// さよならの仕方

 私はここしばらく、クラスメイトの柏木くんが気になっていた。
 柏木くんは、別段目を引くような人じゃない。普通の顔立ちでノンフレームの眼鏡をかけている他特徴はなく、ただ少し暗めというぐらいだ。身長もそれほど高くないし、成績だって私よりすこし頭がいいぐらいの並々だ。たぶん彼がボールペンを持っていなければ、私は一切彼を気にしないまま卒業を迎えただろう。
 彼の唯一といっていいほど特筆できる点は、いつも二色ボールペンを手にしていたことだった。授業中はもちろん、体育の時間、友人との雑談中、登下校中でさえも。決してボールペンとしてまともに使っている様子はなく、いつも同じテンポの慣れた仕草でスプリングを跳ねさせていた。その音を気にして生活していると、すこし頭がおかしくなりそうなくらいに。神経質な誰かが注意しそうなものなのだけど、しかし私は一度として誰かがそれを非難したのを見たことがなかった。それも気になる所以だったけれど、私は流されやすい日本人である。今日もそんな彼を横目に、素知らぬふりをしておいた。
 結局恋愛感情がどうのとかまったく関係なくて、ただそういう変わったところが気になっていただけだった。まあ、世の中にはそういう人もいるのだろう、とつまらない結論に落ち着く。そうして柏木くんはただのクラスメイトから、変わったクラスメイトに成りかわっただけだった。
 しかしある初夏のこと、残念ながらその関係が悪い方向へ発展することになってしまった。それがまさに今日、四時限目の自習の時間だったりするのだけど。
 不幸にも母に模試の結果を怒られたり、遅刻したり、課題を忘れたりして、朝からいらつきが募っていたときだったのだ。――今思えばほとんど自業自得なのだけど、そのときそんなことを冷静に考えていられるほど、私は大人ではなかった――そして四時限目は課題を忘れた分の追加課題を時間中になんとか終わらせようとして、しかし嫌いな英語なせいでうまくいかなくて、さらにいらいらしていた。そうしてクラスメイトたちのざわめきの中聞こえるボールペンの音に、耐え切れなくなったのだ。廊下のロッカーにある和英辞書を取ってくるとき、席に戻ってくるまでに音が止んでいることを祈ったぐらいだ。しかし戻ってきても、いつも通りのテンポで鳴っていた。音が聞こえてすぐ、もうだめだ、と思ったのを覚えている。
 私はのしのし柏木くんに近づき、真面目に勉強しているらしく文房具が広がった彼の机の上にどん、と和英辞書を置いた。音が思った以上に響いたのでその瞬間、教室は水を打ったように静かになった。もう後に引けなかった。私は低い声で、短く言う。
「うるさい」
「……ごめん」
 世の中言ったもん勝ち、脅したもん勝ちだ、と思った。それにしても彼が予想外に驚いた顔をしていたので、それにつられて驚いてしまった。しかし少しだけ納得もした。そうか、彼にとって癖というよりも人生の一部で、そんな当然のことを怒られる筋合いはないから驚いているのか、と。その後言うこともなくなったので席に戻ると、教室の喧騒もゆっくり戻り始めた。ボールペンの音が決して止んだわけじゃない。しかし、なるべく音を減らそうという努力が見られたので、それ以上言及するのはやめた。何より八つ当たりをしてすっきりしたというよりも、冷静になり肝が冷えてきたほうが強かったせいもある。
 お昼になって教室も柏木くんも何事もなかったかのようにざわめいていたのでほっとしていると、友人が机と顔を近寄せてきた。
「あんた、よく柏木くんに文句言えたね」  尊敬するというより呆れたように、声をひそめて言ってきた。弁当袋のひもをほどきながら、ふんと顔をそむける。
「だってボールペンうるさかったし」
「……もしかして、あんた知らないの。柏木くんのボールペンのこと」
「百均で同じやつ売ってるの見たことあるけど」 「そうじゃなくてさ」
 わざとらしくため息をつかれた後、彼女はご飯をつつきながら彼のボールペンについて詳細を教えてくれた。話を聞くに、それはどうも亡くなったお姉さんの形見だそうだ。身体が弱い人で、ずっと入院生活を送っていたらしい。見目麗しい薄幸そうな人だったとか、家族が見舞いに行くのもためらうほど病気で醜かったとか、いろんな説があるという。いずれにしろ、柏木くんにその真実を聞けるようなつわものも仲のいい人もないので、真実は闇の中だそうだ。彼女は慣れた調子で語った後、私の反応を見てやれやれとぼやいた。どうも結構有名な話だったらしい。だから誰も注意しなかったのか、と今さら気づいた。
 しかし正直言えば、そんなことはどうでもよかった。そんな事情があるにしろ、もっとまともな物はなかったのかと疑問に思う。音が鳴らないものなら、可愛らしいアクセサリーでも口紅でも指輪でもなんでも良い、他人にも影響を及ぼすのは良くない、ともっともらしく語った。もう引き際が過ぎてしまったから、仕方なく続けているようにしか思えなかったけれど、我ながらそう思うのだから、周りはもっとそう感じているだろう。しかしそんな勢いまかせの私の質問にも、友人は肩をすくめて答えてくれた。
「さあね、ずっと入院生活だったっていうし、まともな所持品なんてないんじゃない?」
「でもぬいぐるみとかさー、女の子らしいお見舞いの品なんていろいろあるじゃん」
 そうねえ、と適当に相槌を打ってきた後、思い出したように箸を私の顔に向けた。
「ああ、そういうのもあったらしいけど、お姉さんの死を早く忘れたい一心でご両親が全部捨てたって聞いたね、たしか」
「えー、それどこからの話よー」
「お父様がゴミ収集所にお勤めの、隣のクラスの山野さん」
「……信用なるような、ならないような」
「まあまあ。そんな中、目を盗んでひとつだけ手に入れたのがボールペンってわけね。それ以来ずーっとカチカチやってるんだけどさ、事情が事情でしょ。誰も注意できなかったなかで」
 ちらりと意味ありげに友人は私を見た。事情はよーくわかったが、その視線はやめてほしい。なんだか悪いことをした気持ちになってしまう。私のしたことは悪いこととは多少違うものだと思うのだ。それをごまかすように、すこし毒の混じった本音を口に出してしまった。
「でもさ、それ家でもやってんのかな。姉さんの遺品をよくも全部捨てたな、ってメッセージみたいに。それでカチカチ鳴らし続けてるって、すっごいえげつないよね」
「あんたねえ、想像だけで人を責めるのやめなよね」
 嫌な癖よ、と本当に嫌そうに眉間にしわを寄せて言った。しかしそれなら想像だけで人を同情するのもやめるべきだ、と私は思ったが、それは言わないでおいた。彼女も特に思うところはなかったらしく、声を普通の音量に戻してそういえばさあ、と普通の会話に戻った。適当に相槌を打ちながら、友人の席から遠い斜め後ろの席にいる彼を見やる。左手でボールペンをかちかち鳴らしながら、右手で箸を持っていた。器用なものだと感心する。しかし左手は器を持つもんだ、と変なところで憤り、視線をそらした。
 放課後、なんとか友人にも手伝ってもらって完成した追加課題を先生に提出するため、職員室に向かった。怒られるだろうな、とげんなりしながら扉の前で立ち止まる。昔から先生と話すのは、どうも苦手なのだ。心を落ち着かせ、二度深呼吸をした後扉に手をかけた。が、力を入れる前に勝手に開く。内側の人だ。慌てて横に退くと、ぴたり、とその人は動きを止めた。変な行動でも取ってしまっただろうか。顔を見るのは怖いが、今の状態のままいるのはもっとつらい。決心して、恐る恐る顔をあげる。……その顔に、変な行動をした覚えがあった。忘れたいぐらいの。その人はもちろん、柏木くんだったわけだ。
 決して悪いことをしたわけじゃない、とは思う。しかしそれは本人と単体で会うのとはちょっと心持ちが違ってくる。数秒目が合ってしまったように思ったが、目をそらし、気のせいだということにした。彼の突っ立っている隙間から職員室に侵入する。今なら柏木くんより、苦手な先生のほうがよっぽど好きに思えた。さすがに職員室を出る頃には帰っているだろうし。先生のお説教を軽く聞き流しながら、そんなことを考えた。
「そしてあなたは何を待ってるの」
「羽鳥さん、きみだけど」
 結局、彼は帰っていなかったわけなのだけど。というか、鞄を持って職員室前で思いっきり待っているわけなのだけど。私のできる限りのため息をついて、彼をきっと睨んだ。
「なんで待ってるの」
「目が合ったから」
「目が合ったからって、クラスメイトの帰りを待つの」
「……今日のことがあったから、喧嘩売られたかと思った」
 そんなことをする女子がどこにいるんだ。そして、柏木くんはその喧嘩を買ったということなのか。悲しい事実をひたひた感じていると、彼が頭をかきながら申し出た。
「えーと、羽鳥さんの家、俺と同じ方向――郵便局のほうでしょ。だから郵便局まで、ボディーガードとでも思ってさ」
 あきらめろ、ということらしい。私は昔、男の子に帰りを誘われるのはもっと甘ったるいものだと思っていた。しかし、それはどうやら違うらしい。たぶん私の人格と行動のせいなのだろうけれど、その反省を踏まえ、自戒かつ何かの縁と考えて諦めることにした。私がしぶしぶ頷くと、柏木くんは口元だけ小さく笑った。
 帰り道、沈黙のまま足ばかりが進んだ。しかし肩を並べているあたり、柏木くんが一応私の歩調に合わせてくれているのだと思う。話すことはなかったが、仲も良くない男子と肩を並べて静かに帰っているなんてロマンチックでもないし、面白くとも何ともない。仕方なく、誰もが聞かなかったという話を突っ込んで聞くことにした。これ以上心象が悪くなることもあるまい。完璧に開き直りだ。
「ねえ、お姉さんの話は、どこまで本当なの」
 柏木くんはん、と小さく唸った後、そうだねえ、と想像以上に軽く答えた。
「君がどこまで知っているか知らないけど、たぶん大体本当。同学年の人たちには筒抜けだね」
 そんな筒抜けを知らなかった私はいったいなんなんだ。彼もそう思っていることだろう。改めて柏木くんに確認する。
「本当に、遺品なんだ」
「遺品だよ」
「知らなかった」
「ごめんとは言わないんだね」
 柏木くんは笑う。たしかに、今は謝るタイミングなのかもしれなかった。けれど彼にごめんという言葉は、ひどくそぐわないような気がした。どうせ挑発ついでだと思うので、私も挑発し返してみた。
「言ってほしいの」
 言ってほしいの、と柏木くんはなぜか私の言葉を繰り返した。二、三回繰り返した後、首を振る。
「いや、いらない。多分俺も言って欲しかったんだと思うんだ。君みたいに、うるせー、って」
「私そんな乱暴に言ってない。辞書は使ったけど」
「ああ、あれは辞書でぶん殴られるかと思って、ちょっとびびったよ。うん。でも気分はそんな感じ。乱暴に言ってもらえれば言ってもらえるほど、みんながどれだけいらついてたかわかる。それでみんなにどれだけ姉さんのことが刻みつけられたか、わかる。そう思ったんだ」
 と言って、彼は私が見たどの瞬間よりもさわやかに笑って見せた。……なんてえげつない人だ。本当に、誰よりもえげつない人だ。繰り返しそう思った。彼は爪で、ぎいぎい私たちをひっかき続けていただけだった。姉さんのために、自分のために、家族のために。良い意味も悪い意味もまとめてまるごと。彼にとって普通でも、気づいた私にはとても息苦しい世界じゃないか。
「言ってくれて本当にありがとう」
「いや、うん、いいえ」
「でも俺、やめないから」
 驚く。私がうるさい、と言ったあとの行動から想像はできていたけど、真正面から言い切るとは思わなかったからだ。だから私も思わず死ね、と言いかけた。危なかった。言わなくて済んだのは、女の子なんだからというどうでもいい心配と、死ねといったら本当に死んでしまいそうだったためだ。
 その後郵便局まで、本当に私も柏木くんも何も喋らなかった。手をつなぐだとか、告白されるとか、そんな青春じみたことが一切なかったのは、相手が柏木くんと考えると喜ぶべきことなのだろうか?
 それから、私は以前よりもよく彼を見るようになった。大して変わりはないように思えたが、事情を知ってからさらに細かく見ることができるような気がした。しかし私が気づけたことと言えば、眼鏡の汚れをとても嫌うこと、ボールペンをかちかちしていないとき(そうそうないのだけど)はポケットにいれていること、ボールペンのインクは既になくて、でも入れ替える気もなくてただカチカチしかできないボールペンということ、後は普通の男子生徒だということぐらいだ。そうしてじっと見ているとたまにぱっと視線があったりするのだけど、機嫌を損ねる様子でもなく笑ってボールペンを見せてきたりするだけだった。彼の考えがまったくわからなかった。
 そうして特に発展も理解もないまま、私たちは夏休みを迎えた。柏木くんのことなど忘れてぐだぐだ家で寝転がっていたのだけど、後半に差し掛かり珍しく図書館へ足を運んだ。課題を片付けることが目的半分、もう半分は涼しいところでぼんやり本を読んだりすることが目的だった。主には後者寄りではある。しかし涼しい空気に惹かれて足を踏み入れてすぐ、暑苦しい怒声が耳に届いた。どうやら若い男の人のようだ。図書館ではお静かに、の張り紙をむなしく見過ごし、野次馬根性を発揮させてこっそり怒声の方向を見やった。たぶんこっそりしなくても、誰もがそちらを見ていたので溶け込むことは簡単だっただろうけれど。
 ちらりと覗いた声の主は、大学生ぐらいの細い青年だった。怒り狂った表情で、あまりの迫力に周りの人も止め難いようだ。なぜあそこまで怒り狂えるか、不思議なくらいに怒っていた。私はいらつくことはあれど、あそこまでできないぞ、と思いながら、今度は声が向けられている人へ視線を移す。青年は神経質そうな人間ではあったが、あそこまで怒られるのだから相手も相当な……と、そこまでで思考が停止した。なぜなら、答えは簡単、ボールペンの彼が声を向けられている主だったからだ。あっけに取られているうちに、青年はどんどんヒートアップしていく。しかし反比例するように、柏木くんは冷めた表情で相手を見ていた。
「お前っ、さっきからどういうつもりだよ」
「……どういうつもりって」
「ボールペンをカチカチ、カチカチ……、うるさいんだよ! 勉強に集中できないだろ! そんなこともわからないのか、このクズッ!」
 それでもなお、表情を変えない彼にかっとなった青年が首元をつかみこぶしを振り上げた。そこでようやく司書やほかの人が止めに入る。周りもほっとした様子だったが、視線はいまだ釘付けだ。どうもみんな青年のほうが悪いと思って見ているようだが、いやいや、柏木くんもなかなかですよと思ってしまった。
 自由になった彼を見ていると、するりと人混みを抜けて図書館を出た。すぐ横を通ったくせに、私には気がつかなかったのか視線すら向けない。なぜか慌てて背中を追いかけると、すぐ外でぼんやりと立ち尽くす彼がいた。
「ねえ、ちょっと、ねえ」
 肩を叩いて、ようやく振り返る。コンクリートの熱気に包まれているはずなのに、今にも死にそうな顔色だった。彼のことだ、さっきのやり取りで心臓がつぶれそうだったわけでもあるまい。じゃあ、なぜこんな表情をしているのだろう。彼はその顔色のまま小さく笑い、返事をした。
「……やあ、奇遇」
「さっき普通にすれちがったけどね、ところでさっきの、あれなに」
「見てた?」
「途中から」
 彼は笑う。
「途中からでもわかるでしょ。浪人生らしき人に、ボールペンの音がうるさいって言われたんだよ」
「まんまじゃん」
「まんまだよ」
 無表情だったからなんとも思わなかったと考えていたが、どうやら違うらしい。彼なりにちょっと怒っているようだった。言い方などはさておき、青年のほうが正しいには違いないだろうし、私とほとんど変わらないだろうに。しかし、暴力事件などにならなかったのは幸運だろう。
「私とか他のクラスメイトがあんな注意の仕方しなくて良かったね」
「うん、今までみんな、すごい優しかったんだ」
「気付くの遅いねえ」
 柏木くんは愉快そうに肩を揺らして笑った。どうやら、不機嫌ではなくなったようだ。後に近くの自動販売機でアイスをおごってくれたぐらいなので、間違いない。アイスは美味しかったが、やはり彼はよくわからなかった。……柏木くん観察日記のようだ。
 結局夏休みの終りが近くなっても、課題はまったく終わっていなかった。しかし図書館ではああいうことがあったし、家でやるのも気が進まない。だからおばあちゃんのお見舞いついで、気分転換に病院に行くことにした。単なる現実逃避なのだけど。おばあちゃんは食制限もない入院だったので、おみやげにスーパーでお団子を買う。じりじり日が照る道路から早く逃れたくて、小走りに病院の入口へ向かった。
「あ、飛行機雲!」
 すれ違った母親と手をつないだ少年が、高らかに声を上げた。思わず振り返ってしまう。目が痛いくらいの青空には、入道雲と一緒に長いはっきりとした飛行機雲ができていた。おお、これは撮らねば、とむやみな義務感に襲われ、携帯を取り出した。早速何枚か撮ってみたが、なぜかいい具合に撮れない。そろそろ良い位置を探そうと後ろへ下がっていくと、とん、と何かにぶつかった。あっ、ともろい声がする。
「う、わ。ご、ごめんなさい!」
「あ、いいえ……」
 線の細い、母ぐらいの年齢の女性だった。ちょうど病院の建物の隅だったので、気づかなかった。手元を見ると、瑞々しい花が飾られた小さな花瓶が倒れ、水がこぼれていた。タイミングからどう考えても、私の仕業だった。
「ご、ごめんなさい! すぐに水を」
「あ、いえ、そんな。よくあることですから」
 いいえ、だめです、ごめんなさい、と言葉を並べて花瓶を預かり、病院のトイレで急いで水を注ぎ足した。幸い花が潰れているわけでもないようだ。ほっとしながら戻ると、自分の居場所がないように困った顔をして立っていた。
「あの、本当にすいませんでした」
「いいえ、とんでもない。ご迷惑をおかけしました」
 それはこちらの言葉です、と首を振る。女性は綺麗に微笑んだ。しかし困った顔のままではあった。こんな隅に置いているものですからね、よく倒されるんですと言った。慣れている、とはそういうことか。花瓶をそっと元の位置に置くと、女性はゆっくりかがんで手を合わせた。もう私は立ち去るべきだろうかと悩んでいると、女性は顔をやはりゆっくりとこちらへ向けた。
「ここで娘が死んだのです」
「娘さん、ですか」
「ええ、病院の屋上から飛び降りて」
「飛び降りて?」
 驚いて繰り返す。おばさんはうなずいた。 「病気やけがのほうが、ずっとましですよね。いえ、病院の敷地でこんなこと言っちゃいけないんでしょうけど……。でも、娘の気持ちはわからないでもないんです……」
 一人言なのか、私に語りかけてるのか悩むほど、遠い遠い目をしていた。そのあとも小さく、悲しそうに困ったように、娘さんの小さな頃のことや遺書のことや囁き続けた。娘の思い出と死んだ時のことを同列に語る親の気持ちを、私は想像できなかった。女性は囁いている途中、はっと我に返る。泣きそうな顔で頬に手を当てた。
「ごめんなさい、偶然会った方にこんなお話」
「あ、いえ、そんな」
「あなたも用事があって、病院にいらしたんですものね。邪魔してごめんなさい、それじゃあ私は失礼します」
 そそくさと立ち去ろうとする女性に、あ、と思わず声をかけた。
「あの、失礼ですが、お名前……苗字だけでも」
 女性は振り返り、困った顔で答えた。
「柏木です」
 青空の飛行機雲は、すこし薄くなっていた。
 九月一日。課題を前日に無理やり終わらせたおかげでふらふらする身体で登校した。友人も似たようなもので、それがおかしくてなんとなく笑いあった。柏木くんはそのへんは真面目らしく、いつもどおりボールペンをかちかち鳴らしていた。ゆかねば、と思う。
「やあ、柏木くん。ごきげんよう」
「羽鳥さんはすごく眠そうだけど」
「うん、まあ、努力の結果です。ところで放課後時間ある? もし暇だったら、ちょっと付き合って」
「告白みたいな?」
「私もそういうので思うんだけど、呼び出した時点で告白だよね。いや、今回まったく関係ないけど」
「うん、まあ、暇だから全然いいよ。付き合う」
 かちかち、と鳴らして答えた。放課後が勝負だ。うし、と気合を入れる。遠巻きに仲良くない女子がぼそぼそ話しあってるのも、何事もなくスルーできた。
「それで、何の話?」
「屋上って、二時間のミステリドラマの崖みたいで格好いいよね」
「それが本題?」
「だったら教室で言うわ」
 屋上でびゅうびゅう風が吹きすさぶ中、話していた。もちろん単なるワンクッションであって、ミステリドラマ云々は本題じゃない。ただ私の気持ちはそんな感じではあったけれど。
「ねえ、お姉さんさ、病気で死んだんじゃないんでしょ」
「……ばれたか」
 ものすごくまじめな調子で、しかしやはりボールペンをかちかち鳴らしたまま言った。
 風で髪が乱れる。視界を遮って、彼の表情がしっかりよく見えなかった。
「どうやって知ったの」
「おばあちゃんのお見舞いで病院に行ったときに」
「そうか、母さんか」
「うん」
 かち、かち。風の音がうるさいのに、ボールペンの音だけはやけにはっきりと聞こえた気がした。そうかあ、と柏木くんはうつむいた。泣きそうだと思った。
「うん、羽鳥さんが知った通りだけど自殺したんだよね。飛び降りて。病院の屋上で。でも少なくとも噂みたいに病気で死んでいたりしたら、俺はこんなことになっていないと思う。こんな百均で売ってるボールペンを馬鹿みたいに後生に大事にしたり、手放せなかったり、鳴らし続けなかったと思う」
 しかしそう語りながらも、手は止まらない。だってボールペンは彼の人生の一部だから。最初に感じたのは、間違いじゃなかった。
「最初姉さんが言ったんだ。ボールペンが欲しいって。可愛くなくていい、でも病院の売店では買わないでって。意味がわからなかった。でもただ、手になじまないのかなとか思って、適当に外で買ってきた。そのとき、すごい嬉しそうな顔してた。何度も何度もかちかちやって、売店のとそう変わらないのに、宝物みたいに扱って。なんでそんな鳴らすんだよって聞いたら、病室は音がないからさみしいでしょう、って言うんだ。音が欲しいのならプレーヤーとかラジオでも買えばいいって、俺は言った。でも姉さんは困ったみたいに首をかしげるだけだった。……その一週間ぐらい後に、姉さんは飛び降りた。このボールペンと一緒に。でもどうしてかわからないけど、姉さんは死んでボールペンは壊れなかった。ちょうど現場見ちゃったんだ、見舞いに行ったタイミングが悪くて。だからボールペンを手放せないけど、赤色は使えない。姉さんの血を思い出すから」
 自嘲するように笑った。一応青色は使えるんだ、とも言って。私は笑わなかった。ただ、ひとつだけ尋ねた。
「ねえ、本当に、それだけなの」
「これ以上何を望んでるんだよ」
「……いや、別に」
 それ以上は聞けなかった。ちょっとしか知らなかったころは、何も構わず聞けたのに。今回は特殊すぎるからか、彼に多大な同情を抱いてしまったせいか、それともまったく別の感情が働いているのか。判断はつかなかった。
 ただ私はいろんなすべてを考えて、自分になりに結論を出していた。もしかしてお姉さんは柏木くんを、彼を家族以上に愛していたんじゃないかと、と。ありえなくはない。だけど、ありえてはならない。だからお姉さんは自殺した。あるいはその一歩手前で、柏木くんが拒否したのかもしれない。いずれにしろ、柏木くんは原因の一端を背負っているのだろう。柏木くんの話を聞いて、それを確信した。
 しかし彼の横顔を見るとそれ以上問いただしたら、間違いなく死ぬと思った。ここから飛び降りるか、病院へ走って階段を駆け上がって飛び降りる。そのとき間違いなくお姉さんのことを思いながら。
「俺」
「え?」
「今までボールペンを姉さんだと思ってた。でも、違ったんだ」
 どういうこと、と聞くと、目を細めて笑った。
「ボールペンは俺自身だったんだ。姉さんと一緒に死ぬはずが、間違えて生き残った。たぶん、だから、死ぬべきなんだ」
 そう言って、彼は屋上の手すりに近づいていった。飛び降りるのかしら、とぼんやり普通に考えていた。しかし彼はもちろん飛び降りることなんてしないで、ボールペンを公邸に向かって思いっきり投げて見せたのだ。さすがに運動部員がいないからといっても、先生に見つかったら確実に怒られる程度だ。
「うわあ……廃棄物処理法違反」
「拾いに行くよ。それで壊れた部品をゴミ箱に捨てて、埋葬完了」
 なるほど、と笑った。どちらかというより散骨に近い気がしなくもないけれど、彼にとっての決着のようだった。下手に追い詰めなくてよかったと思った。
 屋上を出て二人で階段をゆっくり下る。心なしか、柏木くんは軽い足取りをしていた。そこでふと思い出す。
「あ、最後に質問」
「何?」
「噂でお姉さんが美人だとか、そうでないとか聞いたけど、結局お姉さんは美人なの?」
 そう尋ねると、柏木くんはたまらなかったように噴き出した。そして腹を抱えて大きく笑いだす。いつもに比べたらマシな質問だろうに、と首をかしげていると、ひいひい笑いをこらえて言う。
「ああ、うん、顔ね。噂って面白いなあ」
「結局なんなの?」
「うん、姉さんはね、俺とよく似た父親似なんだ」
 笑った意味が、すぐに理解できた。私もつい涙が出るほど腹を抱えて笑ってしまう。二人で笑いあいながら、頭の中でひっそり考えた。
 もう大丈夫だ、柏木くんは死なない、飛び降りない。ボールペンも、もう必要ない。なぜなら彼は、正しいさよならの仕方を覚えたから。

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