// 嫌な女

 古くからの友人の、挨拶を交わして一言目。
「指先で羽虫を潰すのは、少し心許ない気がするの」
 私は彼女が口にする単語を丁寧に拾う。けれどそれらの単語を頭の中でいくら咀嚼しても理解できず、結局、どういうこと、と聞いてしまう。会話の深入りは嫌いなのに。
 彼女はすぐには答えないで、まず首を傾げた。人より少し、長い首。冬だというのに晒された、細い首。彼女はいつか自慢した。握りやすそうな首でしょう、と。
「どういうことかしらね」
 彼女は笑う。端が切れた唇と唇の間から、白い歯を見せる。けれどすぐに、さっと左手で隠してしまう。薬指には、やけに光る指輪をはめていた。目は笑っているのだろうか。私は確認できない。目を合わせるのは苦手なのだ。彼女が目を逸らしているならまだしも、彼女はいつだって、私を見ている。私の目に、こびりついてくる。
「どうして心許ないの。指が汚れるからなの」
「ううん。いえ、理由はいくらでも思いつくの。指が汚れるから、羽虫が可哀相だから、ちゃんと殺せるか不安だから。けれど、どれも私の感情にそぐわない気がするの」
「ほんとによくわからないのね。でもそれにしたって、なぜ急に羽虫なの」
「家のどこからか湧いてしまって。変な羽虫。それもたくさん。嫌になる。冬なのに。古い家だからかしら」うんざりと言う彼女。「だから最近は、家にいる間ずっと、羽虫を潰してるみたいな生活。もう何百匹殺したかわからない」そこでひとつ、ああ、と溜息。「だから、心許ないのかしら」
「どういうこと」
 二度目。私も嫌になる。
「相手は虫だとしても、直接殺すことに慣れてしまっていくこと。ねえ、だって一歩間違えたら、いつか、人ひとり殺すことさえ躊躇しなくなってしまうかもしれない」
 ひやり、とする。彼女の声に、生々しい響きを感じたから。
「まさか。虫と人は違いすぎるでしょう」
「でも、私には人を殺す理由を、指先で羽虫を殺す理由みたいに、いくらでも思いつけてしまうから。嫌な奴でしょう」
 そんなことない、とも、そうだ、とも言えなかった。私はいつもそうだ。彼女が語る出来事に、何も言えない。けれどいつか言われた。だからあなたに話しちゃうの、と。懺悔みたいに、話してしまう、と。
「もしかしたら、いくら理由を思いつけても殺せないから、代わりに羽虫を殺してるのかもね。それなら私は、何度あの人を殺したのかしら。でもいいわよね、それに値するだけ、私は傷つけられた」
 私はもどかしい。
「それか、私自身を殺してるのかも。何百もの自殺。あの人に逆らえない自分を、ね」
 私はもどかしさに耐えきれない。口を開いた。
「ねえ、あなたはいったい」私は彼女の目を見た。腫れた瞼より、充血した白目より、真ん中にある黒い目を。「いったい、誰を殺しているの」
 彼女は笑った。そして、目を逸らした。私は彼女が嫌いだった。

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