// 灰色が消え失せて

 ぼくの恋人はかわいそうに罪を抱えているらしかった。それは初対面から常々言われていたことだったが、詳しい話を聞かされたことはない。まだ早い、と彼女は呪文めいた口調で言う。それは母国語でない言葉を話しているせいか、彼女の闇に溶けるような姿が魔術的だからか。いずれにしろぼくは、彼女がそうしたときにも煙草を手離さないところが好きだった。彼女は強がりながら、指をくわえて自分を安心させている。かわいそうに、愛おしかった。
 知り合ったのは彼女が十八のとき、日本にやってきてすぐだった。ぼくは公園でひとりぽつんと座って煙草を吸っていると、物騒なことに彼女はどこからかやわらかく駆けてきて、ナイフを取り出した。今以上につたない言葉で、出せ、と言う。たばこ、すべて。彼女はそれしか言わない。――正直言うと、ぼくはこのときから既に様々なことを理解していた。運命的なことが得意なのだ、ぼくという人間は。――ナイフを持った手を掴んで、ナイフを無理やりしまわせて、それから一緒にコンビニへ行った。それでぼくが持つだけの金で、ありったけの煙草を買って、四十独身男性の財力をなめるなよ、と煙草をすべて押し付けながら言った。彼女はぽかんとしていた。それから、訛りが強い英語でぼくを捲し立てた。ぼくは遠い昔学んだことを何とか思い出して、自宅へ連れ帰った。そして、食事を与え服を与え煙草を与え、彼女はぼくに懐くようになった。本当は襲われることぐらいは覚悟していたと、いつか彼女は言っていた。そんなことできるか、ばか、とぼくが言うと彼女は高い声で笑った。そして、ごめんなさい、ごめんなさいねと煙草を片手にしながらぼくの腕に絡みついた。謝るとき、彼女は性質が悪すぎる。ぼくが一度好きだと言った古い映画の女優を真似て、妙に丁寧に上手に発音して、謝ってくる。他はいつまでも片言なのに。ずるいな、とぼくが言うと彼女は笑って、また謝るのだ。ごめんなさいね、と。甘い、灰色の息。
 寒い冬の日だった。彼女が日本に来てぼくと暮らすようになって二年、そして彼女が生まれて二十年経ったその日、決心していたらしく、二人でワインを飲んでいる途中、煙草を一本吸い終わると話し始めた。日本語だと上手く喋れないから、英語でいい、と上目づかいに聞いた後。
 罪とは、元々母親のものだったのだ。夫というものがありながら一晩の過ちを犯し、相手はすぐに行方を眩ませたが腹の中にだけは痕跡をしっかり残してしまって――それがすなわち彼女だった。白い肌が自慢であった母親からは、同じく病的な白い肌であった夫からとは生まれるはずのない、黒い肌の娘が生まれてしまったのだ。すぐに母親は村の裁判のようなものにかけられて、処された。冗談でなく、呪いをかけられたのだという。たしかあなたは、大学でそういう民族的なことを学んでいたと言うけど、これは信じられないでしょう、と彼女は灰色の息を吐きながら言った。村はずうっと昔からそういうことをほそぼそと続けてきたそうだ。しかし神様を祭るようなことのほうが大事で、こうした罰することに使うのは百年に一度あるかないかのようなことだったらしい。そもそもが平和な村だったから、と。そしてその、母娘共々にかけられた呪いはこうだ。
 嘘をつくたび、息が灰色に濁る。
 もう二度と嘘をつかせない、ついたら皆に分かるようにする。そういうことだった。呪いをかける儀式が終わって、それを告げられたとき母親は笑って叫んだ。そんなこと、できるわけないでしょう! と。そのとき、母親の細身の身体が見えなくなるほどの灰色が周囲に満ちたという。これはいじめっ子が言っていたことだから、正しいか分からないけど、と彼女はおそるおそる付け足した。しかしその後すぐ、母親が自殺したのは本当らしかった。ぼくは頷いた。だから、君は煙草が手離せなかったわけだ、と。彼女は首を傾げて、ううん、と唸る。
 ――それはそうなんだけど、すこし事情が違うの。赤ん坊のころにそんな呪いをかけられたんだから、素直な子に育てればいいだけでしょう、お父さんはとても優しい人だったから、私が自分の子じゃないのにね、たしかにそういう風に育ててくれたの。でも、でもね、呪いはやっぱりそんな簡単じゃなかった。嘘はすべてだめだったの。たとえそれが、上手く生きていくための嘘だとしても、息は灰色に濁るの――。
 なるほど、とぼくは納得した。たとえば、隣のおばさんの洋服の趣味が悪くても、気を悪くさせないために綺麗ですね、と褒める。だが灰色が満ちる。どうあっても、上手く生きれないのだ。それは正しい罰だし、罪の証しだ。しかしあんまりに、つらすぎる。だからそれをどうにかごまかすため、すこし大人になってすぐ煙草を吸い始めた。父親は許さざるを得なかった。彼女は言う。私、本当はね、煙草そんなに好きじゃない。今はただ慣れただけ。だから日本の冬は少し安心する。少しだけ、吸わなくても良くなるから。それでもあの狭いコミュニティで上手く生きられるはずもなく、彼女はひっそり売春じみたことをして金を貯めて、日本にやってきたという。元々母親は村の外の人で、祖母か祖父が日本人だったと聞いたから、という。どこでも良かったが、行き場をそこしか思いつけなかったのだ。
 それにしたって馬鹿みたいでしょう、母親の呪いから逃げるため、母親と同じことしてるの、私。それでも逃げ出したかったの。だって、自分が嘘をついていないと信じているときでさえ、灰色が目の前に現れるの。それが、本当に、なにより恐ろしかったの……。
 泣くかと思ったが、泣かなかった。涙をむちゃくちゃに我慢しているせいで酷い顔をしていたが、煙草を手離せない彼女を見て、ぼくが少し泣いてしまった。ぼくが泣いたのを見て、煙草が切れた、と言う。沢山買い込んだ煙草がクローゼットにあるのに、彼女はわざわざ買いに行く、と言う。ぼくは泣きながらコートを羽織って付いていく。彼女はしばらく黙っていた。コンビニまでは、随分距離がある。半分ぐらい行ったところで、まだ泣きやまないぼくに振り向いて声をかけた。
 ねえ、やめてよ、泣きやんで、みっともないわ、あなた。とてもみっともない。私、やっぱりあなたと別れようかしら。私、あなたのそういうところ嫌い。私のためを思う優しい自分に泣いてるの、ねえ、気持ち悪い、気持ち悪いわ。やっぱり、二年前に会ったのはきっと失敗だった。
 彼女は煙草を吸っていない。外はとても寒い。だから、息は白く、そして時折灰色だった。彼女は嘘つきだった。
 私、馬鹿だった。日本に来て初めて見た、同じ黒い肌になぜだかすごく感動してしまったの。そんな人沢山いるのに、あのときはまだ何も知らなかったから、私とあなただけとすら思ったのね。でも、関わらなければよかった。そうしたほうがきっと楽だった。でも煙草を吸い続けて生きれば良いだけだったもの。でも今はたくさん、余計なことを考える、あなたのこと、あなたのことばかり。私がもし普通の女の子だったら、良かったのに。
 彼女は泣きながら灰色の息を吐くから、ぼくはとても自然にその口を口で塞いだ。吸い込むように、その灰色の息を肺に循環させて、ぼくは生きる。ヤニとワインが入り混じった嘘つきの息はめぐるましく廻る。ぼくは口を離す。初めてのキスね、と彼女はびっくりして、まだ、しかし新しく泣いていた。こんなおじさんで申し訳ないけど、結婚しよう、とぼくは構わずに言う。好きだ、もし君が灰色のため息を吐いていたらそれを口でふさいですべて吸い込んでやる。ぼくの身体にめぐらしてやる。それでぼくが嘘つきになる。君はなにも嘘をつかない。だって君は嘘つきじゃないから。息よりなによりワインが身体をめぐっていて、耳と顔と頭が熱かった。酒は、強くないのだ。そこへ彼女がぼくの胸に飛び込んできて、ぼくの身体は道路に倒れこむ。コンクリートはひんやりと、気持ちよかった。
 ――ありがとう、ありがとう、あなた。恋人なのに、今さらだけど、ずっと好きだった。でも私は娘で、貴方が父親でしかないと思った。年が離れているから? 同じ肌の色だから? わからない。これはもうずっと越えられないと思ってた。でも良かった。今きっと越えられた。夜が嫌いだった。黒い肌のあなたの顔がよく見えないから。きっとあなたも、黒い肌のわたしの顔がよく見えないから。でも不思議。越えたと思ったら、すべてがはっきり見える! すごい、こんなに世界って、恋人っていうものは、はっきりと色濃いものだったのね!
 彼女は興奮した調子で言い続け、ぼくの首に巻きついていた。彼女は気付いているだろうか、とぼくは冷静に考えている。君の息は、もはやただ白いだけだ、と。でもぼくは何も言わないで微笑む。彼女の黒い肌をはっきりと色濃く、瞼に焼き付ける、のだ。

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