// その夕焼けは近く

 夕焼けを見た。
 日曜日が終わろうとしていた夜、私はぱっと目が覚めた。甘い優しい眠りの中で、私はオレンジ色の夢を見た。あれはたしかに夕焼けだった。だから私は、旅に出ようと思った。
 力の入らない手でブランケットを引きずり、ベッドから這い出る。暗いリビングへ。誰もいないし、音もなかった。明かりはつけない。目が暗闇に慣れてるからつけるまでもないし、その空間を壊すのはどこか忍びなかったのだ。すぐにでも旅に出るはずの私は、帰ってきてもこの空間であってほしかった。
 半分眠っている頭で、クローゼットに入れてあった小さなスーツケースを手さぐりに引っ張り出した。ずいぶん前、大学の卒業旅行で使ったきりのものだ。それが空であることを確認し、近くにあった引き出しの中身を何から何まで詰め込み始めた。夏服も冬服も、一緒にしまってあったマフラーもサンダルも。けれどすぐにスーツケースはいっぱいになってしまって、服の半分も入れられなかった。
 それでも仕方ないから必要最低限なだけ、なんて考えず、無理やり詰め込んで上からぎゅうぎゅう押し入れた。服がはみ出ているのも気にしないで、他のものを入れることも忘れて、ぎゅうぎゅう、ぎゅうぎゅう。まるで心臓マッサージのようだなあ、とまで思っていると、突然ぱっと視界が明るくなった。目がじんわり痛んで、思わずぎゅっと瞼を閉じる。
「明かり、消して。眩しい」
 すがるように頼むと目の前はまた暗くなり、代わりに小さな明かりがともされた。そっと瞼を開けると、キッチンの電気がつけられているのが確認できた。そして、その電気のスイッチである紐を手にしたまま、こちらを見ている彼も。少し、呆れているような表情だった。
「これでいい?」
「うん、大丈夫。ごめん」
「いいよ、別に」
 彼はそうして、いつものように紅茶を淹れ始めた。手慣れた仕草でお湯を沸かし、棚から茶葉とポットとティーカップとスプーン、そしてソーサーを。そこで彼は振り返る。
「飲む?」
「飲む」
 短いやりとり。私はスーツケースをそのままに、ふらふらテーブルの席に着いた。彼はもうワンセット、ティーカップを出していた。
「なんだか、とっても疲れた」
 彼の背中に向かって、つぶやいた。茶葉をすくいながら、彼は返す。
「日曜日が終わるから?」
「それもあるかも。日曜日が終わるのは、無性にさみしいし」
 本当は違う。私も彼もわかった上で、この会話をした。そしてどちらも、本当の会話をしようとしてなかった。今は、まだ。
「ぼくは、日曜日が終わるころは好きだよ」
「どうして? マゾなの?」
「なんでそういう話になるかなあ」
 そう言いながら、ちょっと楽しそうに笑った。湧いたお湯をポットに注いで、紅茶グッズすべてを盆に載せてテーブルへ。彼も席に着いた。そして至ってきりっと、まじめな顔つきで口を開く。
「うん、マゾじゃないからね」
「わかったから。理由をどうぞ」
 笑う。彼も結局微笑んでいた。
「日曜日を愛する人々が好き、って言ったら美しいかなあ」
「響きはとても」
「ならよかった。うん、まあ、それで、そのままなのだけど」
 そう言いながら、すこし考えたそぶりを見せた後、ようやく言い始めた。
「月曜日を憎しむ人、って言ったほうがもっと正しいのかもしれない。日曜日に家族と過ごしたり、友達や恋人とどこかへ出かけたり、結局何もしなかったりするでしょう。それでもそういう時間が偉大で、すごく素敵で、そういう時間が過ぎ去ることを惜しむ人。いっそ月曜日が来ることすら憎んでしまう人。いいなあ、って思うんだ」
「なんとなくわかる気がする」
「それなら良かった。じゃあ、紅茶どうぞ」
 うん、とうなずいて、紅茶が注がれたティーカップを受け取る。白いあたたかな湯気が顔をなでて、すこしくすぐったかった。しばらくお互い何も言わなかった。ただ彼の淹れた紅茶が美味しくて、静かに飲んでいた。彼はもったいぶることなく、一杯を二口ぐらいで飲み干し、おかわりを三杯ぐらいしていた。
 一息。彼が言う。
「それで」
「うん」
「実家に帰るの?」
「そう言われるとまるで別居のようだね」
「三行半を突きつけられてね」
「しないよ。ただ、うん、旅に出ようと思ったのです」
「旅かあ」
 そう、旅、と繰り返した。口にするたび耳にするたび、冷静に旅について考える。旅、たび、タビ。なんてさみしい響きなんでしょう。
 彼は首をかしげる。
「なんで、って聞いてもいい?」
「うん、大丈夫。だけど、うまく説明できないと思う」
「どうして?」
「……なんていうか、行きたいというより、行ったほうがいいんだろうな、って感じ」
「よくわからない」
 本当にわからないようで、困ったように眉を下げられた。そうされても、私もよくわかっていない。
「夢を見るの」
「夢」
「そう、夕焼けの夢。毎晩とは言わないけど、夢を見るなら大体ね。でも、いつも違う場所で見てる。夕焼けが見えないはずの私の部屋で、中学の教室で、母親の胸で。最初はそうして比較的近所だったんだけど。最近は世界中を巡ってる。乗ったこともないラクダに乗って、ざらざらする布の服を頭まですっぽりかぶって、見てたりする。何重にも厚い防寒具を着てるんだけど死にそうなほど寒くて、もうろうとした意識の中でってこともあった。ただよく晴れた山々のふもとで、やっほー、なんて言いながらも」
「それは全部、夕焼けを見ながらなんだ」
「そう」
「君は? 全部、今の君なの?」
「どういう意味」

 紅茶を一口飲んで、もったいぶるように彼は言う。
「赤ちゃんの君とか、中学時代の君。老人の君であったりしないの、って」
「ああ、うん。全部、たぶん、今の私」
「そっか」
「うん、そうなんです。だから、私はもしかしたら、とても無意識に旅に出たがってるのかもしれない」
「そう思ったんだ」
「思ってしまいました」
 砂糖壺から角砂糖をひとつ手にして、口に放り込んだ。じんわりゆっくり、形が溶けてゆく。この角砂糖が溶けきったら、また旅の準備をしよう、と思った。もうとうに月曜日になってしまったけれど、どうしたって今やらなければならないと思っている。このむやみな義務感は、いったいどこからやってきたのか。自分にも分らないでいた。
 彼が立ち上がる。ティーカップもポットもシンクに置いて。そのまま音を立てないよう、ゆっくり静かに洗い始めた。彼はきれい好きで、特に洗いもの好きだった。いまだキッチンの明かりだけなので、その彼の影が揺れるたび、すこし切なくなってしまった。
 ころころ角砂糖を舌で転がし、もうすぐ粒すらなくなるころに、ようやく彼が振り返った。にっこり、世にも優しく微笑んだ。
「ご飯を食べようか」
「夜食?」
「そう、おなかが減ったでしょう。疲れたらお腹が減るものだ」
「ごまかすの?」
「そうじゃないけど」
 フライパンを棚からごそごそ出しながら、彼は微笑み続けた。
「君は行かない。行こうとしても、僕は君を死ぬ気で止める」
「どうして」
「君には紅茶の淹れ方も何も教えてないから」
「そんなの、ティーバッグでいいよ」
「それじゃあ、だめなんだ。せめて紅茶の淹れ方さえ教えれば、君はどこへ行ったって、僕を思い出してくれるかもしれない。蒸らす数分間、その間だけでも思い出してくれるかもしれないなら、僕は快く見送れる。でもティーバッグじゃ、数分すらもらえない。だから、君が紅茶の淹れ方を覚えてくれるまで僕は旅を止めるよ」
 私は迷う。迷った一瞬、遠い国にいる自分が、紅茶を飲みながら彼に胸は馳せるところを想像して、つい切なくなってしまった。
 ごまかすように私は返す。
「紅茶愛とは思っていたけど、ここにきて途端に不純化したね」
「そうかなあ。複数の形であるだけだと思うよ」
「まあ、いいんじゃないかな。あなたらしいよ」
 私は笑って、珍しく彼の手伝いをすることにした。彼も珍しい、と口にしたほどだ。
「手伝う気になったのは、深夜だから?」
「夢を見たからかも」
「夕焼けだからかも」
「紅茶を飲んだからってのも」
「まあ、後付けはいくらでもね」
 そうだね、と返す私。そこでふと思いついたように彼が言う。
「ついでに今度の日曜日」
「なに?」
「夕焼け旅行に、近所の公園へ行こうか」
「いいね」
「紅茶は魔法瓶にいれて」
「うん、美しい」
 美しいね、と繰り返す私。
 そしてキッチンに立ったものの、特にやることがなかった。仕方なく目の前のフライパンにバターのかけらが落とされてあるのだけをじっと見ていると、肩をぽんぽん、と彼に卵で叩かれた。
「卵をどうぞ」
「卵焼き?」
「目玉焼きでも、スクランブルエッグでも」
「全部作ろう」
「オッケー」
 卵なら幸い今日買ったばかりだよ、と彼は笑う。幸せそうだった。紅茶のおかわりが欲しい、とわがままを言うと、洗ったばかりのポットたちをまた嬉しそうに出した。隣のコンロでお湯が沸かされる。
 ことこと、じうじう、さらさら。
 私はその音たちを聞いて、心より美しい気持ちのまま、卵をひとつ、フライパンにそっと落とした。とろん、と白身と黄身が広がる。それはまるで、いつか夢見た夕焼けのような。

( 100307 ) 戻る 
inserted by FC2 system