// 砂の娘

 海辺の隅にある娘の像は、僕が生まれる前からずっとあったらしかった。誰かが砂で作ったらしいのだけど、それは時が経ちすぎていて、もはや男か女かもわからない有様だった。あれはいつからあったのだろう、と母に尋ねてみると、私が生まれるずっと前から、と返ってきた。ならばと祖父に尋ねたが、私が生まれるずっと前から、と同じ答えが返ってきた。それ以上、尋ねることができる人はいなかった。
「お前はそんなに、あの娘の像が気になるのかい」
 父は優しく僕に問うた。僕は頷いた。
「そうか、ならばあの娘の像に、直接尋ねてみればいいんじゃないかな」
 父は優しく僕に言った。僕は頷いた。

 娘の像は、もう随分朽ち果てていた。
「何か御用ですか」
 娘の像は近付くだけで、すぐにこうして尋ねてきた。
「あたしはもう、ただの砂の塊みたいなもんですよ。そんなあたしに、何か御用ですか」
 卑屈であった。僕は多少言葉を考えた後、彼女に話しかけた。
「いきなりすまなかった。僕は随分前から、君のことが気になっていたんだ」
「へえ、あたしのことが?」
 珍しい、と言いたげに笑った。すると少し砂が崩れて、なおも形を崩していった。彼女はそれに気付くと、笑うのをつまらなそうにやめてしまう。
「……君は長い長い間、ずっとここにいたようだ」
「そう、本当に長い間、ここにいました」
「なぜこうなったんだい」
 ゆっくりと本題に入ろうとしたが、彼女は困ったように沈黙した。
「全部話しきれるかわかりませんよ」
「話したくないなら、いいのだけど」
「いいえ、さっきあんたも見たでしょうけど、何かしようとするたび、私は崩れていくんです。だから、話し終わる前に崩れてしまうかもしれないんです。もう、決して長くはないから」
 間。そして、いえ、と彼女は続けた。
「崩れるのはいいですけどね。なに、最後にお話できて、あたしは嬉しくてたまらない。あたしが本当の娘だったら、きっとここで笑い転げて砂まみれですよ……」
 本当の娘だったら、という響きは、とても悲しくあった。僕は彼女になんと声をかければいいか、わからないでいた。
「……いえ、こんなこと言ってる場合じゃないですね。あたし、あたしは昔、この近くに住んでいた、年老いた芸術家に作られたんです。若い頃の恋人だかを真似てね。芸術として、というよりも、話し相手が欲しかったみたいで。まあ、散々つまらない話をされましたよ。恋人との思い出から、自分の芸術論から、何から何まで。そりゃ、あたしもその人に作られた子供みたいなもんですからね。聞いてやりましたよ。でも、飽きたのかなんだか知らないですけど、あの人は海の中に沈んじまった。あたしを置いてね。それから、ずっと、あたしは一人。この長い長い間、本当に、つまんないもんでしたよ」
 やれやれ、と面倒くさそうにため息じみた砂を吐く。僕はその砂を見ながら、それとない違和感に、口を出そうか出すまいか迷った後、出した。
「……これは僕の勝手な考えなんですけど」
「ええ、なんでしょう」
「もしかしてあなたは、まだ未練があるんじゃないでしょうか」
「未練? 何をばかな」
 彼女は鼻を鳴らして、少し崩れた。僕は言う。
「だって、あなたはそうして何かするたび、崩れていけたのでしょう。だったら芸術家が死んですぐ、一人で適当に動いていれば、終わったことでしょう。でも今も、あなたはここにいる。拒絶するみたいに、気にかけて、踏ん張って……」
 そのとき、風が彼女の後ろ側から吹いた。そして砂が、僕を撫でた。それは彼女の、砂のしずくであった。涙のように、塊が落ちてゆく。僕はそれをぬぐうこともできず、そっと視線をそらした。
「なんであんたは、そんな余計なことに、気付いてしまったんでしょうね」
 嗚咽。そのたびに、砂が落ちる音がした。
「あたし、ずっと忘れてたのに。所詮あたしは砂だったから、なんでここにずっといようとしてるのか、忘れてしまっていたのに。思い出してしまった、とってもばかなこと……」
 彼女は吐き出すように、言葉をつむぐ。
 首を絞められる、ナイフで刺される、石で殴られる、毒を盛られる、銃で撃たれる、海にその他でも、なんでも、なんでも……。
「……本当に、なんでもよかったんです、あたし、あの人に壊されさえすれば。でも、あの人は死んでしまった。でもあたしは、あの人に壊されたかった。もっと望むなら、あの人と死にたかった、それなのに…………あたし、ひどいやつです。今、あなたが憎くてしょうがない。嫉妬に狂って、しょうがない」
 どうして、とは、聞けなかった。彼女を見ることすら、できなかった。
「ねえ、どうしてあんたは海なの。どうして、あの人を拒絶もせずに飲み込んだの。ねえ、返して、あの人を返して! ねえったら!」
 それから、彼女は静かに嗚咽して、いずれ聞こえなくなった。僕はそれこそ砂を噛むような気持ちで、そっと囁く。
「それでは、僕があなたを芸術家と一緒にしましょう。この広い深い海の中に、飲み込みましょう」
 しかしそんなことを言ったときにはもはや、言葉も涙も彼女も、もう風に吹かれて消えていた。

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