、モデルあるまじきことに、目を瞑った。これで彼の後ろにある、彼がわたしと会わない間描き続けたたくさんのわたしも、もう見えないのだった。

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