// その嘘は優しくない

 彼女が親の仕事の都合で引っ越すことを知ったのは、つい数日前のことだった。幼馴染ではあったが、中学でいくらか疎遠になったため、知らなかったのもしょうがない。母づたいに聞いたのも、少し奇跡的だ。最後だから、あの子の好きだったクッキー持って行ってあげて、と母が言う。僕は隣の家に行くことを断るほど忙しくはなかったので、了承した。たぶん、母なりに気を使っているところもあるのだろう。
 あら、久しぶりね、ずいぶん大きくなったわ、でももう、しばらくあなたを見れないのね、残念だわあ。頬に手をあてて、おばさんは囁いた。たしかに久しぶりに会った気がする。しかしかといって、その思い出話に花を咲かせることもあるまい。僕はあいつはいますか、母のクッキーがあるんですけど、と返すと浸っていたおばさんははっとしたように謝る。ごめんなさいね、つい懐かしくてね、呼んでくるわ。階段を駆け上がっていくおばさん。
 そしてすぐに、彼女は現れた。ゆーくん、久しぶり。馬鹿にしたような笑いを浮かべて、階段を下りてくる。ああ、久しぶり、と僕は無表情に返した。クッキーありがとう、うれしい、お礼を言っておいて。差し出してすらいなかったクッキーを僕の手から奪い取って、本当にうれしそうに笑う。怒るべきところだったかもしれなかったが、その笑顔につい許してしまった。
 懐かしいね、本当に、最近喋ってすらなかったもんね、ゆーくん、中学入ったくらいから急に無口になるんだもん。反抗期かな、とからかうように言ってくる。そんなんじゃない、と言うとまた笑う。彼女はよく笑う。そういえば、小学校の卒業旅行で私が事故に合いそうになったところ、かばってくれたころだっけ。思い出すように、遠くを見ながら彼女は言う。さあ、覚えてないな、と僕はぼやく。嘘、覚えてるでしょ、とすぐに突っ込まれた。あの事故で怪我しなかったのは奇跡的だって、お母さんもお父さんも言ってたじゃない、もう、私も感謝してもしきれないって、今でも思ってる……。それから、彼女はしばらく何も口を開かなかった。しばらくして、さて帰ろうとしたところで肩をつかみ、引き止められる。
 待って、ゆーくん、ねえ、こっちを向いて。僕はそちらを向く。何、と返すと、戸惑ったように迷ったように、小さく口を開いて言った。
 ご、め、ん、ね。
 僕は何を謝ることがあるんだ、と怒ろうとすると、頭に衝撃をくらった。彼女がぐーで殴ったのだ。ばか、ばか、ばか、ばか! クッキーが床に散らばってることも気にせず、彼女はわんわん泣きながら殴り続けてきた。  ばか、ばか! 本当にばか! 私、今、何にも言ってないわ! ただ口だけ動かしただけよ、やっぱり、やっぱりあの事故で耳が聞こえなくなっていたのね、ばか! ばかあ……!
 彼女は座り込んで、泣き喚いた。なぜ僕が加害者のようになっているんだろう。たしかに僕は何も聞こえない。口の動きでどうにか理解しようと頑張っているぐらいだ。でも事故が原因とは限らない。ちょっとずつ耳が遠くなって、ちょうど彼女の引っ越しが決まったころに完全に聞こえなくなった。だから彼女のせいとは限らない。
 だから僕は、囁きながら彼女の頭のなでた。悪くない、悪くないよ、僕は君が好きだから、と。うまく言えているかもわからないけれど、ただ彼女の涙がさらに増した気がした。

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