// 拝啓から終わる

 拝啓、から始まる恋もあるのだ、と私は頭がおかしくなりそうなぐらい知らしめられた。
 幼馴染である彼は、元々大人しい男の子だった。喧嘩が嫌いだった、サッカーするぐらいなら本を読んでいた、外より家が好きだった、厚みのある重そうなレンズを銀色の細いフレームで支えた眼鏡はもう小学生のうちにかけていた。そういう典型的な静かな子。そんなだったからうるさい男子に茶化されたし、うるさい女子にも馬鹿にされた。けれど怒る様子もないし怯える様子もないし、彼はささやかに笑っているばかりだった。私が頼まれてもいないのに庇った時もやっぱり同じ表情で「ありがとう」と思ってもいないことを口にするのだ。でも私はそれで彼に目をつける女子がいないという証拠ってことで充分満足したりしたのだ。
 中学に上がって、なおも大人しくあり続けた彼はむしろ促進を続けていた。
「文通を始めようと思うんだ」
「なんでまた」
「僕は作家を目指しているだろう。だから文章を書く練習だとか、習慣をつけられるかなと思って」
 ふうん、と私は興味なさげに視線も合わせずポッキーを食べ続けていたのだけど、実際頭の中はだろう、って言い方中学生らしくなくて大人っぽいな、とか、作家を目指してるって恥ずかしげもなく言えて格好いいな、とか、それでちゃんと努力してるんだすごいな、とか思っていた。私はどっぷり彼が好きで、でも恥ずかしいから態度は裏目に出る一方で、でも彼もわかってるでしょ、と過信していたりもした。
 数日後彼は雑誌の文通相手募集に送って、その数ヵ月後雑誌にそれがしっかりと載って、彼の中学生とは思えない言葉の選び方だとかに魅せられた人たちがそのまた数日後返事を返して、そしてまたまた数日後彼は顔も知らない十人と手紙を交わすようになったのだった。
「どうです、文通の調子は」
「面白いよ。人によって文体変えたりして遊んでるし、そんなことしなくても話題が全然違うから。でももう何人か届かなくなったりしてるけどね」
「なんでまた」
「雑誌で適当に呼びかけただけだもの。気が合う合わないもあるだろうし、いたずらってこともあるし」
 そういうものなの、そういうものだよ、と私たち。
「そうそう、そういえばね、一人面白い子がいた」
「どんな子?」
「君と同じ名前なんだ、ゆかり。ちゃんと平仮名で書く、一緒の出さ。大人しそうな子だけど、これからかなあ」
 これからってなんだよう、とか言いながら。私は満足していたりした。彼が私の名前をつづっていること、そうして私ではないのだけど私の頭の中では私と彼が文通をしていて、それはなんだかひどくいい感じだったのだ。もしかしたら恋愛相談とかしてたりして、君と同じ名前の子が好きなんだ、なんて。とまあ、都合のいいほうへいいほうへと思考が転ぶこと。思春期だからだったろうか。思春期だったからだ。
 それからずうーっと彼は文通をし続けていた。晴れの日も風の日も雨の日も。五人ぐらいとは本当にずーっと続いているようだった。中学卒業するぐらいには作家の夢だとかとうに諦めていたのだけど、もう生活の一部、それこそ習慣になっていたのでやめられなかったらしい。文通が落ち着いたのは、おじさんおばさんが大学受験期で勝手に焦り始めたころ。彼の唯一の趣味は金がかかるわけでも、さして時間を取られるわけでもなし、そしてなにより成績が良いまんまなののだから、止めなくてもいいのに、と少し思ったけれど私が口出しすることでもなかった。彼にも変わった様子はなんらなかったし。
「ゆかり」
「なに?」
「話があるんだけど」
 そして今日。彼の大学受験前日。彼から話しかけてくるのは珍しいことじゃなかったけれど、いつもより緊張した面持ちだったのでこちらもどきっとした。
 ここ最近ずっと言われていたのだ。友人たちにお前たちはいつくっつくんだだとか、大学合格したら告白されるんじゃないだとか。私もそれを言われるうちにその気になっていたところ、だったのだ。
「今さらなんだけど」
「うん」
「好きな人ができた」
「うん」
 そらきた、という言葉を、唾で流し込む。
「名前は?」
「言わせるの? ……いや、言わないとだめだよな。もう分かっていると思うけど……ゆかり、だよ」
 嬉しい、私も。ずうっと考えていたそんな言葉を言おうとした瞬間、照れた顔をして彼は言う。
「君と同じ名前の、ゆかり、なんだ」
「……え?」
 何を言ってるのかわからない。でも彼は気付かない。
「明日手術らしくてさ、結構大きい奴。それで今夜中にここを発てば、僕もその手術に間に合うんだ。受験はまだ機会があるけど、これは一回だけだから――」
「……そ、それで」
「俺、それにいこうと思う。だからこの母さんと父さんに宛てた手紙、渡してもらえないかな。それだけでいいんだ」
 そうして押し付けられた封筒。彼の俺、なんてのは、初めて聞いた。いや、そんなことより。
 私はどうするべきなんだ。破る? 捨てる? 返す? 止める? 泣く? 選択肢はいくらでもあるのだけど、でもそうしたところで私に何が返ってくる? 何も返ってこないどころか、ただ今まで培ったいろんなものが失われるだけ、なんてのはまったく有り得ることなのだ。私、涙をごくごくと飲みほして、言葉にする。
「わかった、渡しておくね。……ゆかり、励ましてあげなよ!」
「ありがとう。じゃあもう、電車に間に合わなくなるから」
 余韻はなかった。その言葉を言い切る前にもう走り出していて、遠のく背中を私は目に焼き付けていた。ばかばかばかばかばか、と誰に当たるわけでもない言葉を胸中に吐いて、改めて彼の両親に渡さねばならない――いやポストに入れておけばいいかな――封筒を見た。すると指先にずれる違和感があって、それにしたがってすべらせるとノートの切れ端を破ったような紙切れが重ねられていたことに気づく。
「ゆかりへ。ありがとう、ごめん」
 それだけの、走り書きのメモだった。でも私はそれがなにより悲しくて、思わず泣いてしまった。どうしてゆかりという字が、こんなに書き慣れてしまっているのだろう。どうしてまた明日、と書いてくれなかったのだろう。でもまた会うとしても、もう数時間前の気持ちとはまったく違って、きっとまた明日なんてこと言えない。私はまた泣きながら、心の中で一人叫ぶしかなかったのだ。さようなら、さようなら、さようなら! と。たった、それだけ。

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