// また雨の日に

 雷が鳴っている。今日は幸い外に出る用事もなかったので、カーテンも閉めず窓に打ち付ける雨をじっと見ていた。むしむししていたけれどクーラーも扇風機も付ける気にはなれなかった。代わり、と言っていいのか多少悩むが、それらしくクラシックを流したり、インスタントのコーヒーを淹れたりしていた。そして雷が近付いてくるのを静かに聞く。
 結局雷ばかりで、クラシックはほとんど聞いていなかった。本当に、それらしく、流しているに過ぎない。そもそも、そのクラシックCDは音楽が好きだった友人が忘れていったもので、元々興味がないせいもある。ただ消そうとは思わなかった。静かな室内で雷の音だけを聞いているのは、きっと今よりずっと怖いに違いないはずだ。
 そうして雨と雷を見聞きしながらコーヒーをがぶがぶ飲み続けて、はや数時間経とうとしていた。これに飽きたら何をしようかと悩んでいたが、どうも悩む必要はなさそうだ。そもそも悩む時間が既に十分暇つぶしである。ため息をついて四度目のおかわりをしようかと立ち上がったとき、チャイムが鳴った。
 頭の中で今日の予定をぐるりと思い出し、カレンダーも見るがもちろん空白だった。客人を呼んだ覚えはない。何か物が送られてくるような覚えもない。そういうとき、いつもなら無視するところを今日は覗き穴すら見ずに開けてしまった。雨のせいかしら、と適当なことを考えながらも開けてからしまった、と後悔する。私が後悔するときは、大抵こんな感じだ。
 そこにいたのは、見知らぬ男性だった。いや、どことなく雰囲気が幼い――初々しいせいか、男性という言葉は似つかわしくない。まだ高校生ぐらいに見えたけれど、実際は大学生ぐらいなのだと思う。この強い調子の雨のせいか傘を持っているのに青いシャツがすこし濡れていた。幸いというべきか、犯罪をする度胸も押し売りをするような気勢も感じられない。
 安心したけれど、まだ気は抜けない。怪訝な顔をしてしまったが、つとめて冷静でいようとした。
「どなたですか」
 そう尋ねると、彼は眉を八の字にしてあからさまに困った顔をした。しばらくその顔のまま反芻してから、口を開く。
「上の部屋の者です」
 と、彼は言った。続けて丁寧にどの漢字かも説明しながら名前を告げる。たしかに聞き覚えがある名前だった。その顔もよく見るとどこかで見たことがある。眉間のしわを緩めると、彼はほっとしたような表情を見せた。
「ごめんなさい、私、物覚えが悪くて」
「いえ、こちらこそ、突然押し掛けてすみません」
「いえいえ。ところで、ご用は何でしょうか」
 謝れば謝り返され、終わりが見えないので本題に入る。すると彼は思い出したように、手にしていた傘を差し出してきた。やはり普通のビニール傘だ。改めて怪訝な顔をしたが、朗らかな顔でそれを押し付けてくる。
「あの、返すの遅くなってすみません。忘れていたのも多少あるんですけど……今日、雨になって急に思い出して」
 その、と言い訳じみた言葉をつむいでいく。こちらが何も言わないのが、かえって罪悪感を募らせているようだ。そんなに慌てられても当の本人である私がまったく事を思い出せずにいるのだから、なんだか申し訳なさがたたる一方だ。
 彼の語る話を拾うに、もう一年ほど前のことだという。一年前、ビニール傘、彼、私。その言葉たちで、ぱっと記憶がよみがえる。
 たしかあれは、強い雨が降っていた日で仕事の帰りだ。彼がアパートの屋根の下を出るか出まいかもどかしげに迷っていたところで声をかけたのだ。今みたいに困った顔をして、おずおずと事情を話す彼が記憶にある。そう、彼は傘がないんです、と心細げに小さくつぶやいたのだ。コンビニかスーパーに寄って買えればいいのだけど、どちらも目的地である駅より遠い。駅に売店があればいいけれど、それもないし、と首をひねって言っていた。
 なんだそれぐらい、と私はそれに呆れたはずだ。駅なんてそう遠くないんだし、男なんだから走っていけばいいじゃない、とかなんとか適当に言った。しかし、彼はそれに本気で憂鬱そうな顔で返してきた。
「いえ、僕が濡れるのはいいんです。でも、それで電車に乗るのは迷惑かなって思って……止むのを待ってたんですけど、強くなる一方で」
 語尾は苦笑で締められる。そこで、ああ、この人は本当にいい人なだけなんだなあ、と思ったのははっきり覚えていた。育ちのいいおぼっちゃんなのかもしれない、とも。しょうがないので手に持っていたビニール傘を差し出し、使うよう勧めた。最初彼はひどく拒んだが、自分がどれほど雨の日外に出ないか、珍しく雨の日外に出るたび買った傘がどれだけあるか、彼が用事に間に合わなくなるか、いろいろ説得してなんとか貸したのだ。彼も急いでませんし、申し訳ないしと繰り返し断るので苦労した。今思えばなぜ自分のぐうたらさを晒してまで頑張って貸したのかわからない。
「でも、あなたのおかげで本当に助かりました。ありがとうございます」
 微笑む彼を見て後悔こそ感じないが、自分の行動には疑問が残った。やっぱり、雨だからなのかしら、なんて。彼の背中越しの空は、まだ重い灰色だった。雨が止む気配もない。
「あ、それでお礼……にもなってないんですけども、これ、お菓子です。家にあったやつで申し訳ないんですが」
 と、本当に申し訳なさそうにスーパーで売っているクッキーの箱を差し出す。嫌いなやつじゃない。受け取ってお礼を言うとまた、いっそう申し訳なさそうに首をすくませた。
「いえ、ほんと、こんなんじゃお礼にならないのは分かってるんです。だから、いつかちゃんとしたお礼をさせてもらいますから」
 本当にいつかですけど、とまた困った顔。もう癖になっているのかもしれない。性根が素直なんだろう。私は思わず微笑んだ。
「それじゃあ今、してもらおうかな」
「え?」
 首をかしげる。私は微笑みを深めた。
「ねえ、今暇?コーヒーは好きかしら」

 向かいの座布団に彼は座った。また押し問答を繰り広げたがお礼と言われると断りきれなかったらしく、以前よりは簡単に折れてくれた。はじめは居心地悪そうに座っていたが、クッキーとコーヒーを差し出すと嬉しそうな笑みを見せた。私も座ってクッキーをつまんだが、あっさりとしていて美味しかった。彼がちらりと視線をよこす。
「美味しいですか」
「うん、意外と。最近こういうの食べてなかったから、なんだか懐かしいし」
 そうなんですか、と彼は喜んでみせた。
 それから、話すこともなく二人でぼうっと外を見ていた。雨が強まったり弱まったりする光景であったり、灰色の空が一瞬光る光景であったりをじっと見続けた。誘ったくせにこんな何もないのが申し訳なくなってきたので、沈黙を埋めるように彼に尋ねた。
「聞いてもいいかな」
「はい、えっと、何をですか」
「あの日、あの傘貸した日ね、どこへ行くつもりだったの。急ぐことじゃないって言ってたわりには慌ててたから。単に傘を断るための言い訳だったかもしれないけど」
「ああ……」
 ふっと視線をそらした。窓に視線をやっているが、話すべきか迷っているようだった。無理して話さなくてもいいの、プライベートなこと聞いてごめんなさい、と謝る。それが逆に言わなければならないような気分にさせたらしく、ううん、と一唸りして逆に尋ね返してきた。
「すごく、その、第六感的な話なんですけどいいですか」
 彼は第六感と言うあたりで、ちょっと後悔するような顔つきをした。しかし第六感と言われてもピンとこない。つまりは勘だとかそういう話なのだろうが、どう関係するのかさっぱりなので、とりあえず頷いておいた。
 彼はほっとしたようにしゃべり始める。視線はやはり窓にあった。私も視線を同じ方向へ。
「あの日は別に何もなくて、今日みたいに雨が降っていた普通の午後だったんです。でもなんだか、急にはっとしまして。……本当に、はっと。ばあちゃんに何かあった、って思ったんです。もう何年も連絡取っていなかったんですけどね。……ちょっと話かわるんですけど、うちの実家、隣町にあるんです。それで、その家族が結構どろどろな関係なんですよ。それこそ説明するには養父だとか継母だとか不倫だとか隠し子だとか、昼ドラみたいな単語がごろごろ出る感じで。だからとにかく早く家を出たくて、高校の在学中に一人暮らしを始めたんです。それ以来実家には最低限連絡を取らないようにしていたので、そのせいでばあちゃんのことも何もかもわからないままで」
 やっぱり、どれだけ嫌でも連絡を定期的に取っているべきでした。そう、ささやく。泣いているのかしら、と目を向けたけれど、その横顔はなんら変わっていなかった。しかし、その澄んだ瞳はとても厳しい目をしていた。
「でもほんと、わけのわからないぐらい大きな不安が押し寄せてきて、これを消すには電話だとかメールじゃだめだと思ったんです。直接家に行こう、と一人暮らしを始めてから初めて考えました。でもやっぱり根拠のない話でしょう、雨の中でも突っ走って行くべきだったかもしれませんが、雨を理由にやっぱりやめるべきじゃないかなとも考えていたんです。そうしたら、あなたが声をかけてくれて」
 照れくさそうに笑う。
「行かなきゃ、って思ったんです。この勘はそういう従うべきものなんだと、そう思ったんです」
「うん、結局、実家に帰ったのね。どうだったの、おばあちゃんは」
「ええ、その日の……その日の二週間前に亡くなっていたそうです。去年もこう、蒸し暑かったでしょう。だからすぐに簡単な葬式済ませて火葬に出して、とっくにことは終わってお骨になっていました。でも家族は十分びっくりしたみたいですね。俺に一切連絡してないし、それをわざわざ伝えるような人間なんていないのにって。自分でも驚きました。第六感を感じるにしたって時差ありすぎ、ってのも思いましたけど」
 彼は私の顔をちらりと見てから、こんなところです、と話を終えた。彼はなんだかやり場のない手でクッキーをつかみ、コーヒーを一気に流し込んだ。砂糖もミルクも入れていないのによく一気飲みできる、とすこし感心した。
「でも第六感が働くぐらいだから、相当おばあちゃんのことが好きだったのね」
 素敵な話だと思った、本当に。私が祖父母を亡くしたとき、そんなことは一切なかったからだ。仲が悪いわけではなかったけれど、単純に私の第六感が働くほど鋭くなかったってだけだろう。幼い彼と見たこともない彼の祖母が安らぐような笑顔でしゃべっているのを想像して、思わず目を細めた。
 しかし予想外にも彼はきょとんとした顔をしていた。いったい何を言ってるんだ、とでも言わんばかりの顔つきで。
「……ああ、そうかあ。そうですよね。普通ならそういう話になりますよね。仲が良かったり、愛されていたからとか、そういう感動話ですよねえ」
 しみじみと語る。私はまだよくわかっていなかった。
「どういうこと?」
「いえ、むしろ嫌われていたので。祖母に。さっき言ったとおりどろどろの家族だったので、祖母とは血が繋がってなかったんです。うちの家系じゃないからこんな馬鹿なんだねとか、あんたの間抜けな親みたいに早く死ねばいいのにとか、小さなときから言われてましたね。だから本当に昼ドラを想像してもらえばいいです、それが実家そのままですから」
「……言っちゃ悪いかもしれないけど、おそろしいね」 「成長して離れてみると、そう思います。でも昔は比べる対象がなかったですから、祖母の言葉を流したり、本当に死ぬべきなのかもなって考えたりしました」
 彼の空になったカップに、コーヒーのおかわりをそそぐ。頭を下げてお礼を言われる。この話を聞く前ならば、やはり育ちがいいのだなあと感じるだけだったろうが、今ではまったく違う印象を抱く。
 結局、実家が反面教師だったって話なのだろう。そうやって簡単に悪意をむき出す家族に嫌気がさして、自分はそうなりたくなかった。悪意じゃなく、善意を満たしたかった。そういう生き方を心がけているように思えた。きっとまだ彼が語っていない、もっとひどいことがあっただろうし、さらっと死を考えことを言っていても本当は死ぬほど悩んだりもしたのだろう。すべて私の想像に過ぎないのだけど、こうして考えて生きるためには時間がたくさんかかったはずだ。
 なぜだか涙ぐみかけたのを必死で押さえ、彼に問うた。
「でも、それじゃあなんで、おばあちゃんの死を感じたのかしら。やっぱりあなたが感じた、そういう従うべきもの……運命、だったのかしら」
「運命って呼ぶにはちょっと大げさかもしれないですけど、それを経てまた新しい何かが生まれたのかもしれません。何事も何かに通じるものですから」
「私との縁とか?」
「……それかもしれませんね」
 驚いたような顔つきだった。冗談だったのに、なんだかそう真面目に取られると恥ずかしくなる。やっぱり一年のタイムラグがあったけどね、とごまかすように言うと彼はおかしそうに笑った。コーヒーをこぼしそうになるほどに。
 それから彼は部屋に帰っていった。何度も頭を下げて、何度もお礼を言っていた。ここで空が晴れて虹が出ていたりすれば格好がついたのだけど、雨は止んでいなかった。多少弱まっているものの、風がごうごう吹きすさんで彼の髪を大きく乱した。仕方ないです、だって俺昼ドラ男ですから、と彼が言い切ったのは、思い出すたびに笑いがこみあげる。
 今日彼はたまたま部屋にいたのだけど普段はバイトやサークルで忙しく、友人の家に泊まることも多いのでほとんど家にいないらしい。たしかに傘を貸した時ぐらいしかまともに姿を見たことがない。もう傘も返してもらってお礼もしてもらったので、そう会うこともないはずだ。
 しかし帰り際、冗談混じりの約束を思い出す。
「またいつか、雨の日に」
 それは一年後か五年後か十年後か、あるいはもっともっと遠い未来か。しかしまあ、袖振り合うも多生の縁。袖どころか傘を貸したのだから、かならずどこかで会える気がしなくもない。
 いずれにせよ慌てることはない。気長に待てばいいことだ。また雨の日に、窓際でお茶でもしながら、ね。

( 090930 ) 戻る 
inserted by FC2 system