// しきゅう

 しきゅうというのは、きゅうというぐらいなのだから、とても丸いものなのだろう。わたしは想像する。まるい、まるい、なんの歪みもない、球体を。色は赤く、黒く、わたしの知らない液体でぬるりと照っている。しかしそのハイライトさえ、歪みない。
 しきゅうはそのままではいられない。丸なのだから、転がるのだ。地球が丸いのは、しきゅうのような球体が転がるために丸いのだ。ならばしきゅうは転がざるを得ない。ゆるやかに、やさしく、地球の肌をなでるようにしきゅうは動きだす。だが今にも止まりそうなほど、遅かった。わたしはいくらでも追いかける気でいたが、しばらく見ているだけでも、十分追いつけそうだった。わたしはそれがもどかしくて、つい手を貸した。長細い棒で、ちょうどしきゅうの真ん中を押す、押す、押す。はじめ、しきゅうをこのまま突き刺して、この球体を壊してしまうんじゃないかと不安だったが、幸いやりやすいように、しきゅうの真ん中にはちょうどいい溝が生まれた。そう、しきゅうは生むものなのだ。子供を生むぐらいなら、溝なんてたやすいことだろう。美しい球体に溝が生まれたのは、ほんのすこし悲しい出来事なのだけど、しきゅうが満足であるならばそれでいい。しきゅうはわたしに身を任せる。しきゅうはこれで満足なのだろうか。この、細い棒なぞに任せてしまって。満足なのだろうか?
 ごろごろと、しきゅうは転がる。まっすぐと、迷うことなく、まっすぐと。それは清清しさすら覚える道筋だ。しきゅうはそのまま、大きくなってゆく。はじめわたしの膝ほどのしきゅうだったが、気が付けば私の背ほど、大きくなっている。重くはない。感触も変わらぬ。わたしはしきゅうを押し続けながら振り返る。しきゅうの道筋は点々と、赤い、黒い、私の知らない液体でぬるりと照っていた。まっすぐ引かれたその点線を、わたしはもう見ることはないのだろう、と思った。だからわたしは、また前を向きなおした。
 しきゅうは、いつになったら子を産むのだろう、と思ったのは、それからいくらかしてからだ。溝を生んだきり、しきゅうは未だなんにも生まない。これ以上大きくもならなかった。しきゅうが満足であればいいのはたしかだが、つまらなかった。わたしは今までよりも少し、つよくしきゅうを押した。すると、しきゅうが悲鳴を上げた。たしかに、女の悲鳴だった。あんまりに小さく、それでいて悲劇的だったので、驚いた。そして瞬間、音もなく、しきゅうの皮が剥けた。皮、なのだろうか。薄い、透明な、皮らしき、もの。しきゅうの影に落ちて、それきり。どうやらそれはしきゅうを覆っていたようで、しきゅうは心なしか、先ほどよりもでろんとだらしなくなった。美しい球体は、消えてしまった。わたしは思わず涙した。もはやただの肉塊でしかなくて、転がることすらままならない。溝も消えて、結局すべてがぜろになる。ただわたしの記憶の中で、美しい球体だけが照っていた。
 わたしは悲しくて、八つ当たりするみたいに、そしてしきゅうを憎むように、細長い棒でついつい、としきゅうの真ん中を刺した。しきゅうはやさしく抵抗するだけで、もう悲鳴は上げないし、皮も剥かなかった。ただまた、ゆるやかに転がり始めるそれだけだ。点々と赤い、黒い、わたしの知らない液体がぬるりと照っている。わたしはそれがなんだか許せなくて、とどめを刺すみたいに、細長い棒を両手で握って、突き刺した。しきゅうは抵抗しなかった。ただ、赤い液体が噴出して、そして次に膿みたいなものが出てきて、そして終わりに、水みたいなものが出てきて、おわり。おわりだった。しきゅうは割れた風船みたいに地面に寝転んでたし、その周囲は人が殺されたみたいに赤く黒く白く透明だった。
「しきゅう。しきゅうよ!」
 わたしはなめらかに発音した。しきゅう、と何度となく頭の中で思っていた美しい言葉の並びを、わたしはしっかり発音できた。わたしはうれしかった。そして悲しかった。しきゅう、と発音してしまったことで、わたしは改めてしきゅうについて、考えなければならなかったのだ。
 なぜしきゅうはしきゅうであったのでしょう。精巣であったりしてはだめなのでしょうか。そうすればわたしは最初からいろんなことを期待しないで済んだのに。うむだとかうまないだとか、そしてなにより、しきゅうを殺すようなこと、しなくて済んだのに!
 それからわたしは、三日三晩かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三かける三ぐらい泣いて、泣いて、泣いて、泣いた。
 ようやく涙が止まった時には、しきゅうがふくふく、膨らんでいた。ゆるゆる、ふくふく、そうして、丸みを戻してゆく。ふくふくふくふく。そうして、最後はいつかのしきゅうと同じ、美しい円を描いていた。はじめのころと同じ、小さな球体。わたしは、おそるおそるそれに触ろうとする。あの透明な膜が守っていたころのしきゅうとは、全然ちがう。グロテスクな球体で、わたしの想像とはかけ離れているのだけど、それでもわたしは触りたくて、しかたがなかったのだ。精いっぱい手をのばして、わたしは、わたしは。
「しきゅうよ!」
 人差指の爪が、かすかに触れた。目が覚めた。

 私は起きがけのトイレ、昨日買った妊娠検査薬を手に取った。妊娠は、していた。

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