// 音した

 彼はいつも、古いCDラジカセの再生ボタンを優しく押すのです。私の意思も愛情も何もかもを掬い取る、あの指で。
 彼は音楽という体裁をなしているものなら、なんでも聴いてなんでも愛すような人でした。ポップもクラシックもレゲエもメタルもアニメソングも、たとえ小学生の鼻歌さえも、すべてが彼の愛する範疇にあったのです。
 しかしその癖、彼はいつも古いCDラジカセで音楽を聴いていました。早送りもスキップ再生も、どころか画面を映すこともままならないそれを、彼は使い続けていたのです。どんなひどい曲も愛する彼でなければ、そのCDラジカセはとうに捨てられていたに違いありません。彼は音楽を愛するがゆえ、その機械すらも間接的に愛していたのです。
 ただ一度、私は彼に尋ねてみたことがありました。もしあなたが本当に音楽を愛しているのなら、それ相応のオーディオ機器を求めるべきじゃないかしら、そうでもなければ、そのあなたの愛する音楽たちに失礼じゃないかしら、と。彼は気分を損ねてはいませんでしたが、私の言葉が終わる前から既に、指をなめらかに動かして語り始めていました。
「音楽はおれたちが聞く時点で、すでに完成しているものだよ。たとえば昔のオーケストラを録音したやつなんて、音質は最悪だ。しかしそれでも、現代の立体音響なんて使ったオーケストラすら足元に及ばない場合がある。つまりがもはや、おれたちの関わるところじゃないんだよ。無論関わろうとすることは悪いことじゃないがね。結局自己満足なのだから、おれは小さな小さな自己満足として、このCDラジカセで聴き続けるんだ」
 私は黙って頷きました。彼は私の耳が聞こえないことを知っています。だからこそ、彼はこうして語ってくれたのです。しかし私は、何も語り返したりはしませんでした。決して、あなたの指で再生ボタンを押す音のほうが、音楽よりもよっぽど素敵な気がするの、とは。

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