// グリーンリバー・ライト

「イカの死体れ水に溶けんて、どろりと」
「クラゲなん聞いたことある、しかしイカは知らんね」
「クラゲ、そう、クラゲかん」
 人魚は照れることなく笑う。人魚は僕の祖母の家の近くにある川にいた。緑色ににごりきった川だった。流れはなく、生き物もいないようだった。しかし太陽に当たると不思議と綺麗に見える川でもあった。彼女が言うに、その緑色の川の底は底がなく、そのまま海につながってるのだという。私はそこから来た、とぬれた長い髪に藻を巻いてささやいた。声もじっとりと、ぬれていた気がする。
 一度汚くて耐え切れなくないかと尋ねたが、不思議そうにされただけだった。彼女いわくどこも汚くないのだという。水の中では時として海より美しいのだという。入ってみればわかるとも誘われたが、遠慮しておいた。
 僕はいつものように尻がごつごつ痛い中、川岸であぐらをかいている。彼女は水に沈んでいる。
「でも、知識だけの。クラゲ、本当に水に溶けん?」
「溶けんさ。どろりと。死んで、気が付いたら、もういん。かなしいよ」
 いつもおかしな口調なのに彼女は一言だけ、とても綺麗に発音したので、僕は思わずどきりとした。かなしいよ。その言葉はたしかに乾いていた。
「不老不死のクラゲもいんてに?」
「うちにはおらね。他の海にはいんて?」
 僕は頷く。
「ベニクラゲ、死ぬ直前にあかんぼに戻て。水族館で見う」
「もどて。すごんね」
「人魚は?」
「できう」
 人魚は首を振る。未だに言葉だけでは、そうであるのかそうでないのか、僕は判断に困るときがあった。イエスとノーの仕草を教えなければ、たぶん未だコミュニケーションが満足に取れなかったと思う。
 かといって大きな仕草は取れない。人魚はなるだけ川に浸かりたがっていたし、彼女は小さな胸をすこしも隠さずいたからだ。大概川に肩まで浸かっていたので見る機会はそうないし見る気もなかったが、見えてしまったらもうそこで僕らは終わりだったような気がしていた。
「できう」
「そうら」
「うぬ」
 しばし黙った後、彼女は頭に乗っかっていた藻を取りながらささやいた。
「人間は」
「うん」
「溶けん」
「水に?」
「骨は残んて」
「肉が溶けん?」
「母が言いてれ」
 人間は溶ける。初めて聞いた話だった。
「水ん浸かってれ、あるかんのお」
「やけ」
「ん?」
「私ぎ死んか、溶けんがも」
 小さく笑って、人魚は池にもぐっていった。最初はぷくぷく元いた場所に気泡が浮かんでいたが、いずれ小さい気泡もなくなった。静かな緑色の池だけが、そこにあった。
 それから人魚は姿を現さなくなった。だからよく晴れた日に僕はずぼんをできるだけまくって、そのいかにも気持ち悪い池に足を突っ込んだ。こけや藻がぬるぬるした。なにより底はあったし、浅くもあった。僕は腕も突っ込む。何か抜け穴があるかもしれないと思ったのだ。手に細長いものがぶつかる。池から出すと、白い骨に長い藻が絡んでいた。人の骨のようだったけれど、僕は実際に人の骨を見たことがなかったので、わからなかった。もしかしたら模型かもしれない、あるいは彼女の骨かもしれない。彼女の骨だとしたら腕のものか、それとも、僕が一度も見たことがない、足のものか。
 僕はそのままずるずる川に沈んだ。目元まで沈んで、僕がいつも彼女と話すとき座っていた場所を見る。口を出す。
「溶けん」
 頭の先まで川にもぐる。視界は緑色。川に光が差すと白い斜線がにごった緑色を美しく見せた。彼女の言うとおりであったのだ。そして、川がゆるやかに右から左へ動いていることも、そのとき初めて知ったのだった。
 そのまま僕はぼこぼこささやく。
「溶けん」
 ぼこぼこ気泡が上昇する。口の中に藻が混じる。僕はぎうと骨を握る。白い細い誰かのどこか。両手に握ったその骨は、たしかに、溶けない。

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