// 海の遺書

「姉がね、海にいるんです」
 同い年の男子なのに、まるで年上の男性から諭されるように言われた。そのくせ詩的な台詞で、わたしはつい笑ってしまいそうになりながら、尋ね返した。
「お姉さんいたのね、山口くん」
「はい、年の離れた姉でした。十五ぐらい、離れていたと思います」
「そりゃすごい」
 お父さんとお母さん、頑張ったのね、なんて下世話にもほどがあることはさすがに言えなかった。仮にも中学生の女子で、相手は仲良くないクラスメイトだ。滑りやすい口を止めて、ふうん、とむやみに相槌を打つ。
「それで、お姉さんは海の家にでも勤めてる人なの」
「いいえ、違います。言葉のとおり、海にいるんです。海に沈んでいる、と言ったほうが正しいんでしょうか。でももしかしたら海に浮かんでいる可能性もありますので、海にいると言わせてもらいました」
 海で死んだ、と考えていいのだろうか。別にこの町では珍しくはないことだ。町自体が海にとてつもなく近くて、この学校も窓を開ければいつだって潮のにおいが風に乗ってやってくる。教室の場所さえ良ければ、海も見える。だからその分、うちの中学でも毎年何人か海で行方不明になったり死んだりする人がいたりする。大人でも旅行で来た人も、誰かが簡単にいなくなる。それほど日常的で、でも決して慣れてはいけないことだと大人は何度も言っていた。でもその台詞にすら、私たち子供も大人も慣れてしまっている。
「そういえば、山口くんは休み時間にもよく海にいるね」
「はい、姉の泣き声を聞いていました」
「お姉さんの泣き声?」
 ここまで来たらもう、ただの好奇心だ。私はちょっとだけわくわくし、山口くんは耳をいじりながら、ええ、とまた大人びた返答をした。
「寄せては返す波の音が、姉の泣き声に聞こえるんです。姉は涙もろい人でした。ぼくよりずっと大人なのに、小さなことでいくらでも何度でも泣きました。波のように止まることなく、大きく泣いた後、我慢しようと少し声をこらえて、でもやっぱり大きく泣いて――と。姉に一度、聞いたことがあります。なぜ泣くのかって。泣いても、問題が解決するわけでもないのに。そうしたら、目を腫らしたまま、言うんですね」
 なんて、と先を急かす。
「ミルクティー、美味しいね、と」
「……はあ?」
「姉が泣いたとき、いつもミルクティーを入れてあげたんです。温かいものを飲むと落ち着くと母が言っていたので」
「夏でも温かいものはどうかと思うけど、まあ……お姉さんは結局、山口くんの答えをごまかした、ってこと?」
「いえ、そのあと、ちゃんと答えてくれましたよ」
 じゃあそっち早く言えよ、と言うのはなんとか抑えた。これで機嫌を損ねたら、せっかくの好奇心もどうしようもない。しかし山口くんは私のことなんてまったく気にしてないように、マイペースに、ゆっくり喋り続けた。
「姉は優しく言いました。解決しても、どうしようもないことってあるでしょう。そうね、例えは悪いかもしれないけど、殺人事件とか。加害者が刑務所に入れられたり、お金を払ったりしたら、世間的には解決だわ。でも遺族の人はやっぱり悲しい。泣いてもどうしようもない。だから私は泣くの。……僕はだからってどういうこと、と聞き返しました」
「そりゃね」
 だからの意味がさっぱりわからない。うっかりお姉さんは説明下手だねえ、とついにぼやいてしまったのだけど、ええ、本当に、と山口くんは肯定するだけだった。
「姉は、ミルクティーを飲みほして言いました。つまり、解決よりも心の整理がずっと難しくて、時間がかかるわ。私は解決なんて求めない。ただ、泣いて私の心が整理できたら、とても幸せなことだと思う。だから、泣き続けるんだと思う」
 山口くんは笑っていなかった。でも、優しい眼をしていた。
「そう偉そうなことを言ってたんですけどね、姉は僕に聞かれて、初めて自分の泣く意味を考えたと言っていました」
「ふうん、でも、聞いている限り素敵なお姉さんだね」
「ええ、良い姉でした。……いえ、姉としては力不足かな。単純にとても良い人でした、ですかね」
「厳しい言い方だ」
「そうですかね」
 こいつはえらいサディストだ、なんて思ってやっぱり口には出さない。サディストに逆らえるほどの力はまだ持っていなかった。
「でも、結局姉はどうしようもないことにぶち当たったんでしょうね」
 指でシャープペンをいじりながら、遠い目をする山口くん。さすがに聞きづらいなあ、と思いつつ、おずおず尋ねた。
「……海でお亡くなりになったのは、事故じゃないの」
「自殺です。理由はわかりません。ただ、ミルクティーを飲んでも泣いてもだめだった、わかるのはそれだけです」
「冷めた言い方だね」
「そうですかね」
 さっきとまったく変わらない声色で言い切った。困った私はしょうがないね、とかなんとか、よくわからない返し方をするだけだった。この会話をしたのはたしか夏が始まったころだったから、まだ日が落ちてなくて、空はかすかにオレンジ染みてるだけだった。それだけははっきり覚えている。
 それから、私と山口くんは二度と話さなかった。そもそもあれが話したのが初めてだ。なぜあんな話題になったのかも、今となってはさっぱり思い出せない。かといって、何か問題になることがあるわけでもないので、どちらも話しかけることはしなかった。
 それから一カ月後の夏休みの最中、ぐったり昼まで寝ていた私に担任から電話がかかってきた。山口くんが行方不明だという。何か知らないか、変なことは言っていなかったかと聞かれた。私はそっけなく知らない、と返す。別にあのときの会話を忘れたわけではない。変なことではないと思ったから、言わなかっただけだ。ただ逆に、誰かに変なことを言ってたとでも聞いたんですか、とこれまた好奇心で尋ね返した。担任は少し迷ってから、木ノ内くん(クラスの委員長の、ちょっと格好いい男子)がたまたま行方不明になる直前の山口くんと会ったことをもらした。
 木ノ内くんは友人との待ち合わせ場所に行く途中、夏休みなのに制服でしかも裸足で歩いている山口くんとすれ違ったのだという。海につながる細い道でだそうだ。しかし、その道は舗装されていないし他にもいくらだって海へつながる道があるからそこを通る人は少ない。そしてその道を山口くんはぼんやりと海に向かって歩いていたというので、さすがクラス委員長である木ノ内くんは、仲良くもないのについ声をかけたそうだ。
「よお、山口。海に泳ぎに行くのか?」
「姉が呼んでいるんだ」
 山口くんは世にも優しいふんわりとした表情で言うし、木ノ内くんは彼のお姉さんが亡くなっていることなんて知らないので、そうかそうかと別れてしまった。担任は私が聞いてもいないのに、木ノ内くんが俺のせいだと泣いていることをぺらぺらしゃべった。私は話を促すのが上手いんじゃないのかという錯覚を覚えつつ、そうですかあ、と適当に相槌を打った。
「海も一応探してもらってるんだけどな……いや、あんまり喋って関係ないお前を心配させるのも悪いな。大丈夫だ、山口はすぐに見つかる。ぼやっとした奴だけど、変なことはしないからな」
 変なこと言っていないかと聞いて回ってるてめえが言いますか、と思いつつ、ですねー、とまた相槌を打った。
 電話を切った後、迷わず自分の部屋に戻ると潮のにおいが鼻をくすぐった。クーラーをがんがんにかけていたはずなのに、勝手に祖母が入ったのかクーラーも扇風機すらも消されて窓が全開にされていた。すっかり電話で目が覚めてしまったので、寝る気にもなれなかったから良かったけれど。
 私は窓際にもたれかかり、海を見た。きらきら水面が反射して、波は寄せては返し続けていたのだけど、何人もの人間を飲みこんでいるんだよなあ、と今日ばかりは感慨深かった。そしてはっきりと胸の中で、きっと山口くんはもう戻ってこないだろう、と思っていた。山口くんを真似て、波の音を聞いてみる。ざざーん、ざざーん、とどう聞いても泣き声じゃなくて波の音なのだけど、泣き声だと思い込んだ。特に楽しくはない。
 まあ、いずれにしろ山口くん、君がお姉さんの元へ行っても、お姉さんは泣いたまんまだよ。むしろ私には、君とお姉さんの泣き声の二重で、今日はやたらうるさく聞こえるよ。
 ざざーん、ざざーん。波の音は止まない。なんだか急に、熱いミルクティーが飲みたくなった。

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