// ひとびと

 喫茶店の主人が交通事故で亡くなったのは、一ヶ月前。見知らぬ鍵が郵送されてきたのは、二週間前。そしてその鍵が喫茶店の裏口の鍵であることを知ったのは、一週間前のことだ。夏のにおいがしはじめた、七月初旬のころだった。
 雨が降っていた。ざあざあと止む気配を一向に見せないで、私のビニール傘と足下を濡らしてゆくばかりだった。はあ、と思わず息つくと、雨でぬるくなった空気が肺をしっとり湿らせた。なんだかしゃくに障ったので、私はほんの一瞬息を止める。少しだけ雨が遠のいた気がした。気のせいだった。また呼吸を戻すとき、私は雨が嫌いだ、とはっきり思った。
 喫茶店は商店街へ続く通りの角を曲がってすぐそこにある。レンガが積み重なった壁と、くすんだ金色のドアノブが取り付けられた茶色の扉。そして心ばかりのちょっとした屋根がある程度の、シンプルな外装だ。この店は何年も気にしてなくても、いつまでも変わらずそこにありそうだ、と私は見るたび思っていた。しかしそれはやっぱり思い込みに過ぎなくて、主人が亡くなってからしっかり、はっきりと変化を見せていたのだ。
 扉には「閉店しました」と丁寧に書かれていただろう紙がそのまま乱暴に張られていた。ビニール袋にでも入れておけばもうちょっと良く保存できたろうに、一ヶ月前から張られていることも雨のこともあって字が滲んでしまい、開店したのだか閉店したのだかよくわからないことになっていた。それでも、この店のあまりに静かすぎる様子を見れば、すぐに閉店したのだと察することができるだろう。私はドアノブを軽く回して開かないことを確認し、念のためノックもしたけれど、やっぱり反応はなかったので扉を離れた。
 そのまま喫茶店のくすんだ壁をつたってまた曲がると、今度は細い路地に出る。隣の民家の塀とひどく近く、人ひとりしか通れないような狭さの道だ。傘も満足に広げられないそこに私は身を縮ませながら、無理矢理喫茶店の裏口前に滑り込む。その際傘のしずくが肩にたくさん落ちてきて、ひどく不快だった。
 裏口はずっと前から手入れをされてないようで、少し背の高すぎる木々に囲まれている。だからいつでも陰っていて、この時期にはとても涼しかった。けれど同時に地面は敷石のない茶色の土だけだったので、朝からの雨でぐちゃぐちゃのそれは、しっかりと私の靴を汚していった。買ったばかりの靴でないにしろ、それもやっぱり私にとって不快なことだった。たった一メートルで、こんな、もう、と憤慨しながら乱暴に裏口の鍵を開け押し入る。するとすぐ目の前のカウンターで男が頬杖をついて座っていた。もう電気が通っていないこの店は、こんな雨の日や夜になるととても暗くなる。そんな中でも彼の呆れた顔は、ひどくはっきりと見えてしまった。
「何してるんだ、おまえは」
「……雨よ。わかる? あ、め」
 わざとらしく、嫌みったらしく、はっきりと発音した。すると彼もまたアメリカのドラマか何かみたいにわざとらしく、嫌みったらしく、肩をすくめて応えてみせた。
「今日が雨なのはわかってる。おまえじゃないんだから」
「わざと言ってるのね、いいでしょう、いいでしょうとも。あのね、あなたが客側の、表の扉を開けっ放しにしてくれれば、こんなわざわざ裏口から入って服が濡れることも靴が汚れることもなかったってこと」
「不用心だろ。扉を開けっ放しなんて」
「どうせ私とあなたしか来ないでしょうが!」
 私が悲鳴みたいに声をあげると、彼は愉快そうに肩を揺らして笑った。憎らしいことに彼もまた、主人から鍵をもらった人間だった。いわく、この喫茶店の元店員であると。そして、表扉の鍵を持つ唯一の人間でもあると。初めて会ったときも今と同じカウンター越しの出会いであることを、私は忘れられていない。
 最初、たしか私は彼の眉を見ていた。長めの前髪に透けて見える、きりっとしたきれいな眉だ。薄暗闇の中で、私はそれを懸命に目に焼き付けていた。彼もまた、私の顔あたりを見ていた。瞳ではない気がした。ならばいったい、彼はどこを見ていたのだろうか。今となっても私にはわからないし、彼も覚えていないことだろう、が。
 彼はゆるやかに、唇を動かして、言った。
「裏の鍵」
 彼は細い長い指で、私の手に持つ鍵をすっと指さす。まるで名探偵が犯人でも当てるみたいに迷いがなかったので、とてもどきどきした。それでも平然としたふりをして、静かに返す。
「そうみたい」
「どこで手に入れたんだ。泥棒か」
「違う。私宛に送られてきたの。封筒だったんだけど、差出人の名前に覚えはなかったし、中には鍵しか入ってなかった。だからどうしようもなかったんだけど、しばらくして、商店街のおばさんとお話ししている最中、ふとしたきっかけで喫茶店のご主人の名前だってわかった。だからもしかしたら、これは喫茶店の鍵かもしれないと思って、試しに、鍵穴に、さしてみた」
 これは犯罪だ、という考えが唐突に浮かんで、喋る口が重くなった。それでも言い切ってしまって、後悔の念が頭によぎる。けれど彼にとって私がそんなことをしたなんてことは、どうでもよさそうだった。ただ重要なのは鍵がここにあること、そして。
「開いたと」
 それらの事実が何より、気になっているようだった。私は頷いて彼の言葉を続かないことを確認し、尋ねた。
「それで、あなたは誰? ……ご主人じゃ、ないでしょう」
 私の想像する主人とは、遠く遠く離れていた。それでも万が一、と思い、どこかおびえていた気がする。しかし幸い、その予想は外れた。
「店員。元。いつも仕事を終えて帰るときに表の扉を閉めるのが俺の役で、裏の扉を閉めるのがマスターの役だった。だからマスターが死んでも、表の鍵は俺が持ってる。でも、お前はどうしてだ。なんで持ってるんだ」
 きっ、とにらまれるのに尻込みながら、なぜだか私もにらみ返しながら、言った。
「知らない、私だってわからない。だって全部、さっき言ったとおりだもの」
「なにより、なによりだ」
 私の言葉を聞いているのかいないのか、彼は思うがままに喋っていくだけだった。ぐらぐらと、頭が揺れている気がした。気持ちが悪かった。
「なんで俺をマスターと間違えたか、だ。鍵をもらうほどの仲なのに、マスターの顔を知らない、なんて。冗談だろ」
 まったくだった。一瞬の沈黙の後、なるべくためらわず、彼のぱっちりとした一重のまつげを見ながら言った。
「知ってはいるの。あの人も、私のことを知ってはいる。でも互いに、見たことがない」
「は」
 馬鹿にした笑い顔だった。そのとき私は、どうやら一から話すしかないことを感じたのだ。
 私が初めてここを訪れたのは、まだ冬の頃だ。肌寒い空気の中、一人でのろのろと道を歩いていた。好きな人にあげようとしていたクッキーをあげられなくて、落ち込んでいたところだった。けれど捨てる気にも自分で食べる気にもなれなかったから、誰かにこれを押しつけたかったのだ。ちょうど喫茶店を通りすがるところだったので、お客さんか主人にでも、よろしければってあげちゃえ、と思って入った。けれど客はおらず、ただエプロンをつけた背の低い綺麗な女の人が、カウンターでぼんやり立っていた。はじめ、その女の人が主人だと思い、話しかけた。
「すみません、詳しい事情は話せないのですが、クッキーをもらっていただけませんか」
 今思うとすごく怪しくて馬鹿みたいな話なのだけど、女の人は疑問を口にすることも気味悪がることもなく、
「美味しそうですね、ありがとうございます」
 と、にっこり微笑んで言ってくれた。私がそれが嬉しくもあったし、申し訳なくもあったし、そして何より悲しくなって、その場で泣いてしまった。自分でもびっくりするぐらい涙がぽろっとこぼれて、どうしようもなかった。慌ててぬぐってもぬぐっても間に合わず、涙が頬に床に滑り落ちた。泣きながらも、さすがにそのときばかりは、この短い人生できっともっとも馬鹿な瞬間だろうなあ、と心の底から思ったほどだ。それでも馬鹿は泣き続けて泣き続け、その間彼女はクッキーを大事そうに奥にしまって、紅茶をいれて差し出してきた。
「クッキーのお礼です。よろしければどうぞ」
「そんな、すいません、すいません」
 鼻をずず、とすすりながら嗚咽の中でなんとか言った言葉も、自分の耳にすら曖昧に届いた。けれど彼女はゆっくり首を振り、むしろどこか申し訳なさそうに、口を開く。
「すみません、こういうことはよくあるんです、私の周りでは」
 私が首を傾げると、ほんのすこし迷った後、彼女は微笑みながら喋り始めた。まるで子供に絵本を読み聞かせようとする母親のように。
「ええと、説明が難しいのですが。……なぜだか私は、いろんな人のいろんなタイミングによく鉢合ってしまうらしくて、反応を過剰にさせてしまうんです。普通の知らない人に、いたって普通のことをするだけで、ものすごく。たとえば今のあなたみたいに泣かせてしまったり、大喜びさせてしまったり、あるいは怒らせてしまったり、ずうっと笑わせてしまったりしました。そういうことは本当にたくさん、たくさんあったのですけど、過去で一番ひどいなあ、と思ったのは、「空が青いね」と友達に言ったら、通りすがりのおじいさんに頭を殴られたことです。一発殴られて、二発殴られて、三発目は蹴られました。それから先はどうやられたのか覚えてませんが、とにかく私は殴られ続けました。おじいさんなのにすごい力で殴ってくるので抵抗できませんでしたし、友達もおろおろすることしかできませんでした。でも殴られているうち、ひどく頭がすっきりしてくるんですね、すっごく、おかしいことだとわかってるんですが。あれ、おじいさんももしかして、今の状況に戸惑ってるんじゃないかしら、なんて。そのあとおじいさんは満足したのか冷静になったのかわかりませんが、その場を去りました。慌てて友達が駆け寄ってきましたが、私はぼうぜんと、おじいさんの背中が見えなくなるまで見ていました。……結局自分にも相手にも、いつだって何が原因なのかはっきりしたことはありません。ただただ誰もが戸惑うばかりで、とにかく相手が落ち着くのを待つしかないんです。でも収まり始めると、相手はやけにすっきりした顔をして去っていくのが、どうにも忘れられないんです。そこで私は、ああ、自分はきっとこういう役割なんだろうなあ、と思いました。五十にして天命を知る、じゃないですけど、あのころはまったく若い学生で今にしても自意識過剰なのかもしれないですけど。私は人の理性のストッパーをふいに外してしまう役割があると思ったんです。そうしてストレス解消というか、その人たちの容量に収まりきらないものを、消化してゆく。決していいこととも悪いこととも言い切れないのですが、私は少なくとも、ちょっとはいいことであると、考えているのです」
 店には、彼女の声の余韻がしみわたっていた。紅茶はすっかりぬるくなっていた。彼女はまぶたをつむり、何か思いはせているようだった。私はカップを手に取る。動作はゆっくりと、それでいて頭の中はめまぐるしく、はやくこの紅茶を身体に取りこんでしまいたかった。そうすることで、どうしようもなく魅力的で悲しくて虚無感にあるこの空間すらも、取り込めるような気がしたのだ。酸味のある紅茶だった。それが私の飲み込んだ涙のせいなのか、紅茶のもともとの味なのか、私には判断がつかなかった。
「ありがとうございます、とても、美味しかったです」
「良かった。くだらない話をして、ごめんなさい。BGMみたいに聞き流してくれればなんでも良かったのだけど、あなたがよく似てるから、つい話してしまったみたい」
「よく似てる、んですか」
「ええ。今はちょっといないけど、この喫茶店のマスターと、とても、ね」
 そこで私は彼女が喫茶店の主人ではなく、ただの店員であることを知った。その日は結局夕方まで喫茶店の隅で泣いて、時に入店してくる人たち半分ほどに驚かれた。彼らは気にしてないふりをしながら、ちらちら私を見たり、ぼそぼそと連れ合いと話していたりした。それでも私を本当に一切気にしない人たちも半分いて、やっぱりこの喫茶店はどこか特別なのだということを感じた。
 それから数日後、私が買い物帰りに喫茶店を通り過ぎようとすると、彼女がぱたぱた追いかけてきた。エプロンを見るに、どうもわざわざ店の中から出てきてくれたらしい。
「こんにちは。ごめんなさいね、慌ただしくて」
「いえ、とんでもないです。ええと、それで、どうしたんですか。私にご用ですか」
「ええ、もちろん。あの人が……あ、喫茶店のマスターがね――ふふ、こう呼ばないと怒られちゃうの――あなたのクッキーと自分に似てるっていうあなたをいたく気に入って。似てるっていうのは、私が勝手に言ってるだけなのに、ごめんなさいね。うん、それでお礼にどうぞって、これを」
 差し出されたのは、紙皿の上にラップで包まれたミルフィーユだ。けれど決して簡素なものではなくて、ミルフィーユだけ見ればしっかりとした作りの、売り物になりそうなほどのものだった。つるつる光るキャラメリーゼを見つめながらも、あんまりに雑な包装とのギャップがなんとも言えなくておろおろしていると、彼女はくすくす笑い始めた。
「だめよね。お菓子をこれだけしっかり作っておきながら、締めの包装は適当なんだもの。あの人は本当のこと言うと、飲食業に向いてないと思うの」
 最後の一言を彼女があんまりにきりっと言うものだから、ちょっと笑ってしまった。それから、ちょうど今主人が店にいるからよければいらっしゃい、とも誘われたが、買い物帰りであることと手持ちがないことを理由にお断りした。
 けれどそれが切っ掛けとなって、彼女を介した主人との交流が始まった。お菓子のお返しとして私がまたお菓子を作り、いくらかして彼女が店を通り過ぎる私を見つけ主人の作ったお返しのお菓子を渡し、また私がお返しのお菓子を作り、と止めどころがわからなくなるほどに。そうはいっても結局月に一度か二度ほどのやりとりだったので、さして苦にはならなかった。そしてその間、私が主人と会う機会は何度かあり、けれど結局会うことはなく、主人は交通事故で亡くなり、喫茶店は閉店した。互いに名前も見た目も声も、何もかも知らないまま。
 私は、たしかにここなのだろうか、と考える。喫茶店内を軽く見回しながら、どこかで主人のおもかげを見つけようとする。この数日間で、何度もそうしようとした。でもやっぱり見つからなかった。探すにしてはあまりにも、主人を知らなすぎた。ここに主人が立っていて珈琲や紅茶を淹れていたのだろうか、と想像もしてみた。けれどやっぱり、想像も曖昧に終わるしかないのだ。きっと喫茶店を出て行ってしまえば、私は喫茶店の細かい装飾すらもはっきりと思い出せないだろう。ただはっきりと思い出せると自信があるのは、そこにいる彼だけだ。
「どうした、ぼんやりして。ああ、いつものことか」
 彼のいつもどおりの嫌みったらしい言葉に、なんだか馴染んできた自分に気がついた。
「……思い出してただけ。あなたと最初に会った日と、ご主人と最初に、うん、最初に関わった日」
 彼は馬鹿にした笑いを小さく見せて、言った。
「俺と会ってからまだ、一週間しか経ってないだろう。思い返して懐かしむような時期じゃない」
「何かしら思い返せるほど、一緒に居すぎたよ。つまんないことしかしてないだろうに」
「たしかに」
 それで、沈黙。この五日間、私たちはなぜか朝から晩まで喫茶店にいた。文句を言いあったり、なぜ主人が私に鍵を送ってきたのか考えたり、喫茶店じゅうを何か答えはないかと探したりした。しかし三日目辺りには、狭い喫茶店ではとう飽きていた。それでも私たちは、この喫茶店に執着せざるを得なかったのだ。それぐらいは許されるはずだ。執着できるのだって、もう数えるほどしかないのだから。
 今日が喫茶店を潰すかどうかが決まる日らしいと知ったのは、つい先ほどのことだった。彼いわく、ただでさえ営業不振で、主人が趣味として金を費やしていたからこそ続けられた喫茶店であり、主人が亡くなった今となってはマイナスの意味しか持たないのだ。そこで元の地主である主人の父が取り壊すかどうかと本日中に決める、ということだ。
 聞いたとき、決して驚きはしなかった。客が満員、なんて姿をいつだってこの店は見せなかったし、値段だってそれを補えるほど高いわけではなかった。いつかそうなるだろうと思っていたことが、すこし、早すぎただけだ。
 その話をしてからはどこか私も彼もせわしなく、そわそわしていたように思う。
「壊されてしまうかな」
「わからないぞ。突然珈琲か紅茶の美味さに目覚めて、マスターの跡を引き継ぐかもしれない」
「なさそうだなあ」
 めずらしく毒のない、くだらない話をしていると、突然表扉が開けられた。私はとてつもなく驚く。なぜなら表扉も裏口も鍵が閉められ、鍵を持っている人間でないと入れないはずだからだ。けれど彼は驚いた様子はなく、ただ落ち着いて、入ってきた人へ向かって笑って言った。
「それで、どうだった」
 入ってきたのは、彼に教えてもらった名前があっているならば、吉岡さん。私と主人をつなぐ、唯一の人だった。いつもより疲れて困った顔で微笑み、首を振る。
「だめだった。ごめんなさい。本当に」
「ああ」
 吐き出すような、彼のつぶやき。
「やっぱり」
 私も、なんとかつぶやく。やっぱり。それだけしか、言えなかった。誰しもが諦めていたことだったのだ。すべての中心に主人がいて、その主人が亡くなったのだから、どうしようもなかったのだ。私も彼も吉岡さんもつい、だんまりになっていたが、しばらくしてぎこちなく吉岡さんが動いた。
「喫茶店が潰れることが決まったから、手続きについて、ちょっといろいろやってくるね」
 とだけ言い、店を出て行った。去り際、「ゆうちゃん、ほんとごめんなさい。ほんとうに」と弱弱しく彼に呟いた。彼はうなずくだけで、何も言わなかった。
 聞いた時はさしてショックを受けなかったと思っていたのだけど、どうやら私は本当にショックだったのか、その後の記憶が曖昧だった。壊れたラジオが頭の隅に置かれていて、録音された会話だけがぐるぐると延々再生されている気がした。でもその会話を聞いてると、私は果たして喫茶店がなくなることがショックだったのか、彼の言ったことがショックだったのか、わからなくなったのだ。
「吉岡さんは」
「うん」
「なんでここに入ることができたの」
「マスターから予備の鍵を預かってたから」
「うそつき」
「なにがだ」
「表扉の唯一の鍵を持ってるのはおれだ、って言ってたじゃない」
「持ってるとは言ったけど、唯一は言った覚えがない」
「やなやつ」
「頭悪い奴のほうが嫌な奴だ」
「うるさい、まあいいけどさ。うん、吉岡さんはさ」
「うん」
「綺麗だね」
「うーん」
「好きなの」
「なんでだよ」
「今の暗い雰囲気が嫌だから聞いた」
「なんだよそれ。別に好きじゃない」
「嘘だ。あんな綺麗で素敵な人がそばにいたら、好きになるしかないよ」
「吉岡さんは無理だよ」
「なんでさ」
「おばさんだから。あ、年齢的な意味でなくて、血縁的な意味で」
「ええ? じゃあ、なんで吉岡さんって呼んでるの。あなたは吉岡君なの」
「店内でおばさん、なんて呼べるわけないだろう。あと名字は母方のおばだから違う。教えないけど」
「なんでさ!」
「ここまで教えないでいるんだから、もったいない。いつでも教えられるんだから、教えられないところまで教えない」
「調子乗るなよ、ナントカゆうちゃん」
「うるせえよ」
「でもおばさんとなら結婚できるんじゃないっけ」
「何すすめてるんだよ。それに、吉岡さんは結婚してる」
「えっ誰と」
「マスター」
「あ、そうなんだ。知らなかった。指輪してなかったし」
「仮にも飲食店だからな」
「そう、仮にもね。ふうん、ああ、ほんと、知らないこと多すぎるなあ。でも納得した。それでは無理だね。うん、じゃあ好きな人いないの」
「お前、とでも言ってほしいの」
「そういうサービスいらないからさ、早く言って。質問攻めにしてあげるから」
「女って面倒だなあ」
「女が面倒じゃない。私が面倒なだけ。さあ、言ってみて」
「俺が好きなのは」
「うんうん」
「本当に言うのかよ」
「ああ、本当に言ってくれるんだ、どうぞ」
「ひでえな、お前。いろいろと粗いぞ」
「気にせず。フォローは頑張るから、さ、どうぞ」
「俺が好きなのは」
「うん」
「マスター。もういないけど」
 あ、ホモか、と私は不覚にも驚いてしまったのだった。
「お姉ちゃん、アイスはー」
 家に帰ると私はすぐさまリビングで寝転り、風呂上がりの妹はいまだ髪をぬらしたまま、すぐ隣の狭いキッチンをうろうろと彷徨っていた。同じ血を継いでいるはずなのに、妹はなぜだか私よりずいぶんスタイルが良かった。背がちょっと高めで、なにより細い。特に腰まわりだ。いつみても、帰宅部のはずがどうしてここまでくびれているのだろう、というほど細かった。なにより浮き出た鎖骨のラインが、私は一番好きだった。けれど顔立ちは多少似通っているので、あまり好きじゃない。
 私の視線の上でショートパンツを履いて惜しみなく太ももを晒す妹を、静かに見ていた。
「聞いてるの、お姉ちゃん。アイスだってば」
「アイスなんて買ってない」
「ええ、なんでさ」
「最近買い物に行く暇がないから」
「え、え、何? とうとうバイトでも始めたの」
 ひょっこりと顔をのぞかせる。そのとき髪からしずくが飛んできて、床と私をちょっと濡らした。
「まさか。ちょっと喫茶店に通いつめてるだけ」
「……お姉ちゃん、あなた、家事手伝いって名前のただのニートでしょ。お金使う暇があったら、とっとと働きなよー。ああ、私にクッキー作ってくれるだけでもいいからさ。ね、働きなさい」
 尻を踏まれる。踏んできた足を叩く。
「いったあ」
「もう一度言ったら、つねるからね」
「怖いニートだこと」
 妹は笑って逃げた。高らかな鈴みたいな声だった。
 リビングで一人になって、思わずため息をつく。私も彼と変わらないのか、と。彼は主人が好きだった。そして私は、妹のことが好きだった。
「お前が妹のことを好きなのは、なんとなく分かってた」
 次の日、早くに喫茶店へ向かった。打ち明けてくれた彼になんだか突然申し訳なくなって私はつい、妹が好きなんだと告白をしたが、なんら驚いた様子はなくこう言われたのだった。私はせっかく告白したのに分かっていた、なんていうのがなんだかしゃくで、不貞腐れながら彼に尋ねた。
「なんでわかったの」
「俺と出会って三日目か、四日目か。妹が偶然喫茶店の前を通ったろう」
「通った」
 覚えていた。
 よく晴れた日だった。夕方の四時ぐらいで、やっぱり彼とぼんやり喫茶店にいると、ちょうど妹が店の前を通ったのだ。制服を着ていて、一人でとぼとぼ歩いていた。カウンターからはそれがはっきりと見えて、あ、妹、と私が思わずつぶやくと、彼も椅子を回転させて振り返った。もう背中ぐらいしか見えなかっただろうに彼は、おまえと似てたな、とぼやいた。私はそれに応えないで、きっと商店街にアイスを買いに来たんでしょうね、あの子アイスが好きだから、とひそやかに笑った。そうか、と彼も深追いしなかった。私はいつだってこんな会話をするたび、嬉しいような悲しいような気持ちを抱いていた。
「あのときお前は、「あ、妹」って言って、妹を視線で追い掛けた」
「追いかけた」
 うん、と頷く。彼もまた、うん、と頷いた。
「それだけ」
「それだけ? それだけでわかるものなの」
「俺には見覚えのある表情だったから」
「えー、どんな表情なの、いったい。それにしても、あなたにばれているっていうことは、もう他のみんなにばれてるんじゃないの」
「ばれてないだろうよ。そうあるもんじゃないからな」
「ああ、うん、たしかに」
 大きく頷いて、もう一度口の中で、うん、たしかに、と呟いた。姉が妹への片思い、つまりが近親相姦一歩手前なおかつ同性愛なんて、できすぎてるにもほどがある。
「あ、あと、話は変わるのだけど。あなたにならわかると思ったから、言いたいのだけど」
「なんだ」
「好きに理由があれば良かったと思わない?」
「また、どうしてだ」
「だって、理由があれば反論できるもの。本当は好きじゃないってことにして、諦めることだって、できたのに、ね」
 ね、という語尾は、やけに店に響いた気がした。彼は答えなかった。私もそれから何にも言わないで、ただただ黙っているだけだった。
 その日は昼頃にもう店を出ていた。さすがに買い物係の私が何日も買い物に行っていないせいで、家の食糧がもう尽きかけていたのだ。喫茶店にいられないのは惜しいけれど飢え死ぬわけにもいかまい。仕方なく買い物を終えた途中、妙に眠そうで疲れたような、しかし見慣れた女の人がいた。
「あ、吉岡さん」
 思わず声をかけると、彼女はわざとらしいぐらいしゃきっと背筋を伸ばして振り返った。
「あら、こんにちは。名前を呼ばれたから、ちょっとびっくりしちゃった」
「すみません。あの、彼から名前を聞いたので」
「ううん、別に謝られることじゃないからいいの。ふふ、それにしても外で会うなんて珍しい。今日は喫茶店、行かないの?」
「いえ、今日はもう行ったんですけど、用事でちょっと。……ところで聞いていいですか」
「うん、なあに」
「私に鍵を送ってきたのは、吉岡さん、ですよね」
「うん、そう。私。あれ、言ってなかったかしら、ごめんなさい。最近忙しくて、いろんなことを忘れてしまって」
 あわあわとされたが、今さらそんな慌てられることはない。私は静かに、どうして送ってきたのかを尋ねるだけだった。吉岡さんはうんうん頷いて答える。
「うんとね、マスターが冗談で鍵を封筒に入れながら言ったの。「もし私が死んだら、鍵をこうして郵送してくれ」って。「私とあの子が会わないのはまだしも、あの二人が出会わないのはもったいない。でも普通に会うのも面白くない。だから客の子に裏口の鍵を、あいつには表扉の鍵をやるんだ」って、子供みたいに。マスターも笑っていたから、ええ、わかったわって了承したの。そうしたら、本当に」
 しみじみとそう言う吉岡さん。真実は案外シンプルなものだなあ、と他人事みたいに考えた。
「わからないものよね、人なんて」
「ええ、本当、本当に。……ああ、すみません、変なところで引きとめてしまって」
「あ、いいの。写真屋に現像してもらっただけだから。ほんのついさっきにね。ああ、喫茶店でいくらか撮ったものもあるの。ゆうちゃんのもきっとあるけど、見てみる?」
「いいんですか、是非」
 雨がまた降っていた。ごちゃごちゃする頭の中で、そう言えば天気予報では晴れのち雨だったなあ、とか考えている。けれどそんな雨の中、また喫茶店に裏口から押し入る羽目になるなんて誰が考えたのだろう。少なくとも私は考えていなかった。しかし彼は多少予想していたのではないか、と思うのだ。八つ当たりのように乱暴に裏口の扉を開けると彼はやっぱり、いつもの位置に気だるげに座っているだけだ。
「なんだ、急に入ってくるなり」
 私は言葉を発しようとしたが、なんと責めればいいのかわからず、とにかくその原因である写真を突き付けた。そのとき、ようやく一瞬冷静になって吉岡さんから了承なく奪ってしまったことを思い出したけれど、すぐに頭から消え失せた。
「これ」
「この写真がどうかしたか」
「この真ん中の人!」
「この人がどうかしたか」
 彼がどこまでしらばっくれるつもりなのか、私は知らない。ただ、彼は真実を語るつもりではないことは、たしかだった。しかし私にはきっと、知る権利があるのだ。少なくとも、鍵にはそれだけの価値がある。私はそう、信じていた。
 その写真は、きっとまだ建てられたばかりだろう小綺麗な喫茶店の正面で、従業員の三人が並んでいるものだった。左に吉岡さん、右に彼。そして真ん中に主人だろう人だ。そしてその人は。
「この女の人が、ご主人なのね」
 彼は静かに頷いた。いつもの嫌な笑いは、見せなかった。
 喫茶店の中は暗闇だった。雨のせいでもあるし、もしかしたらもうとっくに夜なのかもしれない。そうしたらきっと、妹のために買ったアイスは溶けている。他のものも、腐ってたりなんかしないかしら。私はそんなことを考えて懸命に平然ぶりながら、けれど浅く息を吸いながら雨が窓と屋根を叩き付ける音を聞いた。彼の気配は、しっかりとそこにあった。彼は私に聞こえるぐらい深い呼吸を二度して、語り始める。
「わかれば簡単な話だろう。吉岡さんからどこまで聞いたか知らないけど、写真を見たとおり、マスターが女性なのはたしかだ。だから吉岡さんがマスターの嫁じゃないこともわかるだろう。でも俺は吉岡さんにマスターの嫁であってほしかった。マスターは吉岡さんのことを、本当に愛していたからだ。でもマスターは女で、吉岡さんも女だ。吉岡さんは他に好きな人がいたわけじゃないけど、マスターに恋愛感情を持てなかった。そもそも、そんな対象としては見ていなかったんだ。世の中うまいこといかないもんだ。そんな中マスターは亡くなって、喫茶店もなくなって、こんなひどい話はないと思った。そうしたらお前が現れた。お前はどうもマスターを知っているけれど、性別も何もかも勘違いしていたようだったから、ほんの慰め程度に、遊びみたいに勘違いさせた。最初はそう思っていたけど、たぶん俺はとても真剣だった。せめてお前の中にだけでも、マスターは男であり、吉岡さんと結婚してあって欲しかった。俺はマスターに幸せになって欲しかった。わかるだろう。俺はマスターのことが好きだったからだ。ただ、それだけだ」
「うそ」
 はっきりと言った。彼は少し目を見開いて驚いたけれど、すぐにいつも通りの気だるい表情に戻って肩をすくめた。今度は嫌みっぽくない。ただただ、嘘がばれたこどもみたいな、いたずらっぽい仕草だ。
「……そう、なにより大事なことがあったな。そうだ、マスターは俺の母親だ。そして吉岡さんは、その妹。俺のおばさん。だからマスターは、お前と一緒だ。近親相姦……とまではいかないけどな。同性愛者。そして俺がいる証拠として、異性愛者でもあった、かな。終わりだ、今度こそ」
 それから彼は、何も語らない。なぜマスターを好きになったのか、なぜマスターは吉岡さんを好きになったのか、彼の父親は。すべてを。けれど、必要ないのだ。好きに理由はないし、あればきっと自ら反論して、諦めることができたのだから。それでも私は一度声をかけようとしたが、ためらった末、やめた。ねえ、もしかしたら気のせいだったのかもよ、と。吉岡さんとずっと一緒にいたから、吉岡さんの人の感情をふくれあがらせるあの何かにやられてしまって、主人もあなたも家族愛が恋愛感情になってしまっただけなのかもしれないよ、と。だから、だから、とまで思いついて、でもやっぱり主人と彼の感情は勘違いであっても、もう行き着いてしまったものだから、どうしようもないことに気づいた。
「ねえ、最後にひとつ、名前だけ教えてよ」
「いわない」
「どうして」
 彼は笑い声をひとつだけあげて、言った。
「俺の名前を言えば、マスターの名前がわかる。そうすれば、もう親子の関係が成立してしまう。だめなんだ。俺はマスターをマスターと呼び続けて、親子でないふりをして、俺なりに好きであり続けるんだ。すごくくだらないことだと思うだろうけど、もはや俺にとって、唯一最後のものなんだ」
 それから本当に、彼は何もしゃべらなかった。しばらくして彼の嗚咽が聞こえた気がしたけれど、きっと気のせいだったのだ。だから私は、裏口から静かに出て行った。鍵は土の上にそっと落とす。すぐに雨に打たれ、土にまぎれ、見えなくなった。あんまり上手に隠すのを見て、だから私は雨が嫌いだ、本当に嫌いだ、と思わざるを得なかったのだ。

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