// ばかじゃない

「君はいつも化粧をしているけれど、口紅だけは塗らないね」
 と、彼は言った。
「苦手なの、肌が弱かったりするわけではないのだけど」
 そう思わず嘘をついたが、気付かれていないと思っていたので少し驚いた。それと同時に、自分がどうして嫌いになったのかもふと思い出してしまったのだ。
 父はいなかった。母が水商売を営んで私と妹を養っていた。夜にいそいそ出かける母の頬や唇は妙に赤い。こちらのほうがお客さん受けがいいの。そう言い訳じみたことを聞いたのはいつのことだったか、もう覚えていない。グラスに口紅の痕が付くのが良いんですって、馬鹿みたいよね、汚いだけなのに、それでこっちはわざわざ取れやすい口紅塗ってやってるのに気付いてないのよ……。家で酒を沢山飲んで目元すら赤らみ潤んだぐらいになると、彼女はよく客を馬鹿にした。自分が与える側だと思っていて、そう思っていないと続けられなかったのだと思う。逆なのだ。客に与えられるため、母はそうせざるを得ないのだ。母は笑う。馬鹿は嫌いよ。母は笑う。酌をする私は笑わない。馬鹿が嫌いだから。
 私と妹は不良でなかったが真面目でもなかった。けれど周囲からは真面目だと思われがちだったのは、母があんまりに派手だから反面教師にしたのだと思われたのと、目立たぬようにしていたせいだと思う。とにかく流れに逆らうことさえしなければ大抵の人間が真面目と捉えてくれるのだ。中学まで同じだった妹とは高校で別れた。私は近くの市立高校へ、妹は少し遠くて少し頭の良い私立高校へ行った。妹のスカートの長さは学校へ行くたび短くなっていったし、帰ってくる時間も遅くなっていった。話す機会も元々多くなかったのに、もはやなくなりかけていた。遅く帰るのに罪悪感を持っていた頃はまだ顔を合わせると言い訳をした。いつかは家が嫌なの、と言っていたと思う。ほら、お母さんが夏だっていうのに生ごみを溜めるから虫が湧くでしょう、それで家に小さな虫がぶんぶん飛ぶから嫌なの、気持ち悪いから、死ぬほど嫌いなの、この時期近くの道も沢山飛んでるし……。他の日は近くで強姦事件が起きて私と二人だけの家は心もとないと言って朝帰ってきたし、時折バイクのうるさい音も構わず家の前につけた。どうであれ私は何も言わないし、母も笑うだけだった。
 ある日妹が珍しく先に帰っていたことがある。そして母の鏡台の前に座っていた。私はなんだか声がかけづらくて、襖を少し開けたまま妹を覗くことにした。妹はしばらくじいっとしていたのだけどおもむろに赤い口紅を手に取り自分の小さな唇に塗り付けた。真剣な眼差しで、口紅が折れそうなほどに強く。遠目でさえ、似合わないのが分かった。思わず眉間にしわを寄せたところ、鏡越しに目が合う。なにか悪いかしら、とでも言いそうな不遜な顔で彼女は言った。彼氏ができたの、とだけ。そう、と私は返すだけ、襖を閉めた。妹は少し頭が良いけれど物を知らない。口紅の色は虫の死骸からできているのだ。彼女は外へ出たせいで死ぬほど嫌いだという虫を唇に塗りつけている。馬鹿だった。
 結局彼が口紅のことを気にしていたのは、随分前からのようだった。口紅が女らしくて好きなのだそうだ。あんまりにもあっけらかんと言うものだから私も変に考えすぎるのが馬鹿らしくなって、次の日すぐに街へ口紅を買いに行った。にこにこ微笑み続ける店員に薦められるがまま一番新しかったオレンジの口紅とグロスを購入して、その場で塗ってもらった。帰り道には恋人を見た。赤い口紅がよく似合う、知らない女の人と腕を組んで歩いていた。彼に姉妹はいないし、あれほど仲の良い女友達も知らなかった。だから私はコンビニのトイレに駆け込み、肩で息をしながら唇を拭おうとして、やめた。鏡に小さな虫が唇の上でもがいていたのを見つけたからだ。いつの間についたのだろう。私は荒かった息を落ち着かせて、ゆっくり、薬指でそれを潰した。唇の上で小さな音を立てて、虫は死んだ。指を右へ引く。左へ引く。虫の透明な液が口の中に染み込んで苦かった。だから私はほっとした。私は自分の身の丈に合っているものを知っている。私にはこれぐらいがよく似合っているのだ。何もしないわけでも、口紅を塗るわけでもない。私はちゃんと分かっている。
 私は馬鹿なんかじゃないのだ!

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