// かのじょ

 心臓を探るにはまだ、子供すぎた。
 彼女は、褐色の肌をしていた。やけに大きな瞳とそれをあわせて考えると、もしかしたら彼女は、日本人ではなかったのかもしれない。
 僕は思い出そうとする。彼女の声を。しみひとつない、白いシーツが敷かれたベッドの中で。膝を抱えて、ベッドの心臓の音を聞こうとするみたいに、耳を押し付けて。しかしそれでも彼女の声は思い出せなかったし、ベッドの鼓動も聞こえなかった。そこにあったのは、耳が痛くなるほどの静けさと、頭の中に響く、彼女の言葉ばかりだった。僕は彼女が何語を喋っていたのかも思い出せない癖に、そんなことばかり、思い出すことができたのだ。
「死ねばいい」
 その声は、低い細い声だった。僕の声だ。間違えても彼女の声ではない。僕はただ、頭の中にはびこるように残る彼女の言葉を、声に出して読んだにすぎないのだ。僕は思い出す。彼女の黒い長い髪と、あの闇にとける肌の色を。僕の白い首を掴む、細い指の感触を。僕は思い出す。もうそれ以上、思い出せなかった。
 日に日に、彼女のことを忘れてゆく自分がいた。同時に、思い出そうとする自分もいた。その無意識で矛盾する双方に、ああ、忘れないでいようとする、という選択肢は自分の中にないのだな、と意識的に感じた。たぶん彼女は、そういう人間であったのだろう。一度忘れ、もう一度、僕の身体を通して、思い出すという言葉で作られる人間。あるいは、そもそも彼女という人間は。まったく存在しなくて、僕が勝手に創り出したにすぎないのではないだろうか。僕は煙草を吸う。煙草を吸いながら、咳き込んだ。涙が出た。ついでに僕はそのまま、むせび泣いた。彼女が存在する、存在しないという前に、正しい彼女が既にいないことを、知ってしまったからだ。
 たぶん、僕の人生で考える限り、他人のために涙する機会はそう多くない。ならば今の僕は貴重な機会を味わってる人間であり、また彼女はそれだけの偉大な人物であったのだ。忘れてゆく。僕はつい数秒前に偉大であると決めたことの根本を、既に失っている。もはや欠けている。僕は風呂に入ることを決めた。その一瞬の思考で、きっと彼女と過ごしただろう何時間が消えたのだろう。シャンプーで爪を立てて、頭を無性にかきむしる。何をしても彼女を忘れてゆく恐怖があった。もはやきっと僕は、彼女のことを何も知らない人間と同じに違いない。僕は泣く。一人で泣く。まるでシャンプーが目にしみてしまったふりをして。丸裸で、生まれたての赤ん坊みたいに。ただひとりの女性を思って。風呂を出たときには、頭皮が少しめくれて、血が出ていて、痛かった。
 彼女は女性だったろうか。彼女と言うなら、女性に間違いないだろう。きっと、そうだ。僕は人差指を喉に突っ込む。胃液が胃から食道を通り、舌をぴりぴり刺激して、吐きだされる。トイレの水に沈む。僕は自分を戒める。彼女を忘れようとする自分を戒める。そして戒める行為に夢中になって、僕は彼女をまた忘れてゆく。一瞬頭をかすめる、彼女のなだらかな身体のラインを思い出しては、吐いた。記憶を吐きだすみたいに、思い出した瞬間消えていった。両手に残る、彼女のやわらかい腹の感触の上から、胃液の生温かさを上書きする。しゃぼん玉のほうが、きっともっと、ずっとましだ。
「私は、だーれだ」
 僕はベッドでシーツにもぐり、目をつむって膝を抱えて寝転んでいる。ベッドの心臓の音を聞くみたいに、耳をベッドに押し付けて。目を開ける。緑色のまん丸の目が、光っていた。
「ねえ」
 小さい唇が動いた。僕は思わず目をつむる。
「私は、だーれだ」
 シーツが僕の身体から落ちて、外の空気に肌が触れる。僕はシャツも下着も着てないせいで、少し寒かった。ほっそり目を開けると、彼女がぴんと背筋を伸ばして、座っていた。彼女が起きたせいで、シーツが落ちたらしかった。
「僕は」
 僕は忘れかけていた人を目の前にして、喜びの感情を感じられなかった。
「知らない。ずっと、君といっしょにいて、なお、君を知らない。考え続けても、思い出し続けても、知らない」
「そう」
 彼女は怒らなかった。ただ静かに手を、僕の心臓に当てた。僕の身体は、あばらが浮いていた。死人のようだった。そのあと彼女は何もしないから、僕も彼女の胸に手を当てた。柔らかかった。でも目的が違う。僕は手をずらす。心臓を求める。心臓はなかった。
「わかった?」
 僕ははっとする。手を離す。そして彼女の手を振り払う。
「君は、君は」
「君は?」
 彼女はあおるように笑って尋ねる。僕は、笑わない。
「幽霊か」
 彼女は笑った。
「違う。私は、私は」
 僕のどもりを真似するみたいに繰り返して、言った。
「私は、私の、私で、あなた。あなた。あなた、よ」
 僕であるという私は、そう言った。
 僕は僕の白い肌が嫌いだった。綺麗な白い肌じゃない。いっそ青白いといっていい、不健康な肌の色だったからだ。僕は自分の茶色い瞳が好きじゃない。中途半端なマイノリティが気に食わない。白髪交じりの髪が嫌いだ。まだ若いのに、とまるで死ぬみたいに人に言われるのが嫌なのだ。真っ黒にあれ。いっそ、真っ白でもいい。子供は極端を好むという。まさに僕は子供なのだろう。僕は自分の指が嫌いだ。関節を鳴らし続けたせいかは知らないが、なぜかやけに太い。もやしだとか棒だとか言われるほどの身体に不似合いな、ほど。自分の声も、言うまでもない。もっと空気に溶けそうな声がよかった。存在感なんて、いらなかった。
 だから僕は、僕が嫌いで、殺したのだ。何度も。僕である彼女に殺してもらって、僕は、満足していた。
 でも実際のところ、どうなんだろうか? 僕は本当のところ、僕のことが好きだったんじゃないだろうか。だからこそ真逆の彼女を創りに創って創ったうえ、忘れに忘れ、思いだそうとしたふりをした。
「ねえ、君は」
「うん」
 僕は彼女の闇に溶ける手を握りながら、たずねた。きっと最後であろう、その機会に。
「僕のことが、好きかい」
「わかってるくせに」
 そうして、答えないかと思ったら、彼女は微笑んで、答えた。
「だいきらい」
 そういうこと、だった。途端に、手から彼女の感触は失われる。彼女は目の前から消える。僕はベッドから抜けて、すぐそばの鏡を見た。薄暗い中浮かぶ、自分の首を見た。ただただ白くある中に見えたのは、首を絞められた跡。僕はそれにそっと手を重ねた。自分の首を絞めるみたいに。あるいは、首を守るみたいに。そして悲しくも、それはぴったりとはまってしまったのだった。

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