// ね。

 彼の口からは、たしかに珈琲の、あの独特のにおいがした。私はそれに気付いてつい、小さなため息をついてしまった。
 彼はいつもそうだった。いつだって存分に、好きなだけ、自分の思うがままに振る舞った。欲しいものがあれば何をしてでも手に入れるし、気に入らないことがあればすぐに怒り狂って暴力に訴えた。子供のような人だったのだ。現に今日は私と会う約束なんて彼はしていなかったのに、私がいないのに勝手に家に入って、珈琲も私が自分で飲むために淹れたのに、了承も得ずに飲んでしまった。
 また、ため息をついた。でもそんな彼より誰より、彼を甘やかした私が一番良くなかったのだ、と今更思う。
 私は器量も性格も、決して良くない。かといって他に、育ちや何かがいいかと言えば、特別抜きんでるものなど持っていない。そんな私を、いや、そんな私だからこそ、彼は私を選んだのだろう。彼からしてみれば落としやすい女だったろうが、私から見れば初めて私を評価してくれた人間だったのだ。私は彼の思うがまま恋に落ちて、すべてをあげた。無償の愛も、無償の信頼も、無償の金も、何もかも。たった数年のことなのだけど、ふっと思い返すと、とてもとても遠い昔からのことのように思えた。きっと今の私は年相応に見られないのはもちろん、おそろしく疲れた顔をしているだろう。
 彼の向かいの席に座る。ついでに近くに置いておいた砂糖壺を覗いた。案の定壺いっぱいに入っていたはずの砂糖は彼が珈琲にたくさんいれたらしく、ずいぶんと減っていた。ミルクも同様のようで、珈琲を改めて見れば本当に珈琲が疑わしいほど、淡い茶色をしていた。
 私は彼に向き直る。やけにうるさい心臓を押さえようと深呼吸を二・三度したあと、ようやく口を開いた。
「いつも、いつもそうなんだから。勝手に好きなだけ、なんでもして。でもね、私、そういうところが好きだったの。あなたのどこまでも自分に素直なところ。うらやましかった。私もそうしてみたかった。だからね、私も生まれて初めて自分に素直になろうと思ったの。もうあなたにあげるお金も、そのために働く気力も、生きていく気力すらも、何もかもなくなってしまった。だから死んでやろう、って思って、昨日毒薬を買ってきちゃったの。毒薬って、意外と高くないね。粉状のものだったんだけど、普通の薬みたいに見えるし。それで、あなたの悪いお友達からあなたがまた変なところに借金したって聞いて、たぶん今日あたりうちにお金を借りに来るだろうから、家に来る前に死んでおいてやろうって思ってた。それで今ね、遺書を書いてたの。あなたと付き合ってから親とも友人とも誰とも絶縁して、あなたなんて遺書を読まないだろうにね、書いてたの。毒薬を流し込むための珈琲をリビングで淹れたことも忘れて、一心不乱だったわ。毒薬は砂糖壺に混ぜておいたの。ふっと自然に死ねたらいいと思ったから。珈琲に直接いれるなんて、怖くてできなかったから。でもそうしたら、あなたがやって来て、珈琲に砂糖壺から砂糖をいれてしまって……。ねえ、ごめんなさい。あなたを殺す気なんてなかったの。わかってるよね。初めて会って話したときにも私たちが飲んでたのは、珈琲だったものね。覚えてるわよね。私は甘いものがものすごく苦手だから、珈琲が大好きだったって、話したよね。あなたも大人ぶりたいからって珈琲が好きで、砂糖やミルクをいっぱいいれながら飲んでたものね。そう、私、最期にあなたが大好きだった甘い珈琲を飲みたかったから、砂糖壺に毒薬を混ぜたのよ。あなたが家に来ることを予想して、勝手に珈琲を飲むことも予想して、毒薬の混じった砂糖をいっぱいいれることも予想して、あなたを殺したんじゃないの。ねえ、信じてくれるよね。私があなたを何もかも信用していたように、あなたも信じてくれるわよね」
 返事はない。一呼吸。あらためて、人生できっと最も優しいだろう笑みを浮かべて。
「ね?」

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