// 舌

 彼女は僕の言葉を求めてきた。  しかし僕は何も言わず、ただ微笑んでいた。
 そのとき僕は、ここに至るまでの経緯を静かに思い出していたからだ。
 はじめは冗談のように、指を舐めた。その癖おそるおそる、爪から、第一関節、そして指紋を確かめるように、丁寧に。味はしなかったが、ただ、その行為は僕の胸にひどく訴えかけてきた。夢中で舐め続けていると、彼女が照れたようにもったいぶるように、僕から指を遠ざけた。その日はそれで終わった。帰宅した僕は、指の感触を思い出しながら一人自慰をした。満たされていた。
 次の機会に、腕を舐めた。そして頬も舐めた。彼女はくすぐったがった。しかし僕は止めることなく、続けて脚を舐めた。首筋を舐めた。彼女が甘い息を吐いた。脇を舐めた。腋毛が舌に絡みついた。白い腹を舐めた。それから乳房を舐めるまで、対した時間もかからなかった。彼女は喘いでいた。そして全身、汗ばんだ味がした。
 そんなことを繰り返すうち、彼女は僕を求め始めた。予想はしていた。僕は彼女の肌に舌を這わせることさえできれば良かったのだが、これを拒否すれば、きっとそれは許されなくなるだろう。僕は彼女の背中を舌で撫でながら、冷静に考えた。股間は彼女と舌が存在する限り、膨らんでいた。悩むことではない。それから僕はおまけ程度に行為をこなし、彼女も自分自身も満足させた。
 しばらくして、僕は舌の違和感に気付いた。歯列の裏側をなぞりながら、その違和感を考える。どうも舌がもはや、僕以外の独立したなにかであるような気がして、ならなかったのだ。もしやこの舌は、生まれ付いての昔から、ただずっとこうして一緒に在るだけで、実は僕自身ではないのではないだろうか、と。自身の身体の一部であるというよりも、生まれついて寄生している虫のようなもの、と思ったほうが、余程すっきりした。僕は舌に思いを馳せる。舌と言う寄生虫に本能を支配され、舌が求めるに従って、彼女の肌を舐め続けているだけの僕。それはすこし良い考えのような気がしたが、どこか言い訳じみているのが気に入らなかった。まだ、考えを定めるには早すぎた。
 舌がうずく度考えたが、彼女を舐めては忘れていった。たとえどれほど悩んでいたり悲しくあったりしても、いつでも舌が熱く彼女を求めるのだから、仕方がない。
 ある夜、外で我慢ならなくなった僕が彼女の全身を舐めていると、彼女の腕に妙なものがを這っているのに気付いた。舌を止めることなく指先でいじり、確認する。つるりと硬いもの、のち、ぬるりとしたものだ。
「かたつむりだわ」
 普段行為中、静かにしている彼女が、珍しく口を開いた。思わず舌を離して、指先へ視線を移す。暗闇の中、うすぼんやりと何か形が見えた。
「かたつむり」
「ええ」
 さして気にした様子もない。
「好きなのか」
「そうでもないけど、田舎で小さい頃、よく遊んでいたから。慣れてるの」
 その言葉を聞いた途端、僕は急にかたつむりが羨ましくなった。僕が彼女の身体に舌を這わせるずっと前から、すでに舌どころか、全身で、その粘液とともに彼女の肌を知っていたのだ。
 僕は静かにかたつむりを手にとって、草むらに投げた。彼女は密やかに笑った。
「嫉妬?」
「さあ」
 返事も曖昧に、行為に戻る。彼女も何事もなかったように、喘ぎ始めた。しかしたしかに、僕は嫉妬していた。
 それから僕は、すべてに満足できないでいた。耳を舐めても、乳房を舐めても、陰部を舐めても、いずれもかたつむりへの敗北感を拭えないでいた。全身、ぬめりを、彼女、殻で、緩急、成長、二本の、幼い、すべて、感触。どうしたら、勝てるというのか。思いつかなかった。
 ずっと考えていると胸がつぶれそうになり、通り越して吐き気がしたので、もはや舐めることも考えることも放棄した。ごまかすように深い口づけをして、彼女だけでも満足させた。唯一かたつむりに勝利できるのは、この口の中だけなのだろうか。かたつむりさえ、この口の中さえ手は出せまい。そして僕にすら、その奥の奥は、決して届かぬ。そうしてかすかな勝利と敗北で気を持ちながら、僕は彼女の歯列をなぞった。彼女が喘いだ。彼女の舌を、甘く噛む。一層大きく喘いだ。
 僕は思いついた。
「シチューを作るなんて珍しいなんて思ったけど、美味しいお肉。どうしたの、これ。これを手に入れたから、作ってくれたの? ほんの少ししか入ってないけど、食べたことない味。でも、感触は覚えがある。不思議。また食べたいわ。今度は私が作るから、何のお肉か教えてよ。ねえ、教えてくれないの。ねえ、ねえってば。何か言ってよ」
 僕は何も言わなかった。言う必要もなかったのだ。答えはすべて、そこにあったからだ。
 その、彼女の舌の上に。

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