// はるのうらら

 「僕は食べることと恋愛は、よく似た行為だと思う」と、シュンは全てを知り切った神が人間にお告げでもするように言った。特に神々しさとか厳かさがあったわけではないが、何故か本気でそう思った。寂しいからという理由で出かける直前だった僕を引き止め、お腹が空いたからとハンバーグを朝から作らせ、口にたっぷりケチャップをつけているだけの我侭な子供だというのに。ああ、口にだけではなく白いシャツや伸ばされた髪にまで殺人事件のごとく赤い染みをつけている。手もみ洗いをしなければ、と専業主夫でもあるまいにそんなことを考えてる僕をよそ目に、独り言のようにシュンは言葉を続けていた。実際僕が聞いていようがなかろうが、シュンはどうでもいいのだろう。ノースリーブで躊躇いなく剥き出しにされた白い腕が見てるだけで寒い。その腕はハンバーグのために話しながらも止まっていなかった。 「どちらも極端な話、それしか目に入らなくて、それしか考えられなくて、苦しくなる。それが手に入らないなら死にたくなる。手に入ったら入ったで、それは確かなものなのか不安になる。こんなにそっくりな行為は珍しいね。同化する人間が出ても不思議じゃないね。人間として正しいことではないと思うけど」
「同化って、カニバリズムのことかい」
「そう、でもそれだけじゃない。例えば普通に食すことが恋愛とする」
 そう言いながら、鈍く銀色に光るフォークを揺らした。その先に刺さったハンバーグの切れ端から、ケチャップが落ちる。皿の白かった部分が、ぽつんと赤く染まった。
「すると僕らは毎日三度恋愛していることになる。しかも性別も種族も年齢も、とにかく何もかもを超えた恋愛だ。それに比べれば、人間同士の禁断の愛とか笑ってしまう。無論、僕らもね」
「……とりあえず、口を拭きなさい」
 予想通り顔や耳を赤らめた僕が面白かったのか、シュンは楽しげに笑いながら口を乱暴に拭いた。決してナプキンなどという上品なものではなく、手の甲で、だけれど。それでしっかり拭き取れるわけもなく、ただ手も赤く染まるばかりだった。暗がりで今のシュンの姿を見れば、人喰い人間と間違われてもおかしくない。そのまま獲物にかぶりついたのか血を口元から垂らし、止めを刺したらしい手も赤く――。身体が一瞬震えた。元々僕はホラーやスプラッタは得意ではない。人喰い人間など以ての外で、所詮偏見に偏見を重ねた想像に過ぎない。一つ息を吐いて立ち上がり、どうやら食べ終わったらしいシュンに言った。
「このあとシャワーを浴びておきなさい。服も新しいのに着替えて。どうせ寝巻きのままだろう」
「んむ、了解した。今日はお母様のところに行くのかな」
 休日でありながら仕事でもないのにスーツ姿である僕をちらりと見やり、さりげなく尋ねてきた。あくまで嫉妬などという乙女(この単語をシュンに使用していいものかはさて置き)らしい感情ではなく、例えるならなぞなぞに答える子供みたいな調子だ。合ってる? とでも言いたげな瞳で上目遣いしてくる。僕は頷くだけにした。それで充分だったらしく、すぐに椅子から飛び降りてシャワーへ走り去った。テーブルの視界だったため見えなかったが、どうやら下は下着だけらしい。白い肌が太股まで露出されていた。露出魔、と口の中で呟いて家を出た。
 免許は持っているものの車は所有するのが億劫で持っていなかった。遠出するときは大抵電車かバスを使用している。今日も歩くには遠すぎる距離なので、電車を使うことにした。幸い駅には近いアパートだ。それなりに洒落た店も並んでいるせいか、都会と称されることがある。だが所詮田舎で言う都会は、都会で言う田舎だ。東京などの大きな都市に行けば、それを痛感することだろう。アパートの階段を降り切ったところで、シュンが追いかけてきた。僕の上着を手にしている。ただ、その格好は僕が家を出たときのままだった。つまり、ノースリーブに下着という姿だ。しかも裸足でだ。人気がないにしろ、その姿は本当に露出魔すぎる。少し息を荒げてこちらに駆け寄るところも、ちょっと危ない。
「今日、肌寒くなるから」
 上着を押し付けながら言った。汚してはいけないと思ったらしく、手も口も綺麗になっていた。シュンは変なところで気を遣う。
「ありがとう」
 お礼を言うと、にやっと嫌らしい笑顔を見せ「あと、お出かけのちゅー忘れてたんだ」と言った。それが本命だったらしい。道理で上着を運ぶには使わないだろう口まで綺麗になっていたはずだ。呆れながら、人がいないことを再度確認して突き出された色の失せた唇に軽くキスしてやった。満足げに微笑まれた。
「うん、じゃあ僕はこれで帰るよ」
「走って帰りなさい」
 人がいないといっても、やはり外で半裸のような格好で居られるのは心地が悪い。うっかり男なんかに通られてしまったら、性に合わないながらも嫉妬の念にかられてしまうだろう。――他の男がシュンに欲情するかどうかは置いておいて。シュンが踵を返して走り出そうとし、急停止した。そして忘れてたとでも言うように、慌てて微笑みながら言った。
「今日帰ってきたら、僕自殺してるからよろしくね」
 シュンは走って家の中へ戻っていった。やはり寒かったようだ。僕は溜息をついた。そんなことを言われても、どう対処すればいいのだ。警察、いや救急車でも呼んでおけばいいのだろうか。僕は想像した。自らの部屋を脳内に浮かばせ、そこにシュンを倒れさせる。細い腕が、足が、体躯が床に全てを任せている。きっと薬なんかで死ぬ奴じゃないから、包丁かカミソリでも持っていって血だらけなんだろう。ケチャップなんかじゃない、本物の血がシュンを汚す。もしかしたら僕は一番最初にシュンの死体を風呂場へ持って行き、洗ってしまうかもしれない。昨日買ったばかりのシャンプーで頭を洗い、身体を洗う。血の汚れも匂いも取れたらシュンの一番好きな服を着させて、床を綺麗に掃除してそこへまた寝かせる。手をちゃんと組ませて、できるだけ美しい角度で。それでようやく救急車でも呼ぶ。自分でも酷い想像だと思った。
 その想像を終わらせる頃には、駅に入って切符を買い、ホームで電車を待っていた。ポケットの中の切符を弄りながら、薄暗い空を見る。青空に淡い灰色のフィルターがかかっている。まだ肌寒いけれど、空気がぬるくなってきた。駅の外に植えられた木を見れば、もう芽が出ているものすらあった。春が近いことを感じた。乗った電車の窓からも覗ける季節の移り変わりだった。
 電車を降り駅を出てすぐ、目の前の小さな白い建物を見やる。丁度太陽と重なり眩しいそここそ、母のいる場所だった。小さな精神病院だ。田舎独特の和やかさを打ち消すようなものが漂っている。僕も最初の頃はどうにも入りづらかったことを記憶している。だが入らないわけにはいかない。それでなければ、僕が一体何のためにここへ来たのかさっぱりだ。入り口の扉をそっと押して入ると、受付の若い看護師が微笑みかけた。この病院に待合室はない。いつも通り変わらぬやり取りをし、母の病室へ向かった。個室で清潔感のある、真っ白な部屋だ。シュンが死ぬなら、きっとこっちのほうが綺麗だろうと、ふと思った。病室に足を踏み入れる。
「母さん」
 母のベッドの横に置いてある椅子に腰掛ける。そしてなるべく優しい調子で話しかけた。虚ろな視線を正面の壁に踊らせるばかりの、やつれた母は見ていて痛々しかった。何度見てもそれは慣れない。母がこんな風になったのは、元々の性質もあるだろうが父が死んでからだった。僕が中学の頃、今まで母に従属していた父が初めて反抗――浮気したことから始まる。僕は反抗が何より的確な表現だと考えている。会社の若いOLと浮気して、その女性と一緒に身を投げたのだ。実際その場面を見てるわけでもないし、死体もそういう業者が綺麗にしたものしか見てないから、どんな感じだったのか知らないが。ともかく今まで自らの物とすら思っていた父の裏切りは、母に大きなショックを与えた。父は自分が母のものではないことを、命を掛けてまで知らしめた。若い女性まで巻き込んだのはどうかと思うが、きっと女性も真剣に父を愛していたに違いない。決して見た目も仕事の調子も悪くない男だったから。だが母だってそれは同じだ。どんなに歪であろうと、父を愛していたのは確かだった。それでなければ自分の物などと思わなかったろうし、大きなショックもなかった。
 ああ、そんな男女関係を見てきたせいだろうか、僕は女性を信じることが出来ないし普通の愛などというものはないものだとすら思っている。きっと僕の人生を恋愛中心にずっと語れば、僕が男に走っても仕様がないとすら思われるだろう。ならば、何故僕は未だ母を見捨てずにいるのだ。
「母さん」
 反応がなかったので、もう一度呼びかけた。惰性だ、と僕は考える。父のあの声から滲み出るような温もりを思い出しながら。そこでようやくぴくりと身体を反応させた。
「あなた?」
「そうだよ、母さん」
「あなた……」
 それ以外何も言わず、僕の頭を包み込んだ。母は僕のことを父だと思っていた。顔を造形がそれほど似てるとは思えないが、彼女には僕と父に通ずる何かを見出しているのだろう。そのうちの一つがスーツであることは知っていた。父は昔から体の弱かった母を入院していたとき、いつも仕事帰りのためスーツで母を見舞いに行っていたからだ。だが所詮「あなた、あなた」という必死な母の呼びかけは、僕にしか届くことはなく、一番届いてほしい人物には届かないのだ。もし父がこの悲痛な母を声を聞いても、母のところに戻ってきてくれるとは思えなかった。白い部屋に反響する呻き声が、ぴたりと止まった。「あなた」と冷たい調子の母の声が一瞬響いただけだ。なんだろう、と思っていると突然頭の皮が、母の鋭い爪で破られた。鋭い痛みが体中を駆け巡った。不覚ながらこらえきれず、叫んでしまった。
「母さ……」
「この匂い、この匂い、この匂い! いつもと違うわ、いつものあなたと違う匂いがする! あの嫌らしい女の匂いがする! またあの女のところへ行ったの!? また私を裏切ったの!? ああ、ああああ!」
 あとは意味を持たぬ言葉を叫ぶばかりだった。とにかく母の拘束から逃れようと必死にもがいた。だがやつれた母とは思えぬ力で、なかなか振りほどけない。普段から鍛えるべきかと考えていたところで、何人かの看護師が駆けつけてくれて、ようやく事は終わった。母がまだ僕を睨みつけながら何か叫んでいたので、病室からさっさと逃げた。別に母の暴走は慣れ切ったことだからどうでもいい。けれどこの後待ち構える、先生との話がどうにも好きになれなかった。人と対話するのが苦手と言うこともあるが、先生と話すと過去をそれとなく探られるのが嫌なのだ。だが母のときのように逃げるわけにもいかない。
 看護師に言われ、先生のいる部屋に入った。消毒の匂いが母の病室より充満している。ぎしり、と先生の座った椅子が軋んだ。先生の前にある椅子に大人しく腰掛けた。そして続いて彼女の溜息が耳に届く。どこか艶っぽい溜息だ。三十代に入ったばかりだろうが、町中を歩く女性に比べるとちょっと疲れた表情のため、もう少し上に見える人だ。だが女らしさが体中から溢れていて、何故僕はこの人のような女性と恋愛せず、シュンに惹かれたのか不思議なだった。
「それで、今回は何をしたんですか」
「何もしてませんよ」
 この一言だけで乗り切ろうかと思ったが、どう考えても無理な挑戦なので諦めた。それに頭の傷の処置(サービスか何か知らないが、包帯まで巻いてもらった。単に酷い傷だっただけだろうが)をわざわざしてもらったのに反抗するとは、申し訳ない。なんでもないときにそういう挑戦はすべきだと思った。
「嘘をつかないで、今までと違うことを、なんでもいいから。匂い、とか言ってたらしいですけど」
「ちょっとしたことなんですけど」
 思い当たることはそれしかなかった。僕のちょっとしたミスなので、話すのは気が引けたが言うしかない。ちょっとしたこと、と彼女が鸚鵡返ししてきたので頷いて言った。
「シャンプーを変えたのです、昨日。安かったもので、つい」
「シャンプー、ですか? ……もしかして、今までお父さんが使っていたものと、違うものとか」
 先生が頭の良い人で良かったな、と思った。その通りだった。ゆっくり頷くと、また溜息を吐かれた。責めるにも責めようがないだろう。そんなことまで普通手が回るはずがない。さてどんな風に言おうかと少し悩んだ様子を見せてから、彼女は口を開いた。
「今日はもうこれでいいです。しばらく安静にして、お母さんへの見舞いも控えてください」
「わかりました」
 もう何を言う気にもなれなかったのか、いつもよりあっさりしていた。早く家に帰りたかった僕としては嬉しいところだ。ただ、病院を出ても頭から放たれる消毒の匂いがつらかった。ちらりと学生に見られては薄ら笑いを友人らと浮かべられるばかりだ。
 家路に着く直前になって、シュンの自殺宣言を思い出した。心の準備は、あまり出来ていない。多分死体を洗うなんて気力もなく、ただ連絡するだけで終わるだろう。もっと暇なときにしてほしかった、などと思いながらアパートの階段を登り、扉を開いた。玄関付近に変わった様子はない。そっと床を鳴らしながらリビングへ行った。朝シュンの使った皿が残っているだけ――ではなかった。その上に何か黒い物体が乗っている。細い長い、黒いものだ。頭の中でそれに思い当たるものといえば、焦げたスパゲティだった。一昨日作ったのだが余ってしまったやつで、腹の減ったシュンが暖めようとしたら失敗してしまったのだ。以前もそんなことがあったから、それが一番可能性が高いように思えたがどうも違う。焦げた匂いもないし、スパゲティ以上に細いようなものに見える。僕はさらに近づき、それが何かに気付いたところで仰け反った。ぞわっと全身の鳥肌が立つのがわかった。
 髪だった。黒い長い髪だ。それが皿のケチャップと絡まり、非常に気持ち悪いことになっていた。頭の中が混乱して回転するのが分かった。吐き気が軽く催されたが、抑えられる程度だったので飲み込む。
「あ、お帰り」
 そこでなんとも緊張感のない、シュンが現れた。髪はすっかり短くなり、シャワーを浴びたのかシャンプーの爽やかな匂いを漂わせていた。僕は髪を指差す。顔が自然と顰められるのがわかった。シュンは笑って言った。
「髪切るのにハサミ探すの面倒臭くて、ナイフで切ったんだ。それで出来たらその髪を君に食べてもらいたかったんだけど」
 首を傾げて、気分が悪そうな僕を見て、また笑った。
「無理そうだね」
「できるわけないだろう」
「やってほしかっただけだよ。あと初めて会ったときのようなときめきを思い出してほしくってね」
 確かに胸はきゅんとしたが、心臓が縮まっただけだ。シュンはその髪の乗せられた皿を掴み、ゴミ箱へ斜めに流した。音もなく髪が落ちていった。ケチャップに絡まった髪が数本残ってはいたが。
「なんでそんなことを考えたんだよ……しかも自殺宣言の意味はあったのかい?」
「あるに決まってるだろう!」
 理解していなかったのか、と驚いたように言われた。あれで理解しろというほうが無茶だ。シュンはいつでも無茶だ。とても残念そうに溜息を吐かれた後、しょうがないのでもう一度訊ねた。
「結局自殺宣言はなんだったんだ?」
「だって、髪は女の命だよ」
 そこでようやく話が繋がった。なんとなく、成程と相槌を打つのは嫌だった。それよりもシュンがそんな女を意識したことを言うとは思えなかった。例え幼くても女であることを痛感する。結局のところ、僕は女性を捨てられないのだ。それは本能か、それとも捨てきれない希望か。それとも、やはり惰性に過ぎないのか。
「それよりもその頭格好良いね、ターバンみたい。そうだ、今度旅行しよう、海外旅行。アジアがいいな」
「他に言うことは何もないのか、ハル……」
「その呼び方はだめ。シュンって言うほうが響きが好きだから。うん、でも今はなんとなくそっちがいいことがしなくもない。でもよし、ともかくパスポート取ろうよ。まずそれからだよね」
 彼女が楽しそうに旅行の話をしている様子を見ると、すべてがどうでもいいように思えた。シュンの前では全てが脆かった。多分母と父と若い女性の恋愛だって、今さっき捨てられた髪のようなゴミなのだ。いつか僕も捨てられてしまうのだろうか、と考えた。社会的には僕が生かしてる側だというのに、可笑しなことだ。だけれど、やはりその考えもシュンの前ではゴミに違いない。
「そうだな、一度ぐらいはいいかもしれない」
 目を細めて、呟いた。窓から降り注ぐ日の光があたたかい。春が、近かった。

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